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2 女性たちの戦争体験
体験記

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 ○私の看護婦人生

 知念※※ 元日本赤十字社看護婦
     (大正五年生・字※※)

 日赤看護婦養成所に合格

 私は、もともと渡具知の生まれで、古堅尋常高等小学校の高等科二年を終えて、一高女に入りました。安里にあったので、「ケービン」(沖縄県営鉄道)通学したり、寄宿舎に入ったり自炊してみたり、いろいろやってみました。一高女は四年までありました。昭和十年春の卒業前に日赤看護婦養成所(日本赤十字社沖縄支部救護員養成所)の試験があったのでそれを受けて合格していました。これは親には内緒でした。うちの母親は、当時は小学校の先生より偉い人はいないと考えていた人でした。渡具知でも大湾※※先生、大湾※※先生、大湾※※先生など先輩の先生方がいっぱいおられたので、その先生方が一番偉く見えるんですね、それで私を先生にしたいと思っていました。
 私は頭がいいほうではなかったから、どうせ受けてもだめだからと、日赤看護婦養成所に行こうと考えて、家族に相談するとだめといわれることは分かっていたので相談もせず一人で決めたんです。
 日赤の看護婦養成所は、毎年募集ではなくて、私たちが卒業すると次の人たちを募集して三年間で指導する、そんなシステムでした。
 卒業式後家に帰ると、師範二部への試験があることを母は知っていて「受験にいけ」と言うもんですから、しょうがないからウソついて那覇までは行こうと、家を出て行きました。でも当然申し込みはしてないし、そのまま友達の家で遊んで、翌日帰りました。すると、嘉手納の後輩に「ケービン」で通学する人たちがいて、私の母に「※※姉さん二部受けなかったねー」と言ったもんだから、母は「いや、ちゃんと受験するといって出て行ったよ」と、すると「受験する人はちゃんと学校に番号と名前が貼られていたが、※※姉さんの名前はなかったから、受けなかったはずよ」と。これでばれてしまったんです。でも、もう怒ったってしようがないということで、そのままになったんです。あの時は、日赤(看護婦養成所)は官費で、学費は要らないものですから、親も仕方ないと思ってくれたのかもしれませんね。場所は、那覇の県病院の中にあって、奥武山向けに行くと久茂地交差点から右にいったところにありました。当時の二高女の近くです。
 養成所では看護婦の勉強をしながら、月に一〇円いただいて、食費に五円、小遣いに五円というぐあいでしたので、たまには「ケービン」で実家に帰ったり、そんな生活でした。親にウソついて入った養成所でしたが、なんとかそこも昭和十三年の春に卒業しました。

 大阪天王寺日赤病院へ就職

 その後も親は、師範を受験しなさい、先生になりなさいと言うわけです。そうもいかないでしょうと、県病院に勤めていたんですが、半年ほどすると本土に行きたいなと思うようになっていました。それで一高女時代の友達と一緒に大阪に逃げてしまいました。彼女は歳は一つ下の後輩でしたが、大阪には彼女の親戚がいたので、そこでやっかいになることにしました。そこは夫婦共働きだったので、少し余裕があったのでしょうね、私たちは昼中遊んで、夜は帰ってそこでご飯も食べてと、自由にさせてくれたんです。そして一〇日ほどした日曜日に奈良見物にも連れて行ってくれたんです。帰ってから「大阪、奈良の名所旧跡も十分見学もしたはずだし、そろそろ家に帰るんでしょう」と言われたんです。そこで初めて、実は家出して来ましたと言ったら、それじゃどうするのということになって、私は日赤卒業しているので病院にでも行くと言ったら、じゃ天王寺に日赤病院があるからと紹介されていくことにしました。沖縄からとっぴに飛び出してきて就職できるのかなと不安でしたが、ちょうど日中戦争真っ最中ですから、病院は傷病兵でいっぱいでした。当時の日赤病院は、看護婦を中国の戦地にも派遣するし、足りなくなった看護婦は一般のところからも採用するなどして間に合わせていましたから、喜ばれたんですね。その日は総婦長が休みだから、明日もう一度来てくれと言われて、翌日行きました。すると、日赤の看護婦ならすぐにも来てほしいということでした。一応、内科、外科の身体検査をして、お墨付きをいただいて採用になりました。しばらくして、お世話になった友達の親戚宅を離れて、寄宿舎に入りました。半年ほどするとまたどこか行ってみたくなって、同僚の看護婦たちに聞いたら、軍の将校(憲兵)さんたちに頼んだら「満州」や中国にも行けるよ、というので、早速頼んでみました。そしたら運がいいことに、ちょうど新潟県から一般看護婦八人を連れて、日赤看護婦が婦長になって中国へ行くというグループに出会ったんです。渡航証明書を、私が頼んだ将校のところに取りに来ていたらしいんですね。その時に、将校はここに中国に行きたいという人がいるが、連れて行くかと尋ねてくれて、いいですよということで、そのまま今度は中国に行きました。

 天津陸軍病院にて

 中国では天津陸軍病院に勤めました。昭和十四年七月からです。とても大きな病院で、天津市郊外の森のようなところに分散して病棟がいくつもありました。そこはもともとは学校で、日本軍が徴発して病院にしたところでした。学科ごとに建物があるように、内科、外科と分けられてありました。行ってじき、すごい雨が降り続いて、天津の市街地が洪水に浸かったんです。
 病院は石垣で周囲を囲ってあったし、割と高台にあったから、運動場が水に浸かったぐらいで、病院そのものへの被害というのは無かったんです。市街地は、道路よりも住宅が少し下がって建っていたから、被害が大きくなったんじゃないかと思います。
 患者は四、五千人もいるのに、洪水で食糧、特に野菜がないということで、急遽北京の陸軍病院に避難することになりました。担送患者は二階部分に上げて、独歩と護送の患者たちを連れて行きました。独歩は自分で歩ける人、護送というのは少し手を貸せば歩ける人ということです。北京の病院に二、三千人は連れて行ったように思います。
 北京でも、既存の病院だけでは収容できないということで、郊外にある大学が戦争により休校中だからと、そこの空いている教室に入りました。何か月かして天津に戻りました。天津では二年程いて、昭和十六年の七月に帰還しました。
 中国でも日本の病院はいっぱいあって、傷病兵の治療と看護が行なわれているわけです。物資の不足はありましたが、全く無くて困るというほどではありませんでした。食事係や掃除婦等は中国の人たちで、患者の排泄物などの処理といった下働きはそうした人々がやってくれていましたので、看護婦業務に専念することができました。中国では月々の給料はとてもよかった。沖縄で県病院にいた頃は、実務研修期間で月七円か八円でしたが、大阪では五〇円ぐらいもらっていました。中国では、一般看護婦よりは日赤看護婦は高くて七〇円から八〇円ももらいました。二か年勤めて帰る頃は一〇〇円くらいになっていました。また、休みの日には病院から車を出して、街まで連れて行って、何時にここに集合というふうにして、遊ばせてもらいました。中国服や食べ物もいっぱいあって、楽しかったです。何不自由ない生活でした。
 沖縄に帰ってきて、八月九月とのんびりすごしていたら、母はやはり学校の先生になれと言うんです。この間看護婦しかしてないのに、先生にはなれないでしょうと言ったんですが、翌年になって、昭和十七年四月から久高島の国民学校に行くことになったんです。あの頃は男性の先生方が応召して教師も不足していたんでしょう。中学校卒業、高等女学校卒業者は臨時の教師試験があって、いつも母親から言われるものですから、ひとつ受験するだけしてみようかと行ったら、合格してしまったんです。なぜ合格したのか後で分かったのですが、離島では学校の先生が衛生面や保健面のこともやるということになっていて、少しのキズだと学校に行けば治療してもらえるといった形だったんですね。私が看護婦であることが、合格した原因だったようです。久高島へは小さな手漕ぎの舟で渡ったんです。初めてのことで、教師の仕事はどんなものか分からないものですから、運動会、学芸会といってはみんなに手伝ってもらって一生懸命後からついていくだけでした。ほぼ一年になろうとする昭和十八年の二月頃でしたか、卒業式前に私に召集令状が来ました。私が島を離れるときには、浜に全校児童と島の人々が集まって、ほぼ全員で見送ってくれたんです。それで、平良※※さんと一緒に、真玉橋※※さん達と交代で小倉に行くことになったんです。それが新聞に載った記事なんです。平良※※さんというのは、本当の読谷の人ではないのです。当時お父さんが校長かなんかで読谷におられたので座喜味となっているのでしょうね。
 あの頃看護婦をどこかに派遣する時には、一般の看護婦二〇人ぐらいに婦長クラスとして日赤の看護婦二人、それに経理、事務の男性二人がついて、「一個班」というふうに言われてたんです。沖縄ではそんなに看護婦もいなかったんでしょうね、私たちが真玉橋さん達と交代で行ったときも、鹿児島班の一員として小倉には行ったんですよ。

 終戦

 私たちは小倉で終戦を迎えました。小倉駅の前、市街地は空襲で全部焼けているのに、病院は高いところにあって、市街地との間に丘のようなものもあって、よく見えなかったんですが、駅まで行くと焼けた様子が分かるといった感じでした。私は戦争の惨状というものは何も知らないんです。空襲警報が発令されても、特に病院から出るでもなく、院内でどう動くかといったマニュアルに従って動くだけでした。沖縄の病院での勤務だったら大変だったと思います。小倉の病院では、直接自分自身が砲弾の危険を感じるといったことも無かったんです。ひめゆり学徒隊のような、そんな危険な目には一切遭ってないんです。だから申し訳なくて、本当に普通に病院での看護婦生活をしていたんです。
 小倉の陸軍病院は前線の野戦病院ではないわけです。戦地で負傷しても、本土に帰ってくることができる将兵というのは快方に向かっているわけです。すぐに生死に関わるというものではないんです。動かせるから船でも移送できるわけで、ですから負傷者というのは自分の古里に近くなればなるほど傷は癒されているわけです。
 長崎に原爆を落としたB29は、最初は小倉が攻撃目標だったと戦後になって知りましたが、私たちは助かったんだねって、心から喜びました。長崎の人々には申し訳ないですが、そのときも運良く助かっているんです。
 あっちこっち転々としてきたが、何の手柄も立てていないんですよ。ただ何年間かを勤めてきただけです。
 親の勧めに反して看護婦になりましたが、それほど目的意識を持ってやっていたわけでもないんです。自分の好きなところに行って、歩いてきただけです。だから、こうしてお話するのも恥ずかしいです。沖縄戦は、食べるものが無くて、やんばるに疎開した人々もずいぶん苦労して、多くの人々が亡くなったと聞かされると、なんだか恥ずかしく自分の話は出来ないですね。
 私は、ご飯がなかったというのは一度もないんです。どこに行っても、麦ご飯ではありましたが十分な食事がありました。中国にいるときは、お正月になると、ちゃんと尾頭付の魚が出ましたし、餅もお雑煮も付いていましたから、戦争で苦労してきたなんて、沖縄では言えないんです。沖縄の人々が大変苦労してきた中で、そんな話できないですからね。沖縄では、本土に行くんだから大変なんだろうねと、思われていたが実は沖縄にいる方が大変だった、ということですね。でも召集で小倉に行くときには、こんな運命が待っているということは分からなかったんです。
 民間から「供出」とかで集められた食べ物などは、みんな軍にいくわけですよね、民間は無くても軍にはある。なかでも、軍病院では患者がいるわけだし、当時だと「御国のために働いた」患者への食糧の配分は気を遣っていたんでしょう。ですから、何不自由ない状態だったんだと思います。本当に、沖縄にいた人々には悪いような気がしています。
 看護婦養成所時代、一、二年生は朝早くから掃除とか役割分担でやるわけですが、外来患者が来る前にきれいに掃除しておかなければならなかった。看護婦や医者が来る前にですね。それから消毒しておくべきものは消毒しておいて、それで初めて宿舎に帰って、洗面して朝食に行くという、こんな日課なんです。こうしたときに、首里や那覇出身の生徒たちはお嬢さん育ちだから、あまりやってなかったんでしょうね、私は田舎育ちだから、掃除にしてもやり慣れていて早いわけです。逆に首里那覇の人たちは遅いわけで、「この人はいつも早く終わっているけど、いつも易しいところばっかりあたって運がいいね、幸運児だねー」と言うんですよ。その幸運児があとでは、名前になってしまって、私を呼ぶときには「幸運児」あるいは「幸ちゃん」になっていました。その幸運がどこに行っても付いてきたんですね。いい名前を付けていただいたものだと、いまでも感謝しているんです。

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