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2 女性たちの戦争体験

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 保健婦と看護婦

 女性たちの戦時体験で、「前線」と「銃後」を問わず重要な役割を担わされたのは、保健婦、看護婦として関わった人々であった。先述の大湾※※のように、鋤を使って「牛馬耕」をやっていた人に宇江城※※(字親志出身)がいるが、彼女は「女だけの姉妹では男のようにお国の為には働けない。しかし私は看護婦である。従軍看護婦なら兵隊に負けない働きが出来る」と看護婦になった動機を述べていることからもそのことが窺える(下巻「いくさ場の人間模様」渡久山朝章参照)。
 ここでは当時の全県的な保健婦活動の概略と本村出身看護婦の体験等を紹介する。

 保健婦

 戦前の保健婦活動について、『沖縄 戦前保健婦の足跡』(具志八重・小渡静子編集、ニライ社、一九八六年発行)からその概要を見てみよう。なお、同書は当時の保健婦活動と従軍体験を座談会と多くの個人記録等で編集されている。
 昭和十二年以降の日本軍による対中国全面戦争の拡大と真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争により、人々の生活はますます困窮の度を高めていった。「このような状勢は軍事力の強化を最緊急事としたにもかかわらず、大正年間以来の国民大衆ことに勤労者階級の生活困窮と打ち続く経済不況は、兵力の根源である壮丁の体位低下と結核の蔓延という結果となって現れ、戦争遂行のうえに暗い影を投げかけ始めた」。
 この事態に対処するため「軍部は人的資源確保の観点から結核対策、保健衛生行政の推進」、「貧困→疾病→貧困の悪循環を断ち切り国民生活の安定を図り、国民の体力増強を志向する軍部の強い要請により昭和十三年厚生省」を創設し、「国民健康保険制度の設定、保健所の創設、保健婦事業などの健民健兵対策が発足することとなった」のである。(前掲書「序」稲福全志参照)
 昭和十三年の「保健所法」、昭和十六年の「保健婦規則」により、保健婦は戦争遂行という戦時体制の国策に沿って住民の疾病予防、健康管理にあたってきた。
 「保健婦指導員」として県兵事厚生課で勤務した小渡※※は、「昭和十六年に保健婦規則ができると、公私立の保健婦養成所で、講習を受けさせ、県の検定試験で保健婦の免許を与え、各市町村や保健所に駐在させる制度ができたようです。私は昭和十六年の九月に、沖縄県庁から保健婦指導員という名目で辞令をもらい、東京の厚生省で保健婦指導員講習会に二か月間参加した」(二六頁)と述べているが、いかにも大急ぎで保健婦制度を施行したという感は否めない。また、所属する課も兵事厚生課と衛生課の二課にそれぞれ「沖縄県保健婦」がいた。兵事厚生課では出征軍人家族を担当し、衛生課では一般住民の健康状態、妊産婦の保健指導や結核の予防事業に携わった。
 壮丁の健康保持、栄養状態の改善の面では、「徴兵検査前の青年の人たちを一か所に集めて、栄養のあるものを食べさせたり体力づくりをしていました」(金城※※、三八頁)という。また「産めよ増やせよ」のスローガンにみられるように、健康な子どもを育てるという任務についた保健婦たちは、「銃後保健婦」「乳児体力向上巡回指導婦」「保健指導婦」といった名称で家庭訪問をしていった。ただし、読谷山村には保健婦は配置されていなかった。
 しかし、昭和十九年の十・十空襲後は、「衛生教育どころではなくなり」(伊波※※、三二頁)、また「保健婦は予防事業で五年、十年、十五年先のことを考えるわけです。ところがその時は銃後体勢に入っているので、こつこつやるより、すぐに陸軍病院に行って傷病兵士のために足りない看護力を自分たちで補った方がいいのでは、という気持ちがあったので、陸軍病院に志願したんです」(奥松※※、四四〜四五頁)というように、「保健婦たちも生活物資の欠乏に苦しみながら、与えられた任務を忠実に果たし、戦火が沖縄に波及してからは砲煙弾雨の中で傷病者の救護活動に」(稲福※※)あたっていったのである。そして、多くの保健婦、看護婦が戦場に没したが、その実数は未だに判然としない。
 照屋※※(戦後琉球政府診療所医師)によると「沖縄は戦前も医師の少ない県だったが、今次沖縄戦で多くの方々が犠牲になられ、辛うじて生き残られた医師は、一六〇人中わずか六四人だけであった(厚生白書)」と述べ、その因の一つは「医師、看護婦という専門職であるために疎開を禁じられ、戦いの第一線の救護任務を課せられたためであった」(二七六頁)と指摘している。このことについては「戦時中なので、医療、看護婦関係者は、二〇日以上住所が移動したり変わる時には、管轄の警察署衛生課に住所の移動を申告する規則があったんです」(金城※※、三七頁)という証言もあり、医師、看護婦らが規則に縛り付けられていたことが分かる。
 「医療人であるために疎開は禁じられ、激しい地上戦の中で住民と共に戦火にまきこまれ、山野や壕の中を逃げまわり、負傷している人々を助けて処置し、自らも砲弾をあびて傷つき」(あとがき)倒れるなど過酷な運命に翻弄されながらも生き残った医師、保健婦、看護婦らは、「免許を有する医師、歯科医師、看護婦、産婆等は命令あるまで各自その業務を継続すべし」(米国海軍政府布告第九号・公衆健康及び衛生)により、新たな気持ちでそれぞれの任務に就いていった。

 看護婦

 本村出身の看護婦で海外、県外、沖縄戦下の各地で従軍看護婦として参戦した人々の実数、実態は残念ながら判然としていない部分が多い。これまで刊行された女子学徒隊の従軍体験記の中でも、厳しい戦場下での看護婦の様子を語る場面はあるが、具体的にその看護婦の出身地などに触れたものは少ない。そこで、本村の戦災実態調査票から「看護婦」と記載のあったものを拾い出し、更に独自の調査を加え、現在分かっている部分を紹介する。
 戦災実態調査表からは全体で一六人がリストアップされたが、その後の調査で四人が判明し、合計で二〇人(女子学徒隊は除いている)。その内死亡者が八人となっている。死亡者は以下のとおりである。
棚原※※(宇座 大正八年生)
 四月一日、北飛行場で戦死。
当山※※(宇座 大正十五年生)
 風部隊、昭和二十年四月二十二日首里方面で戦死。

「※※は、那覇知念病院で看護婦なれど、十九歳にして従軍看護婦に志願、読谷村喜名在の那覇分廠に勤務するも、戦況深まり首里方面へ移動したとのことなり」と付記されている。

安田※※(儀間 昭和二年生)
 昭和二十年三月十日、東京にて空襲で死亡。日赤看護婦。
吉浜※※(渡具知 大正十三年生)
 昭和十六年十二月頃から看護婦として従軍し、昭和二十年四月二十七日、首里金城町方面で被弾、死亡。
宇江城※※(親志 大正十五年生)
 看護婦へ志願。昭和二十年六月二十日、沖縄本島方面で死亡。
伊波※※(伊良皆 大正十三年生)
 「長女※※は(大阪出稼ぎ中)二十歳のころ看護婦として召集され、昭和十九年二月二十三日、南洋群島テニアン島テニアン町赤道通りで死亡」。
当山※※(瀬名波 昭和三年生)
 昭和二十年六月二十七日、南部戦(摩文仁)で死亡。
相庭※※(上地 大正十二年生)
 「長女※※は従軍看護婦として、昭和二十年六月二十五日、摩文仁で戦死している」。

 次に、昭和十八年五月十四日の『朝日新聞』で紹介された一人の看護婦の体験記を紹介する。「勲章胸に/白衣天使帰還」と題されたその記事は、前半で真玉橋※※、具志※※の小倉陸軍病院からの帰還を述べ、後半で代わりに小倉へ出発した二人の看護婦について報じている

「なほ※※さんと※※さんの両名に代つて読谷山村字渡具知知念※※さん(二九)と同村字座喜味平良※※さん(二四)が晴れのお召しを受けて出発、赤十字看護婦として御奉公することゝなつたが、※※さんは昭和十年三月県立女子工芸学校卒業と共に日本赤十字社沖縄支部救護員養成所に入所、同十三年卒業したが同十四年七月陸軍看護婦を志願して北支に従軍。傷痍勇士の看護を引受けて大陸の戦場を馳ち駆く、同十六年七月帰還したが、このたび晴れの召集を受けたもの」(実際は一高女を卒業している)

となっている。
 この記事からは、激しい戦場で修羅場をくぐり抜け、生き延びることができたであろうことを想像させるが、現実は全く逆であった。本人は「運が良かった」を繰り返したが、彼女の体験は沖縄が戦場となったことの意味を改めて考えさせられるものである。

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