読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第三節 それぞれの体験

2 女性たちの戦争体験
体験記

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 ○死線を越えて今生きる

 新崎※※(字比謝矼・旧姓※※)

 一九四〇年(昭和十五)四月、私は十三歳の春、古堅尋常高等小学校から沖縄県立第一高等女学校に入学しました。当時、那覇から嘉手納まで軽便鉄道があったので、嘉手納出身の人たちは、ほとんど汽車通学でしたが、読谷出身は学校の寮に入っていました。姉比嘉※※(旧※※)も三年生でしたので当然一緒の寮生活がはじまりました。一高女の生徒は特に首里・那覇の出身が多かったのですが、あとは島尻・中頭・国頭・宮古・八重山・久米島・他府県出身とさまざまでした。沖縄県女子師範学校と県立第一高等女学校は併設校で真和志村安里にありました。
 広い敷地の中に多くの教室があって、特別教室も多く、廊下は師範・女学校の生徒の教室移動でぼんやりすると級友がどの教室へ行ったのか迷子になりそうで、一学期間は緊張の連続でした。保証人は母の従兄弟で後に沖縄タイムス社長になられた高嶺※※様でしたのでとても心強く思いました。
 寮は、南寮・中寮・北寮があり、全て廊下で校舎と結ばれていました。部屋には室長(師範五年生)、副室長(一高女四年生)がいて、一八人部屋、一二人部屋、六人部屋があり、全部で一八室ありました。私は一八人部屋の七室で一年生三人(師範二人、一高女一人)は起床から就寝までそれこそ先輩方に気を遣いながらの忙しい毎日でした。それでも上級生は「気が利かない」という言葉をよく使っていました。どうしたら上級生に褒めてもらえるかが常に心の何処かにあったように思います。
 室長で寮長でもあった銘苅※※さんのスカートのひだをきれいに整え毎晩寝敷きをするのが私のつとめで、ひだの数が左右四つずつときちっと乱れないように整えて気をつけて寝ていました。また、※※さんが教生実習で付属の大道尋常高等小学校へ通う時は、自分の登校準備もそこそこに革靴をピカピカに磨いていました。早く二年生になりたいなと、長く感じた一か年でした。
 二年生になり、お部屋は代わりましたが、一年時代の思い出で、金武出身の仲田※※さん(昭和二十年六月下旬死亡)、八重山出身の山里※※さん(旧※※)は忘れられない方たちです。でも学園生活は楽しいことも多く、平和そのものでした。
 教科の中で英語は、父が米国サンフランシスコにいたので長坂※※先生(南方にて戦死)の英語の授業は興味があり、将来米国の父のもとへ行きたい、そのためにも英語を勉強しようと励んだものでした。その他運動会に母と弟が来てくれたのも嬉しかったし、与那原線に揺られて行った水泳教室も楽しいものでした。五月十七日の波の上祭では、私は特に姉が縫ってくれた制服を初めて着て、各お部屋ごとに山形屋や圓山号(デパート)に上級生の後ろからついて行きカルピスを飲んだことは今も私の思い出として深く残っています。
 また、この年「紀元二千六百年」の奉祝行事があり学校でも盛んに歌を歌っていました。

 金鵄輝く日本の 栄えある光身に受けて
 今こそ祝え このあした
 紀元は二千六百年 鳴呼一億の胸は鳴る

という歌詞でした。
 一九四一年(昭和十六)十二月八日ハワイ真珠湾攻撃・太平洋戦争勃発のこの日、女子師範・一高女生は全学年講堂に集合し、西岡一義校長から「米英に対し宣戦布告された」と伝えられました。以来戦時下の女学生としての体制が強化され、学園生活も次第に戦争への道に向かってまいりました。『教育勅語』の外に『青少年学徒に賜わりたる勅語』の暗唱、「大詔奉戴日」には筆書きで勅語の清書もやりました。また寮では朝食前に二人一組で担荷を持ち食糧増産のための堆肥作りがあり、郊外まで出かけて草を刈り集めて何回も農場に運びました。
 戦局の悪化に伴い寮の食糧事情も厳しくなり、遠く西原の畑まで先生方と一緒に芋掘りに行き、帰りは首里の坂道をかじ棒を引く先生の後ろから芋を積んだ荷車を押して寮に帰りました。ご飯の中に芋が次第に多く入り、次はフダン草の茎まで入るようになり、弁当も日の丸弁当で梅干がただ一個という状態でお腹をすかした暮らしが続くようになりました。
 一九四二年(昭和十七)から心身鍛錬の目的で「行軍」というのがありました。これは長距離を徒歩で行進することです。上級は学校から勝連城跡までの往復十七里行軍(約七〇キロメートル)、中級は泡瀬までの往復十三里行軍(約五二キロメートル)、初級は普天間までの八里行軍(約三二キロメートル)の三つの級がありました。私は中級十三里に参加したのですが、数日後関節炎になり休学しました。一年後三年生に復学しましたが、同級生は既に四年生になっており、彼女達と廊下で出会うのは辛いことでした。この年後半からスカートの代わりにもんぺ着用となり、救急かばんや防空頭巾も必需品となりました。
 一九四三年(昭和十八)、師範学校が専門学校に昇格したことにより、それまで寮では、女子師範と一高女の生徒が同室で暮らしていましたが、南寮・中寮・同窓会館を別寮とし師範の寮となり、北寮が一高女寮に変りました。食堂へ行くには、みんな高女寮の廊下を通るので、整理整頓が悪いと、舎監長の西平先生に注意されることもありました。先輩方からずっと積み立てられていたプール建設資金で県内での第一号淡水プールが立派に完成し、体育の授業の中に水泳があり楽しい時間でした。プールの水替えの時、たわしでゴシゴシ清掃するのは寮の生徒達でした。
 一九四四年(昭和十九)十月十日沖縄に初めての空襲がありました。演習かと思ったのも束の間敵の飛行機だと驚き、寮の一高女生は安里駅の線路下の暗きょうの中に避難しました。不安の中で時を過ごしましたが、近くに爆弾が落ちると轟音と共に爆風と土砂が覆い被さってきて大きな恐怖を感じました。幸い生徒は全員無事でした。敵はまず飛行場、港湾を攻撃目標にすると聞いていましたが、やはり港や市街の爆撃はひどく那覇市内は炎に包まれ焼け野が原になってしまいました。
 十・十空襲後一時帰省することになり、読谷出身の同級生板良敷※※さん、比嘉※※さん、三年生波平※※さんの四人で歩いて読谷まで帰りました。鉄道は全て軍に接収され民間の人は乗れませんでした。途中また空襲に遭わないかと不安で四人とも黙って歩いたように覚えています。それぞれ家族のことが気にかかっていたと思います。特に節子さんは北飛行場に家が近く尚更心配だったでしょう。
 ひと月もしないうちに学校に戻りましたが、増産作業や飛行場での作業で勉強する間はありませんでした。教科の中で変ったことは、英語がなくなりました。体育の時間にはワラ人形を立て竹槍で走ってきて「エイッ」と声を出し突く練習があり、声が小さいと「もっと大きな声を出せ。やり直し」と命じられ、足元でも刺そうものなら「足を刺して人が殺せるか、胸を突くんだ」と注意されました。また手旗信号が体育のテストにもなり、電話が通じない時は手旗で通信をするんだとも教えていました。
 音楽はドレミファソラシドに代わりハニホヘトイロハとなり、ドミソの和音はハホト、ドファラはハヘイと発声し、それも「敵機の爆音」だ「見方の爆音」だと聞き分ける、耳の訓練をすると教えていました。
 不思議なことに、四年生の前半週一時間ずつお茶、お花の授業がありました。袱紗(ふくさ)を各自で縫い、修養道場で袱紗捌(ふくささば)きや立ち居振舞いを実習したり、お花の時間ではトラノオを五本生け、七本生けと毎週同じ材料だけ使っていました。短期間ではありましたが、女らしい雰囲気が教室内に漂っていました。
 十・十空襲以後、級友の中には家族と共に国頭へ避難したり、他府県へ疎開した人も居りました。中には八月二十二日の学童疎開船対馬丸で米潜水艦の攻撃を受け沈没し、かえらぬ人となった級友も居ります。
 戦時色が濃くなっていく中で、隔日制授業へと変って、勤労奉仕学徒動員と天久高射砲陣地構築や壕掘り作業等が日に日に多くなりました。天久高射砲の陣地構築作業の時、炎天下で土運びをしていたら将校が一人やってきて引率の徳田※※先生に、「生徒を一人貸してください」と話していました。先生に「※※行きなさい」と言われ、別の陣地の中に入りました。そこにはセメントの袋のような物が堆(うずたか)く積まれ、その袋の中から黒い粉を出して、二〇センチ程の紙筒にスプーンで入れる作業でした。一人腰掛けに座って作業を続け、同級生が炎天下で作業をしているのに比べ楽な仕事をしていると思っていました。二時間位続けたでしょうか。後でわかったのですが、それは壕の爆破に使う爆薬だったのです。いま考えると、危険な仕事をさせられたものだと思います。
 九州や台湾への県外疎開が始まると、四学級が三学級になり、転校していく級友たちは慌ただしく次々と去って行きました。そして校舎の一部が兵舎となり、校門から運動場、また教室からと兵隊の姿が日に日に多く見られるようになりました。軍医による看護教育の時間も度々ありました。神国日本が負けるはずがないと軍国教育を徹底的に受けた生徒達はお国のために頑張るぞと「撃ちてしやまん」、「欲しがりません勝つまでは」、「進め一億火の玉だ」、「贅沢は敵だ」とか「勝利の日まで」を歌い、お互いに励まし合って勝利を信じておりました。軍医による看護教育の中で頭部や肘の包帯の巻き方とか、煮沸消毒とかの講義や説明がいろいろあり、直接南風原陸軍病院へも実習に行きました。
 当時の病院は南風原国民学校にあったので、学童たちはたぶん字の事務所等で勉強していたんだと思います。各教室は病室となり、私達は一人ずつ割り当てられ中に入ると、カーキー色の軍隊毛布を肩からかけて座っている兵隊や寝ている兵隊が二五人ぐらいおりました。兵隊に「便器を持ってきてください」と言われ、初めてのことですから何処に便器があるのかわからず、看護婦詰め所に行って聞きますと、たぶん忙しかったのでしょう、物も言わず指差しました。見ると一升ビンがずらっと並んでおりました。あれが便器なのかと驚いて一升ビンを兵隊のそばに置き、恥ずかしいやら怖いやらですぐに離れました。また軍医さんが籠に入れた汚れた包帯を「洗って来い」と持ってきましたので、「何処で洗うのですか」と聞くと「向こうの小川で洗って来い」という指図で、石鹸もつけずに洗いましたが、看護教育で受けたのと現実とでは雲泥の差がありました。
 一九四五年(昭和二十年)一月二十二日、学校や寮が空襲に遭い、校舎や寮の一部が破壊されました。線路下の暗きょうに避難して居た一高女の生徒達は、危険を感じた仲栄眞※※先生の指示で、まだ明るい中を安里川沿いに掘ってあった小さな壕へと命からがら、爆撃音の中を走りました。運動場にも爆弾が落ち駐屯していた経理部の兵隊と炊事婦が爆死したと聞きました。校舎や体育館、寮に被害を受けると、皆不安で勉強どころではなく軍の陣地構築、食糧増産と毎日慌ただしく過ぎて行きました。
 食料不足を補うために山羊の飼育があり、山羊の命名式だということで、寮と運動場の境目のセンダンの木の所に寮生が集められました。一頭ずつ木につながれた山羊を西平先生が、「これはメリーちゃん、これはリリーちゃん」とか神妙な顔でおっしゃっていました。お部屋に帰ってから「山羊の顔って皆同じに見えてどれがリリーかメリーか解らないよね」と笑い合ったものでした。山羊の世話は、全て師範の生徒がやっておりました。その後夕食は山羊のお汁だそうよという知らせで皆期待をして食堂に集まりました。出されたお汁の中味は、桑の葉だけで肉は見当たりません。「あら山羊の肉は何処へ行ったかしら」「たぶん校長住宅でしょう」などと言ってがっかりしました。
 空襲で北寮が破壊されたため、一高女の寮生は修養道場に移り、生活が始まりました。舎監室も一高女の先生方は病室の隣の看護婦さんのお部屋に変りました。連日の作業の疲れで夕食後の勉強時間もほとんど勉強は出来ませんでした。米軍の沖縄上陸は時間の問題となったように感じられました。
 三月二十三日は朝から大空襲でした。私達は看護要員として南風原陸軍病院へと出発することになりました。集合場所は校長住宅前です。夜八時頃西岡校長の訓辞がありました。「敵の沖縄上陸は必至だ。今こそ国のために尽くすのだ。女師・一高女の生徒として頑張れ」西岡校長は一人一人と握手をし、激励してくれました。生徒の後ろには先生方が立っておられました。徳田先生が私の所にいらっしゃって「君は足が弱いから南風原に行かんでもいい、読谷へ帰りなさい」と声をかけられました。「先生!どうせ読谷に帰っても、村の人たちと一緒に働くんだと思います。皆の足手まといにならないように頑張ります」と答えました。「そうか君がそう思うならそうしなさい」とおっしゃって下さいました。
 徳田先生とはその後一度も会うことはありませんでした。先生は、四月中旬南風原陸軍病院から一高女三年生を引率して一日橋分室へ移動されたが、五月九日に砲弾が近くで炸裂し重傷を負われ意識不明の状態になられたということです。その後南風原陸軍病院に移られたが回復することもなく五月二十三日頃亡くなられたと、後で知りました。
 さて私達は、三月二十四日夜半、校長住宅前の裏門から南風原陸軍病院へ出発しました。師範女子部一五七人、一高女六五人計二二二人、引率の先生方は一八人でした。学校からおよそ五キロメートル程の距離にある病院まで暗い中を歩きました。その晩、今まで聞きなれない地響きのようなズドーンズドーンという音が盛んに聞こえました。何だろうと不安に思っていると、具志頭村港川方面へ敵の艦砲射撃が始まっていると告げられ、月明かりの中を急ぎました。私は夜道を何処を通っているのか解らず、ただ皆にはぐれないように気をつけて歩くだけでした。そして病院壕近くまでたどり着くと、草むらに横になって小休止し、その後三角兵舎に入りました。
 二日後の夜、学校の寮へ布団を取りに軍のトラックで行きました。仲栄眞先生は「早く取ってくるんだよ。急げ」と不安そうでした。寮では靴のまま入り、それぞれ布団を運べるだけ積み込んで、その上に乗って帰りました。帰りに照明弾が上がり、まるで昼のように明るくなり、次は爆撃かと不安におののきましたが、幸い大丈夫でした。このまま無事に南風原に着きますようにと祈りました。暗い夜道を右に左に兵隊や民間人が走っているのを車上から見て不気味でした。それにしても運んできた布団は二日程しか使いませんでした。
 夜明けと共に空襲が始まり、生徒は未完成の二十四号壕に移りました。壕内に大勢の生徒が入ったので狭くて内部は貫通壕ではなかったので、炭酸ガスが充満すると、「換気用意」と言う掛け声で防空頭巾を振って、私たちは「勝利の日まで」を歌って風を送り換気をしていました。
 三月二十八日南風原陸軍病院から津嘉山経理部へ配置換えになった私達四年生一〇人と三年生五人は、平良※※教頭先生、仲栄眞※※先生、石川※※先生と共に移動しました。経理部に着いてまず驚いたことは、壕の規模があまりにも大きく堅固に出来ていて立派なことでした。電気がついて壁には板がはめられ、南風原陸軍病院壕とは比較にならない程でした。津嘉山経理部は一九四四年(昭和十九)夏頃から構築用意され、法務部・工務部・軍医部・経理部等があり、全て壕内で繋がって外に出ることなく二キロメートルもあると言われていました。私達は雑役と軍医部での勤務でした。
 経理部に移った翌二十九日、南風原陸軍病院から「今晩卒業式を行うので四年生は先生方と南風原に来るように」との知らせがあり、軍のトラックに乗って行きました。途中艦砲弾におびえ遠くに照明弾が上がると次はこちらかと車上で震えていました。三角兵舎が卒業式場で、首里から師範の野田※※校長先生、一高女の西岡※※校長先生、広池病院長、佐藤※※経理部長、父母代表金城※※さん、それに引率の先生方と在校生代表としては師範本科一年の方々だけでした。思えば、前年昭和十九年三月三日の卒業式は講堂で来賓父母多数の列席のもとで行われましたが、あの晴れやかな卒業式に比べ、今この小さな三角兵舎で数本のろうそくを立て艦砲の音を聞きながら、そして卒業証書もなく、恐怖を感じながら形だけの卒業式だと思うと情けなくなりました。最後に全員で「海行かば」を斉唱しました。歌い終わるやそれこそ慌ただしく皆それぞれの壕へ戻り、私達は津嘉山経理部へ帰りました。卒業の感傷に浸っている暇などありませんでした。
 翌三十日早朝、陸軍病院は爆撃をうけ、私達が卒業式をやったあの三角兵舎が木っ端微塵に吹き飛ばされたと聞き大変シヨックを受けました。
 私達は経理部に着いた日に服と地下足袋を支給されました。新品の服でしたが、兵隊用でだぶだぶでしたので上着の袖もズボンの裾も折り曲げて着けておりました。地下足袋は先がズックのようになっていて履き心地のよいものでした。
 夜は二段ベットに二人ずつ休んでいました。毎日夕方になると壕入口に並んだドラム缶に水を汲むのが仕事で二人一組で一斗樽を担ぎ、下の大きな井戸から水を運ぶのですが、急な坂は歩く度に樽がゆれて折角汲んだ水も半分ほどにこぼれたり、後ろ側を担ぐとびしょぬれになったりして困りました。仲栄眞先生、石川先生も生徒と一緒に水汲みをなさいました。毎日の雨降りで坂道は泥んこ、新品だった服も泥だらけで、それでも洗うこともありませんでした。
 私たちが井戸で水を汲んでいる時、いきなり飛行機が超低空で近づき機銃掃射がはじまりました。飛行機の尾翼が地面すれすれに影を落としものすごい轟音で、「ああこれで最後だ」と思い井戸の縁にしがみついて、今撃たれるか、今か今かと震えていました。弾は当たりませんでしたが、石川先生が「大丈夫か」と転がるように駆けてこられ、皆の無事に安堵していらっしゃいました。その姿は慈父のように見えました。
 軍医部での看護活動は薄暗い壕内で軍医の指示に従って勤務していました。患者の包帯をはずすのに少し時間がかかりました。膿が包帯にへばりつき、くっついてなかなかはずせないのです。軍医に「さっさとはずすんだ」と怒鳴られて、強く引っ張りますと悪臭と共に無数の蛆が膿といっしょに流れ、傷口は大きく穴があいて兵隊は後ろにのけぞり、私はふらふらと倒れそうになりました。軍医は「これしきのことで、どうする」と前にもまして大声で怒鳴りました。ここでは死体を埋葬するのは兵隊がやっておりました。死体は担架に乗せられていました。昼は爆撃がひどいので夕方壕外に運ぶのですが、軍医が「あの壁に寄りかかっている兵隊は死んでいるか見て来い」と言ったので、もし死んでいたら担架に横たわっている死体と一緒に埋められるのかと思いながら近づいて肩に手をおきました。天井から雫が落ちて軍服は湿っていました。でもその兵隊はまだ生きていました。軍医に小さい声で「生きていました」と報告すると、「そうか」といかにも早く死ねばいいのにと言わんばかりの言葉で、私は「ああ人間の生命って地球よりも重たい。と言われているのに死んでしまえば犬や猫の死体みたいに簡単に捨てられるのか」と、すごく哀れになりました。
 当時元気のない兵隊がいても「貴方は何処の県の出身ですか、お名前は」とか訊きませんでした。今日現在生きている私もいつまで生きられるか命の保証もない、名前を訊いたところでそれを伝えることもできないと思っていたからでした。あれから五六年、私は今生きて、元気がなかったあの方々の名前だけでも聞いておけばよかったと、すごく心が痛みます。
 私は皮下注射の方は二、三回練習したことはありましたが、静脈注射は一度もやったことがありませんでした。軍医は「ゴムでしばれ、血管がはっきり盛り上がってきたら注射針を突き刺し、血液が逆流してくればうまく血管に入ったからかまわずおしなさい」と言っていました。言われたとおりやりました。
 また昼だけでなく、夜になると「野菜を取って来い。何処の畑からでもいいぞ」といわれ、トラックに乗り兵隊と一緒に行きました。言わば泥棒です。主にキャベツや菜っ葉を取ってきて、洗いもせず食べました。
 首里北方、浦添前田、宜野湾嘉数高地では一進一退の攻防戦が四〇日間続いたそうですが、嘉数に津嘉山経理部からおにぎりを運ぶということで、私たちがおにぎり作りをしました。三角おにぎりの中に梅干を一個入れ、まわりにとろろ昆布をつけて箱に詰めるのです。経理部には兵隊の外に軍属や防衛隊の方々がおりました。防衛隊の人々が呼び出され、「このおにぎりを嘉数に運べ」と命令していました。「嘉数は東から行きますか、西から行きますか」と方言で聞いたのです。「方言を話す奴はスパイだ」と私達が見ている前で往復びんたを食らわされました。それでも彼らは、飛行機が飛び交う中を昼間おにぎりを担いで出て行きました。無事に嘉数に着いたか心配でした。沖縄の人だからといって必ずしも地理に詳しいわけでもありません、ほんとにかわいそうでした。
 夕方のひと時、近くの畑からさとうきびを取ってきて、平良先生も一緒に壕の入口近くで足を投げ出し、向かい合って食べていた時、シューッと地面がゆれるような感じで、思わず全員がしゃがみ込んでしまいました。命からがら這うようにして壕に入りました。ふと見ると座っていた所からわずか七、八メートルの所に不発弾が半分地中に埋まっていました。兵隊が一〇キロ爆弾だよと言っていました。その後、不発弾のそばをこわごわ眺めながら水汲みをしておりました。
 壕生活が長くなり雨の多い日が続くと、泥まみれ垢まみれでみんな元気がなくなっていきました。絶え間なく飛んでくる砲弾のため昼間は壕外へ出ることができなくなり、やっと夕暮れが近づくと水汲みが何時ものように始まります。
 四月下旬頃水汲みの途中、弟※※の同級生で私の家の向かいに住んでいた、玉那覇※※さんに会いました。一人でトボトボと歩いてきた姿は弟達と一緒に遊んでいた頃の面影はなく、「どうして一人なの、何処に行くの」続けざまに早口で話し掛けても返事がなく「気をつけてね」という声にただうなずいて去って行きました。※※さんとは二度と会うことはありません。
 五月に入り負傷兵の数も日増しに多くなり軍医部へ行く私達のことを平良先生は案じておられました。「行ってきます」「帰ってきました」と言う生徒の報告を二段ベッドの上でめがねの奥から静かに聞いておられ、いつも我が子の帰りを心配して待っているという感じでした。
 五月中旬壕内に雨にぬれた兵隊達が入ってきました。たまたま二段ベットの上から知っている人は居ないかなと思って見ておりました。最後部の方に、通信機を担いだあまりにも小さく兵隊の影になり、見失うほどの学徒動員の男子生徒がいました。近くまで来てよく見ると、何と又従弟の渡久山※※さんでした。二中の三年生で私も弟もとても仲が良かった※※さんに出会い、手を取って喜びました。その晩は軍属で経理部にいた比謝矼出身の松田※※さんと三人二段ベッドの下で語り合いました。夜が更けて「気をつけて行くのよ」と言葉をかけて別れましたが、永の別れになりました。
 ※※さんを見送り、その後私は前線から下がって来る兵隊を注意深く見るようになりました。弟(当時一中二年生で通信隊員)は入って来ないか、知り合いの人は居ないかと見ておりました。
 五月十五日頃だったと思います。入口の方で何やら怒鳴っている声が聞こえました。近づいてみると負傷兵を連れた兵隊が入れてくれと頼んでいました。「何部隊だ」「山部隊です」「ここは球部隊だ、山部隊は山部隊の方へ行け」。軍隊とは非情なものです。まして一般の沖縄の人など近寄ることすらできないのです。軍隊は軍隊を守るものかも知れません。
 五月二十六日、壕内が慌ただしくなりました。首里城下の軍司令部壕から牛島満軍司令官や長勇参謀長はじめ軍司令部の将兵達が津嘉山経理部へ移動して来るというのです。壕内はその受け入れ準備で、特に経理部長の部屋が軍司令官の部屋になるということで、女の軍属の方達まで一日中準備に追われていました。
 翌五月二十七日夜、牛島司令官・長参謀長ほか高官たちが私達の居た入口から入ってきました。私達も最敬礼をして迎えました。下は立派なズボンで、上着は真新しいワイシャツで、何か月もカーキー色の軍服だけを見ていた目にはあの真っ白いワイシャツが印象深く残っています。最高司令官が滞在しているということで壕内は緊張感が漂っていました。
 昭和十九年の学芸会の時、軍司令官は来賓としてお越しになった時のやさしそうな温和な感じそのままでした。外の厠に部下と共に通られる時には「学生さん、ご苦労さん」とやさしく声をかけられておりました。
 翌二十八日夜、牛島司令官一行はたった一晩の滞在で壕を出て行きました。行く先は「○○方面だ」と聞きましたが、私達には何処へ移動されるのか皆目わかりませんでした。
 壕内は戦死者や負傷者が出て悲しみに包まれていき、殺気立った兵隊が慌ただしく行き交い、昼夜の別なく騒然とした状態の中で三人の先生方は生徒のことを気遣っていらっしゃいました。当時負傷してない私達でも不潔な生活が続き、頭や服は虱が日に日に多くなって居りました。
 五月二十五日夜、南風原陸軍病院にいた生徒達は独歩患者だけを連れて南部へ撤退し、重症患者が壕内に残されたそうです。現在、南風原陸軍病院壕跡の石碑には「二千名余の重症患者が自決」と記されて居ります。中にはミルクの中に青酸カリや毒物を入れて「これは栄養剤だから飲め」と言って毒殺された兵隊もいたと聞きました。
 津嘉山経理部が撤退したのは、南風原陸軍病院よりもっと遅れて五月三十一日の夜でした。間近に迫ってきた米軍の攻撃は物凄く壕外には出たくないのですが、出発の時間は刻一刻近づきました。軍から鰹節二本と白い軍用靴下に米を入れて貰いました。いよいよ出発です。先生方が前後で生徒を中にして進みました。同級生の宮城※※さんは夜盲症で、仲栄眞先生に腕を抱えられて歩いていました。この年は随分雨の多い日が続き四月、五月と晴天は少なく道路はぬかるみ、無数に広がる弾痕の水溜りがありました。道路というより泥田のようで、転ばないで歩くのがやっとでした。砲弾の炸裂音や照明弾で明るくなると所かまわず伏せ、また暗くなると先生方や級友に遅れまい、はぐれまいと必死に歩きました。
 南部への道は無言のままで、大勢の人達が戦火に追われ逃げて行きましたが、松葉杖を使い片足で進む兵隊や、荷物を頭に載せ子どもをおぶって行く女の人たちを見たら、「自分はまだいい、二本の足で歩けるんだ。足には弾は当たって欲しくない」と思って歩きました。
 親友の板良敷※※さんが「お米が濡れて重たいから捨てようね」と言ったので、「じゃ後から来る人の滑り止めになるように靴下を逆にして歩きながらこぼしてね」と言ったら、※※さんは「そうね」と言ってこぼしながら歩きました。「小休止」の声で二人はリュックを下ろす時間も惜しくその場に仰向けに休みました。私はどこをどう通っているのか、さっぱりわかりませんでした。いつの間にか、私の持っていた米もどこかへ放ってしまったのか手元にはありませんでした。二回目の小休止の時、近くにさとうきび畑があったので一本折ってきて杖にして歩きました。道にはあちこちに死体らしい黒影が見受けられましたが、暗いので無残な姿がはっきり見えないのがせめてもの救いでした。
 仲栄眞先生は玉城村のご出身で南部の地理には詳しく、水の豊富な嘉手志川の泉の方に連れて行ってくださいました。並んで水を飲み生き返ったようになり、次は泉から流れ込んだ池で汚れた顔や手足を洗いました。平良先生は、私達が水を飲んだり手足を洗ったりしているのを上の方で座って見ておられました。池の前のあたりにプスッ、プスッと弾が落ちるようになり、仲栄眞先生は「早く!危ないよ」と生徒をせかして居られ、皆走って戻り、また歩き始めました。元気を取り戻して歩き続けると夜が明けてきました。
 六月一日、眞栄平という所に着きました。でも用意された壕がある訳でもありません。グラマン戦闘機に狙われて私達は林の中へ逃げました。一日中米軍機の攻撃は激しく、ただ怯えて隠れておりました。日が暮れて民家の方へ行きました。そこで二日ぶりにおにぎりを食べましたが、それまで弾に当たって今死ぬかと思う気持ちにはひもじいなどという心の余裕はなかったのですが、おにぎりを食べてやっと人心地つきました。その晩二か月振りに民家の板の間に泊まった時、仲栄眞先生が「明日の晩も此処で泊まろう」とおっしやるのを聞いて、私はとっさに三月からずっと体の一部のように持っていた大事な大事な救急かばんを、民家の仏壇の上に置き、リュックだけ担いで外に出ました。ところが、その民家には二度と帰れませんでした。米軍の攻撃は凄まじく、グラマン戦闘機の機銃掃射を浴びながら丘陵地帯の林の中へ逃げ込みました。
 戦場では明日はないのです。「しまった」、救急かばんには、薬品の外に財布、貯金通帳など大事なものが入っていたのです。胸を突き刺されたような、「取り返しがつかない、油断をしてはいけないんだ」と強く思い知らされました。
 次の日は、墓の中に入りました。中は広くて大きな厨子甕が幾つかあり、一日中甕のそばに座っていると怖い気持ちもなく、「ここで死んだら丁度いいね。お墓の中だもの」とか話したりしていました。
 次の日は入る壕もない私達でしたが、南部へ南部へと米軍に追い詰められて行く人、人。その姿は無気力で、私自身含めて魂の抜けたような哀れな集団でした。負傷者が泥にまみれた包帯をだらだら引きずって歩く姿は実に痛ましい限りでした。また朝鮮出身の女性達が兵隊と共にぞろぞろ歩いて行く姿もありました。
 眞栄平では、読谷村字渡具知に居たという曹長で※※さんの家族とも親しくしていた方に出会い、大変懐かしがって私達二人に缶詰を三個下さいました。「読谷は上陸地点だがお母さん方は大丈夫でしょうね」と言う曹長の言葉に涙ぐんでいた良子さんでした。
 六月五日、米軍の攻撃がいよいよ激しさを増し、私達は山部隊の壕(現在の山雨の塔の真下)に入れてもらいました。壕内は沢山の兵隊が入っていて、私達は狭い場所にかたまっていました。自然洞窟のこの壕は広くまた堅固な壕であり、心強く思いました。そして何より嬉しかったことは壕内にきれいな水が流れていたことです。安心して水が幾らでも飲めるし、身体を拭いたりして何時までもここに居たいなあと思ったほどでした。
 山部隊の壕に四、五日も居られたのは幸いでした。しかし、またここも最前線になるのはまちがいなく、何時までも居られるわけではありません。中にいた経理部の兵隊達とも別れて、ひめゆり学徒隊が居る伊原の方へと出発しました。砲弾の音を聞きながら暗い道をひたすら歩き続ける時、私は辺りを見る心の余裕はなく、何を見たかほとんど記憶がありません。
 五月三十一日に津嘉山経理部を出て、約一五キロメートル程の距離にある伊原第一外科壕に辿り着いたのは、六月十日の夜でした。急な坂を滑り降り、入口が偽装された伊原第一外科壕には、先に玉城村の糸数分室壕から移動して来た師範の生徒や、一日橋分室壕からやってきた一高女の三年生達もおりました。五月九日に一日橋分室壕での被弾後遺症のため、身の回りのこともできない状態の安里※※さんと前川※※さんも親泊※※先生に付き添われて来ておりました。安里さんは寮生活で同室だったのでとても親しい間柄で、「※※ちゃん元気だったね」と手を握ると、「渡久山さん」と私を覚えていてくれて、私の顔をじっと見つめていました。せっかく辿り着いた伊原第一外科壕でしたのに親泊先生や一高女三年生達は伊原第三外科壕へ六月十四日に移動して行きました。
 伊原第一外科壕は立派な自然壕でしたが、壕内の私達が居た所は暗くてじめじめした場所でした。初めの程は広さやまたどれくらいの生徒が居るのかわかりませんでしたが、次第に目が慣れてきて周りの様子が見えてきました。皆体力、気力もなくただ黙ってゴツゴツした岩の上に座っていたり、向きを変えたりするだけで、話し声はあまり聞こえませんでした。爆撃は物凄いはずですが中にいると爆音も聞こえず静かでした。天井の岩から落ちるしずくのチョンチョンという音が闇の中に聞こえるだけでした。夕方砲弾が止むのを待って壕外へこわごわ出て、まず水のある場所へ走りました。野原の中にある井戸では、生徒が群がって水を飲み、また水筒等に水を入れている生徒も居りました。しかし夕暮れとはいえ何時砲弾や小銃弾が飛んでくるかわからない状態の中では長居は禁物です。第三外科壕や本部の壕から来た学友達とゆっくり話をする間もありませんでした。
 六月十六日頃、平良先生に言い付かって伊原第三外科壕(現在のひめゆりの塔のある壕)へ夕方一人で行きました。歩いて二〇分程の距離にある伊原第三外科壕に当時はじめて行ったにしては迷いもせずよく行けたと思います。何の目的で何をしに行ったのか、内容は全然覚えておりません。ただ伊原第三外科壕入口から中を覗くと梯子を降りていく生徒や下に沢山の生徒が見受けられ、その中の一人が上を見上げていました。師範予科生のような感じでした。私は梯子を下りるのをよして、見上げている生徒に大声で平良先生からの伝言を伝えたことは覚えていますが、何を言ったのか全くわかりません。ただ最初「お…」と言った覚えがあるのみで、多分「親泊先生にね…」と話し始めたのかと、今思うのみです。一目散に伊原第一外科壕に帰りました。
 六月十七日夜、仲栄眞先生と一緒に近くの岩陰に行きました。夜でも外へ出たくなかったのですが、「小さくてもいいから入れる壕を掘ろう」と先生はおっしゃっていました。暗いジメジメした壕にこれから何日も暮らすのはよくないと思われたのでしょう。スコップを持っておりました。近くに玉城※※さん(現大田)の家族が入っていた壕があったので、そこで借りてきたと思われます。しかし近づいてきた米軍の爆撃下で落ち着いて今更壕を掘るどころではなく、私達は伊原第一外科壕に引き返しました。
 私達が伊原第一外科壕を出た後、壕入口近くに爆弾が落ちたそうです。夕暮れ時みんながほっとして入口近くに集まった瞬時の出来事だったとのことでした。生徒や兵隊達の死傷者が多数出て、壕入口や中は騒然として泣き叫んでいる学友達の姿が目に入りました。同級生の比嘉※※さんは大腿部に負傷(六月下旬死亡)、照屋※※さんは足に負傷(六月下旬死亡)していました。照屋※※さんは生前、両親共フィリピンで戦時中死亡し、一人残っていた弟さんも引揚げ寸前に栄養不良で死亡したことや、私の義兄新崎※※のフィリピンでの教え子だったなどと話しておりました。
 他に多くの死傷者が出ました。師範予科三年の古波蔵※※さんは即死、本科一年萩堂※※さんは腹部をやられ死亡、本科一年比嘉※※さんは頭部と胸部に重傷(六月二十二日死亡)、本科一年神田※※さんは足と臀部に重傷(六月二十三日頃死亡)、予科二年石川※※さん(旧※※)は足に負傷し次々私達が居た下の方に運ばれて来ました。また先に運ばれていた本科二年石川※※さん(六月二十三日頃死亡)、本科二年濱元※※さん(六月二十四日頃死亡)達が寝かされ、六月十七日の晩の壕内は傷ついた学友達の悲痛な叫び声、うめき声で全員悲しみに打ちひしがれておりました。
 六月十八日、米軍は糸洲に進出、伊原後方に迫っているとの話が次々伝わって、いよいよ最後かなと思っておりましたが、夜になり仲宗根先生から解散命令が告げられました。集まった女師、一高女の生徒は一時呆然としていましたが、暫くして女師の生徒達は四、五人の班を作って戦線突破をして国頭へ行くなどと、急に壕内は落ち着かない雰囲気になりました。私はすぐ仲栄眞先生に「先生私達も師範のように班を作って別れて行くのですか」と訊きました。「いや皆一緒だよ。生徒が死ぬ時は先生も一緒だよ。先生達が死ぬ時は君達も一緒だよ」と一気におっしゃいました。「ああこの先生方となら最後まで一緒だ。一緒に死んで本望だ」と心底思いました。私は伊原第一外科壕を板良敷※※さんと強く手をつなぎ「生きるも死ぬも一緒だよ」と走り出ました。

 鎮魂、亡き学友たち

 十年一昔と言いますが、あれから五六年、五倍以上の年月が過ぎました。でも短い年月のようにもまた思われます。
 ひめゆり平和祈念資料館が一九八九年(平成元年)六月二十三日、生き残られた仲宗根政善先生が初代館長となられ開館いたしました。その日は朝から雨降りでしたが、生存の先生方、沖縄全島はもちろん東京ひめゆり同窓会はじめ本土各地から同窓会員が集まり、一日中降り続いた雨に生存者達は亡き方々の涙雨かなと話し合いました。二一九人の亡き先生方、亡き学友の遺影(五人はまだ遺影もない)を見ていると、遠い昔の学園生活が目前に浮かび、あの顔、この顔、十六歳の笑顔を見せております。走馬燈のようにいろんなことが脳裏に浮かんできます。
 読谷出身は師範専攻科波平※※さん(昭和二十年六月十九日、伊原第三外科壕で死亡)、字古堅出身で古堅尋常高等小学校の先輩として大変可愛いがられた良きお姉さんでした。
 本科二年大湾※※さん(昭和二十年六月十九日、伊原第三外科壕で死亡)、字渡具知出身で私が一高女入学の時、高等科から師範へ入学された懐かしい先輩で、あの笑い声、笑顔が現在でも特に思い出深く残り、妹の上間※※さんはよく似ていて※※さんを思い出します。南風原陸軍病院へ出発した夜、話し合ったのが最後の別れとなりました。
 本科一年比嘉※※さん(昭和二十年六月二十二日、伊原第一外科壕脱出後消息不明)、字牧原出身、不言実行型で、てきぱきと物事を処理する人でした。がっちりした体格で陸上、水泳が得意で、予科三年の時水泳大会で優勝しました。彼女とは六月十八日、伊原第一外科壕で別れたのが最後でした。
 屋良※※さん(昭和二十年六月十九日、伊原第三外科壕で死亡)、字瀬名波出身、口数は少く頭脳明晰で、特に理数科に優れ、父親の屋良※※先生の面影とどこかよく似た顔立ちでした。
 師範は四人亡くなり、生存者は都屋出身の渡久山※※さん(旧※※)と字楚辺出身の比嘉※※さんの二人です。
 一高女四年板良敷※※さん(昭和二十年六月二十三日、正午頃荒崎海岸で死亡)、字渡具知出身で古堅尋常高等小学校低学年の頃は知念※※で、一高女時代は板良敷となり戦後宮本と姓が変りました。ひめゆり平和祈念資料館の遺影には板良敷※※とありますが平和の礎には宮本※※と書かれています。※※さんの家族の中には戦争犠牲者がほかにもいるので皆同じ姓にしたのだと思います。※※さんに変りはないのですからそれでよいと思うのです。寮生活から戦場へと常にそばにいた※※さんです。生きるも死ぬも、何時も一緒だと手を握りしめて走ったあの手のぬくもりを今も感じる右手です。
 伊原第一外科壕を出て四、五分後生死の別れになろうとは人の世の儚さが強く身にしみます。私は資料館当番の日は真っ先に※※さんの遺影の前で「※※さん今日当番で来たよ」と必ず声をかけます。「私達は死んで物言えないけど生き残ったあなたは平和のために頑張ってね」と囁いているようです。でも生きて欲しかった。悔しいです。ひめゆり同窓の先輩でもあるお母様の※※様は一人娘の※※さんを亡くし、戦後、慰霊祭には朝早くにいらっしゃって同級生の皆に、「来てくれて有り難う、有り難う」と頭を下げておられた姿が目に浮かびます。教職におられ私を見つめられるお母様は、※※さんの姿を重ねて見ていらっしゃったのでしょうか。大変かわいがられました。今天国で母と子は共に生前以上に語り合っていることでしょう。
 四年比嘉※※さん(昭和二十年六月下旬、米軍病院で死亡)、字渡慶次出身、渡慶次尋常高等小学校前の友利さんの養女でした。物静かですらっとした彫りの深いきれいな顔立ちでした。私とはよく話もするし好きな友人でした。南風原陸軍病院に動員されてからも「家に帰りたい。読谷に板良敷さんと三人で帰ろうよ」と非常に読谷を恋しがっておりました。津嘉山経理部でもつらい仕事を不平も言わず、水汲みや看護活動に弾雨の中、働き続けておりました。南部撤退後は、第一外科壕で六月十七日至近弾で、大腿部を負傷し動けなくなり壕内に残されたのです。その後、自力で壕外に這い出し米軍に収容されましたが、六月下旬亡くなりました。
 一九四七年(昭和二十二)私が石川城前初等学校に勤めていた頃、東※※指導主事の学校視察がありました。実は東先生は、※※さんの父親で戦後比嘉から東姓に変わったのだそうです。そのことを知らずに※※さんの戦争中の様子をお知らせできなかったのは、とても残念に思っています。
 戦後五〇年にひめゆり同窓会では、亡くなられた方々の仏前供養があり、市町村別に生存者が数名ずつ遺族の方々の家庭を回り仏前にお参りしました。安里※※さん(旧※※)、与儀※※さん(旧※※)の三人で訪問いたしました。お母様はお元気で懐かしそうに私達を迎えて下さいました。仏壇に小さな写真が飾ってありましたが※※さんの幼少の頃の物で可愛らしく、ご両親にとって初めての子で特にお父様が可愛がり、アイドルのように可愛い写真を大事にしていらっしゃった、との話を聞き、私達もしばらく写真に見入っておりました。妹の花城※※さんは優秀な女教師として教育の現場で、※※さんの分まで頑張っておられ、どこか※※さんに似ております。私は妹のような気もするのです。下の妹の島袋※※さんは姉さんのことを少しでも聞きたいと※※さんと二人で、私の家に訪ねて来られたことがありました。第一外科壕で足を負傷し、解散命令の時一緒に連れ出してやれなかった自分の不甲斐なさを、二人の義妹に話さねばならぬ辛さをしみじみ思いました。解散命令が一日早かったらよかったと思いました。
 三年波平※※さん(昭和二十年五月九日、一日橋分室壕で死亡)、字座喜味出身、丸顔で笑うと目が細くなりやさしい性格で友人からも好かれていました。四月中旬、南風原陸軍病院から一日橋分室へ移動しました。昼夜の別なく負傷兵の看護に学友達とよく働きました。五月九日、一日橋分室壕近くで被弾、即死したのです。ひめゆり平和祈念資料館開館準備中二一九人中遺影がない生徒が六人おりました。※※さんもその中の一人でした。困っている時、病院跡の遺骨収集の時、四四年ぶりに※※さんの記名入りの下敷が見つかり、その事が新聞報道されました。読谷尋常高等小学校六年生の時の集合写真が同級生により同窓会に届けられ遺影ができ上がりました。
 一高女二年宇座※※さん(昭和二十年六月、国頭辺土名山中で死亡)、字座喜味出身、整った品のある顔立ちでした。お父様が八重山の視学になられ※※さんは八重山登野城国民学校から入学しました。しっかり者で理知的、落ち着きのある物静かな人でした。昭和十八年の入学式には新入生代表で挨拶をした優秀な生徒でした。
 一高女一年宇座※※さん(昭和二十年六月、国頭辺土名山中で死亡)、字座喜味出身、※※さんの妹で十三歳の※※さんは丸顔で澄んだ瞳の可愛いい、おっとりした性格でおとなしく、姉さん思いのやさしい人でした。
 十・十空襲後読谷出身の※※さん、※※さん、※※さんと安里から線路伝いに読谷へ帰った大事な友を失い、私一人あれから五六年も生きている。生きるも死ぬも紙一重なんです。
 沖縄戦は軍隊より県民の方が犠牲者ははるかに多いのです。戦争で死んでいった多くの方々そして残された遺族達の悲しみは決して忘れることはできません。十代で亡くなっていった女生徒達が「ああ、私達平和な時代に生まれてきたかった」と空の彼方から叫んでいるようです。

私達は何の疑いもなく、勝利を信じ
暗い壕の中で弾雨の中で
恐怖におののき、泥にまみれ働きつづけました

「太陽の下で 大手を振って歩きたい」
「水が飲みたい 水 水」
「お母さん お母さん」

学友の声が聞こえます
私達は真実を知らずに
戦場へ出て行きました
戦争は命あるあらゆるものを
殺すむごいものです
私達は一人ひとりの体験を通して知った
戦争の実相を語り続けます
 (二〇〇一年五月)〈寄稿〉

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