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2 女性たちの戦争体験
女子学徒隊
沖縄戦では、戦前沖縄にあった中等学校・師範学校(男子一二校・女子九校)の生徒二、三〇〇人余が「鉄血勤皇隊」「女子学徒隊」などに動員され、その半数以上が亡くなった。戦後幾度か映画にもなった「ひめゆり」をはじめ、「白梅」「ずゐせん」など、少女たちの戦禍は多くの人々の心を打ってきた。ここでは、読谷山村出身者が参加していた「ひめゆり学徒隊」、「白梅学徒隊」、「ずゐせん学徒隊」、「積徳学徒隊」について見ることにする。
まずそれぞれの入隊から撤退経路、解散、投降までの概要を「沖縄戦の全学徒たち」展報告書(ひめゆり平和祈念資料館、平成十二年三月三十一日発行)から要約する。
ひめゆり学徒隊
沖縄師範学校女子部
沖縄県立第一高等女学校
昭和二十年二月南風原国民学校の沖縄陸軍病院(南風原陸軍病院)で看護訓練始まる。
三月二十三日深夜、学校から沖縄陸軍病院へ動員される。動員後、生徒たちは本部指揮班、炊事班、看護班、作業班に編成され、壕掘りや衛生材料の運搬に従事する。
三月二十八日一高女三、四年生一六名が津嘉山経理部へ配置換えとなる。
三月二十九日陸軍病院三角兵舎で卒業式が行なわれる。
四月十九日一高女三年生二一名が一日橋分室へ配置換え。後にその中から識名分室へ一〇名が配置換えとなる。後、二名合流。
四月中旬生徒たちは本部、第一外科、第二外科、第三外科に分散配置され、負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬、伝令などに従事。
四月二十八日師範生一四名が玉城村の糸数分室へ配置換えとなる。
五月二十五日陸軍病院、南部へ撤退。撤退までに八名の生徒が死亡、二名が重傷、撤退の途中一名死亡。
五月二十六日摩文仁村伊原へ到着。山城本部壕、波平第一外科壕、糸洲第二外科壕、伊原第三外科壕、伊原糸数分室壕(後の伊原第一外科壕)へ分散配置する。
五月三十一日津嘉山経理部、南部へ撤退。
六月十日津嘉山経理部の生徒に解散命令。伊原第一外科壕へ合流する。
六月十一日一日橋・識名分室の生徒、伊原第三外科壕へ合流する。
六月十四日山城本部壕に直撃弾を受け、伝令に来た生徒二名死亡。
六月十五日米軍の侵攻により山城本部壕の生徒は、伊原第三外科壕と太田壕へ移動。同日、波平第一外科壕の生徒の一部が伊原第一外科壕へ移動。
六月十七日伊原第一外科壕に至近弾が炸裂。三名の生徒が死亡したほか、多くの負傷者が出る。
六月十八日糸洲第二外科壕が米軍の馬乗り攻撃を受ける。夜、生徒の多くは伊原第一外科壕へ移動する。同日、波平第一外科壕の生徒も伊原第一外科壕へ移動。その夜、各壕の生徒に解散命令下る。南部撤退から解散命令前までに八名の生徒が死亡。
六月十九日朝、米軍が伊原第三外科壕にガス弾投下。四名の教師と三八名の生徒が死亡。動員された二二二名の生徒のうち、一二三名が死亡。そのうち一〇七名は解散命令後死亡した。
白梅学徒隊
沖縄県立第二高等女学校
昭和二十年三月六日積徳高女生とともに、東風平国民学校に寄宿し、第二十四師団野戦病院による看護教育始まる。
三月二十三日米軍の猛爆撃が開始されたため、八重瀬岳の第二十四師団第一野戦病院壕に移動。
三月二十四日引率教師によって軍属として同部隊に入隊。入隊後生徒たちは負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬、伝令などに従事する。
三月二十五日二名の生徒が除隊し、引率教師とともに帰宅。二十七日にも七名の生徒が除隊し、残った生徒は四六名となる。
四月下旬、負傷兵増加のため同壕の上部と具志頭村新城に分院を開設。
五月上旬東風平国民学校裏手の丘にも分院を開設。
六月三日米軍の侵攻により分院は閉鎖。八重瀬岳の本院へ生徒集合。新城、東風平の分院では閉鎖の際、歩けない負傷兵を青酸カリなどで処置する。
六月四日、解散命令を受け南部へ撤退。
六月五日から九日一六名が国吉(現糸満市)の壕(現白梅の塔の洞窟)に到着。
六月二十一日下の壕が米軍の馬乗り攻撃に遭い六名が死亡。
六月二十二日上の壕も同様の攻撃を受け二名が死亡、後日一名も米軍病院で死亡。国吉以外で死亡した生徒八名の状況はわかっていない。動員された四六名の生徒のうち、一七名死亡。
ずゐせん学徒隊
沖縄県立首里高等女学校
昭和二十年一月二十五日昭和高女生とともに、首里赤田の民家に寄宿し、第六十二師団野戦病院による看護訓練始まる。
三月十五日頃南風原新川の第六十二師団野戦病院(通称ナゲーラ壕)に昭和高女生とともに配置される。訓練に参加した生徒六一名全員が入隊する。入隊後生徒たちは負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬、伝令などに従事する。
三月二十七日ナゲーラ壕の前で卒業式が行なわれる。
四月十二日頃、負傷者の激増に伴い浦添村仲間に仲間分室が、首里高女内の壕にも分室が開設される。
四月中旬首里石嶺や平良からナゲーラ壕まで負傷者の搬送をする。
四月二十三日患者を収容するために仲間分室壕を出た生徒一名が砲弾の破片を受け死亡。初の生徒の犠牲者。
四月二十四日仲間分室壕の生徒は、ナゲーラ壕と首里高女内の分室壕へ撤退。
五月中旬、首里高女内の分室の生徒もナゲーラ壕へ撤退。
五月二十日から二十九日南部へ撤退。生徒たちは歩ける負傷兵を武富へ護送。
六月一日摩文仁村米須の石部隊の壕に到着。患者と兵隊でいっぱいのため、生徒は伊原の崖下の岩間に入る。
六月七日伊原の岩間が直撃弾を受け落盤し、生徒一名死亡。
六月十日第一回目の解散命令下る。生徒の不満が相次ぎ撤回される。
六月十九日米須の壕に呼び出され、第二回目の解散命令下る。生徒たちは一旦壕外に出たが、砲撃が激しいため壕に舞い戻る。
六月二十三日米須の壕が米軍の馬乗り攻撃にあう。火炎放射器でいぶり出されるように生徒たちは壕外に出、米軍に収容される。動員された六一名の生徒のうち、三三名死亡。
積徳学徒隊
私立積徳高等女学校
昭和二十年三月六日二高女生とともに、東風平国民学校に寄宿し、第二十四師団野戦病院による看護教育始まる。
三月二十三日米軍の猛爆撃が開始されたため豊見城城跡の第二十四師団第二野戦病院に移動。到着後、入隊希望調書がとられ、五六名中二五名が入隊。残りの生徒は帰宅する。入隊後生徒たちは負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬、伝令などに従事する。
五月下旬首里の軍司令部まで米軍が迫ってきたため真壁村糸須の自然洞窟へ撤退。重傷者は青酸カリで処置するようにと命令を受けたが、軍医の判断により行なわれなかった。
六月二十日洞窟入口に火炎放射やガス弾を投下される。
六月二十六日解散命令。小池病院長により「生き延びて、沖縄戦のことを他府県の人々に伝えよ」と訓辞を受ける。その後生徒は壕外へ出て米軍に収容される。動員された二五名の生徒のうち四名死亡。
各学徒隊における読谷山村出身の戦没者
ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部) | ||||
学年 | 氏名 | 入隊部隊 | 戦死場所 | 出身字 |
専攻科 | 波平※※ | 球一八八〇三部隊 南風原陸軍病院 |
三和村伊原 | 古堅 |
本科二年 | 大湾※※ | 同 | 同 | 渡具知 |
本科一年 | 屋良※※ | 同 | 同 | 瀬名波 |
予科一年 | 比嘉※※ | 同 | 不明 | 牧原 |
ひめゆり学徒隊(県立第一高等女学校) | ||||
四年 | 板良敷※※ | 同(経理部) | 三和村喜屋武 | 渡具知 |
四年 | 比嘉※※ | 同(経理部) | 米陸軍病院 | 渡慶次 |
三年 | 波平※※ | 同(一日橋分室) | 一日橋分室 | 座喜味 |
二年 | 宇座※※ | 国頭八重岳陸軍病院 | 辺土名山中 | 座喜味 |
一年 | 宇座※※ | 同 | 同 | 座喜味 |
白梅学徒隊(県立第二高等女学校) | ||||
四年 | 比嘉※※ | 山三四八六廉嵎隊 | 三和村摩文仁 | 喜名 |
ずゐせん学徒隊(県立首里高等女学校) | ||||
四年 | 喜瀬※※ | 石五三二五部隊看護隊 | 三和村 | 伊原 |
積徳学徒隊(私立積徳高等女学校) | ||||
四年 | 国吉※※ | 山三四八六部隊第二野戦病院 | 三和村伊原 | 牧原 |
女子学徒 |
一二名
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ひめゆり学徒隊 |
九名
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白梅学徒隊 |
一名
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ずゐせん学徒隊 |
一名
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積徳学徒隊 |
一名
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