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2 女性たちの戦争体験
体験記

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 軍属となった女性たち

○ピンクの召集令状

 松田※※(大正十二年生)

 比謝矼のお菓子屋さん

 戦前、私の実家は比謝矼で菓子屋を営んでいました。サーターアンダギー(砂糖・小麦粉・卵などを材料にした揚げ菓子)やタンナファクルー(小麦粉と砂糖、膨らし粉を材料にした焼き菓子)、ポーポー(小麦粉を水でといて薄く平たく焼き、巻いたもの)、饅頭、落雁(らくがん)(粉菓子)などのお菓子を作り、店頭には中にビー玉の入ったラムネなどの飲み物も並んでいました。このラムネと菓子でちょうど七銭でした。当時の比謝矼は賑やかで商店が建ち並び、都屋辺りからイユウヤー(魚売り)、楚辺辺りから野菜売りなどが行き交っていました。その頃比謝矼は七一世帯だったと区長さんから聞いた覚えがありますが、比謝矼には耕作地がないので、商売をする家がほとんどでした。
 うちではウサギを飼っていたので、よく長田の山に弟達と遊びながらウサギにやる草を刈りにいきました。その時父親に、ウサギにやっていい草とやってはいけない毒草とを教えられました。このことが、後に思いがけず自分が生きる為に役立つことになりました。

 軍属として召集される

 私は昭和十八年九月頃、軍属として召集されました。男の人は赤い召集令状でしたが、私達はピンクの令状でした。八人の女性が一緒に球部隊の航空兵站部の救急隊に配属されました。航空兵站部は比謝矼の川沿いの窪みにありました。私たちはそこで炊事をしたり、ケガ人の手当等をしていました。その時一緒に召集された八人の中で生き残ったのは三人だけです。二人は那覇の人でしたが、そのうちの一人は残念な事に戦争の衝撃がもとで話さえもできない状態になっています。
 昭和十九年頃になると私の家にも軍隊が入ってきました。さらに家業の菓子製造は、材料が入手できなくなり、製造中止となりました。家も店も軍が使用し、家族は台所の片隅で暮らす破目になりました。

 喜瀬武原の壕へ

米軍の上陸が近づいてきたということで、昭和二十年三月三十日、私達は兵隊と共に国頭の方へ向かいました。髪を切って鉄兜をかぶり背中にも肩にも救急袋を持っただけで、食料などは全然持っていませんでした。その時一緒だったのは航空隊の下士官、陸軍の見習い士官十一人と私達女性軍属八人、それに馬車ムッチャーでの移動でした。落ち着いて話す余裕もなかったのですが、熊本や長崎の兵隊が多かったように思います。
 喜瀬武原に着くと、防衛隊が掘った横穴式の壕があり、一番手前の壕には防衛隊が、その奥には下士官が、そして一番安全な奥の方には航空兵七人と軍属八人が入っていました。
 下士官達は軽機関銃しか持っておらず弾も底をついていました。兵隊達は銃を杖にしていました。私達は短剣と手榴弾を持たされていましたが短剣は無用の長物だと、夜間捨てました。しかし手榴弾だけは肌身離さずに持っていました。なぜなら、私達にとって手榴弾は非常に大切なものだったからです。常々、「手榴弾は大事なものだから、むやみに使うな」と言われ、いざという時(アメリカ兵に捕まるようなことにでもなれば)は、これでいさぎよく自決しなさいということでした。そして、手榴弾でどうすれば死ねるかということも教わっていました。それは歯でかんで安全栓を引き抜いてから、両手で胸に抱えこんでうずくまるというやり方でした。頭の中にあるのはいつも「死」そのものでした。

 同僚の※※ちゃんの死

 安富祖橋を遮断すればアメリカ兵は渡れないという事で、護郷隊の人たちが私達の所にきて、「斬り込みに行って橋を遮断する」と言っていました。山のほうから見るとすでにアメリカ兵達は橋の所に沢山いました。そこを、めがけて上から手榴弾を投げました。ところが兵隊が投げた手榴弾は届いたのに対し、私達が投げたのは届かずに途中で爆発して土煙をあげました。アメリカ兵は私たちをめがけてパラパラパラーと銃を撃ってきました。みな散り散りバラバラになったので何が何だかわからない状況でした。兵隊達は逃げるのが早かったのですが私達は逃げ遅れてしまいました。その時八人いた軍属の仲間が六人になっていました。木の枝にヒラグンのカタハラ(三つ編みした髪の片方)が掛かっているのが見えました。死体はすっかり散乱していたので、せめてそのカタハラでも埋めてやろうと思ったのですが、手が届かないので埋めることもできないし、自分自身も大変でそれどころではありませんでした。あのヒラグンのカタハラは、今でも夢に出てきます。
 途中「※※ちゃんがいないよ」と誰かが言ったので探しまわると、※※ちゃんは倒れていました。※※ちゃんは元々足が少し不自由だったので、とにかく助けようとの思いで、※※ちゃんの手をつかまえて引っ張っていきました。みんな逃げなければ、という思いだけで前へ前へと進むことしか頭にありませんでした。
 しばらくすると、向かい側からいろいろな荷物を担いだ男の人と髪がボサボサの女の人がやって来ました。その女性が「ネーサンターヤ、兵隊ルヤサヤー」と近づいてきました。するとその人が「ハッサヨー、ハッサヨー、あんたは何をひっぱっているの!」と言われたのです。私達は引っ張ってきた※※ちゃんを見てビックリしました。手を引っ張ってきたつもりが、足を持っていて、デコボコ道を引きずってきたので頭は潰れ、髪もクシャクシャになっていたのです。無我夢中で※※ちゃんを助けたつもりでいたのに彼女はすでに事切れており、私達が引っぱっているのはあわれな死体だったのです。
 その時、一緒だった男の人が黒砂糖を一かけら持たせてくれました。何も食料がない時で、この一かけらはとても貴重なものでしたが、その頃「何でも兵隊さんへ」という思いがあったのですぐには食べずにずっと手の中で握っていました。

 避難民からの食料略奪

 私たちは兵隊とずっと行動を共にし、昼は食料を集め、夜はあてもなく彷徨うという毎日でした。私達がいなくなると食事にも困るので、兵隊は私達をなかなか手放しませんでした。山や畑からウサギが食べていた草を集めて兵隊に持っていきました。父に教わった毒草を覚えていたことが、命をつなぐことになりました。またフィリピン帰りの兵隊さんに山にいる虫の食べ方を習いました。一〇センチ程の虫を指に挟み、ナイフでワタをとってパクリと食べました。那覇のお嬢さん育ちの人はそれが食べきれず、栄養失調になっていましたが、私は食べました。虫のお陰で命をつないだので、今も庭いじりで虫が出てきても絶対に殺すことが出来ません。
 また、足跡の窪みに溜まった雨水を両手ですくって飲み、その後は這って直接口を地面につけて泥水を啜ることもありました。不思議なことにお腹をこわすことは全くありませんでした。このことを思い出すと、人間は生きたいという意志があれば、毒以外なにを食べても生きていくことができるものだなと思うのです。
 山中の避難民は夜になると山から下りて食事を作っていました。それを知っていた兵士が、ある日避難民の作った食事を取って来いと命令しました。私達もノドから手が出るほど食べ物は欲しいのですが、同じ民間人の食料を奪うことは出来ないと断ると、「命令を聞かないのか」と言われました。兵隊が上から懐中電灯を照らして下へおりて行き、上から友軍が鉄砲を撃つと、下の避難民はアメリカ兵と思って食料をそっちのけにして逃げて行きました。それを取ってこないと私達も殺されるので、背に腹は変えられず民間人の食料を取ってきました。
 当時の避難民は昼はアメリカ兵に脅え、夜は友軍に悩まされて、心休まるひまもありませんでした。敵軍のアメリカ兵よりむしろ味方であったはずの友軍の方が怖かった様に思いました。民間人は男性である事を隠すために髪を伸ばし顔には煤(すす)をつけ、女の着物を来ている人もいました。

 逃亡

 最初八人だった仲間も六人になり、※※ちゃんは死亡し、また一人は行方不明になり、とうとう四人になっていました。私達四人はこうしてはいられないと、昼兵隊が寝ている間にグミを取って来ると言ってそのまま家族が避難している国頭に向かいました。
 途中、子どもをおぶって、手にはジューシー(雑炊)の入った鍋を持ったまま死んでいる人を見ました。いったん通り過ぎたのですが、ひもじさのあまり引っ返して、鍋を取って逃げました。その中には蛆虫も入っていたのですが「おいしいおいしい」と言って食べました。お椀もないので交代で鍋から直接食べました。
 また道端に座っていた人が、「どうぞ情けをかけて、あなたの手榴弾を下さい」と頼んできました。その人は片腕が肩からもぎ取られ、残った腕もひどく負傷していました。たしか国頭からきた護郷隊で三中の生徒だと言っていました。名札の最後の文字が「郎」だったことを覚えています。その頃は手榴弾を持っている人が、神様のように見えるほど大切なものだったので戸惑いましたが、私は一つしかない手榴弾をその人に渡しました。その後、その人がどうなったかは分かりません。その後私は、手榴弾を握ったまま死んでいる兵士を見つけたので、固くなった指を一本づつ開いて手榴弾を取りました。
 一生懸命逃げたつもりだったのですが、結局兵隊のいる元の所に舞い戻ってしまいました。「食料をさがしにいったところ道に迷った」と嘘をついたので、殺されずに済みました。

 直撃弾

 壕の入口に防衛隊の馬二頭をつないでいたのが米軍に見えたのでしょうか、防空壕の入口に直撃弾を喰らい、付近に居た人はほとんど亡くなりました。二番目の壕もその弾で吹きとばされました。私は壕の一番奥で伏せていたのですが、気を失ってしまいました。筵(むしろ)がわりに下に敷いてあった木の葉等も全部吹っ飛んでいました。気がついた時はすでに夕方になっており、悲しいことに私の右耳は完全に聞こえなくなっていました。
 体の上には大量の土砂が被さって、這い出そうにも出られませんでした。生き残ったのは女の軍属のうち三人だけだったのです。
 ヘゴの芯を炊いただけの昼食が済んだ直後の出来事でした。

 捕虜

 昭和二十年八月十六日、大勢のアメリカ兵が私たちの潜んでいる所を包囲し、機銃掃射をしながら包囲を狭めてきました。私たちは逃げるに逃げられず、身を伏せて弾を避けていたのですが、アメリカ兵が着剣して入ってきて、ついに喜瀬武原で捕虜になりました。アメリカ兵に誘導されて行くと、八〇人ぐらいの捕虜が集められていました。トラック二台に乗せられた私たちは、このまま海に捨てられるのだと覚悟を決めていました。
 しかし海へは行かずに、兵隊と一緒に屋嘉の収容所に連れて行かれました。私達は少年兵だと思われていたようで、ドラム缶のお風呂に入ったときに誰かに見られていたのか女ということがわかり、別のテントに移されました。私達は屋嘉収容所で九日間滞在した後、石川の収容所に移されました。
 石川からは米兵の運転するトラックに乗って、読谷飛行場に作業に出たこともありました。その頃、母が比地にいることを知りました。母のいとこが諮詢会にいたので、そこのジープで母を迎えに行きました。そうして母と二人、石川収容所で生活をしているところへ、師範学校在学中、鉄血勤皇隊員として従軍していた弟の※※が帰って来ました。そこで家族三人が再会しました。しかし父はすでに戦死していました。残念ながら比謝矼より南の方で死んだという事以外、何も分からずじまいです。

 二度と戦争が起らないように

 後日、聞こえなくなってしまった耳の補償をしてもらうため病院を訪れ、手続きをしようとしました。医者にも見てもらいましたが、当時の状況を証明する人を連れて来るようにと言われました。しかしそれを証明する人は誰もいませんでした。死人にどうして証明が出来るでしょうか。若き命を散らした当時の様子が脳裏をかすめ、くやし涙がこぼれます。
 戦争はテレビやマンガのようにカッコいいものでも、楽しいものでもありません。私はそれを身をもって体験しました。自分の体験を子や孫に語ることによって、そのことをよく分かってもらい、二度と戦争が起こらない事を心の底から念じます。

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