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2 女性たちの戦争体験

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 「慰安所」と「慰安婦」

 読谷山村内の「慰安所」

 日本軍は一九三七年(昭和十二)十二月からアジア諸国、南洋諸島の各日本軍駐屯地に「慰安所」を設置するようになる。沖縄でも、性病予防とか士気の高揚がその目的とされたが、実際は軍が管理した専用の買春施設であった。
 沖縄での慰安所設置の始まりは一九四一年(昭和十六)、南大東島で飛行場設営のために軍が来島した際、「慰安婦」も同行したとされるものである。同年、西表島でも船浮要塞司令部が駐屯を始めた時期に慰安所を設置したという。沖縄本島と離島、それぞれの守備軍の派遣とともにその数を増していったことがうかがえる。
 一九四四年四月以降、沖縄に駐屯する部隊の増加に伴い、地元女性たちへの強かん事件が多発し、繰り返し「強かん禁止」の命令が出された。住民の反感を買って、軍への協力が得られなくなっては困るとの判断によるものであったが、あまり功を奏しなかった。
 「慰安婦」集めは当初、公娼制度のもとで働く女性たちが対象となったが、性病の蔓延や増加する兵士たちへの対応のため、次第に素人の女性たちに徴用の手が伸び、植民地下の朝鮮半島などから多くの若い女性たちが「女子挺身隊」の美名のもと連行されてきた。そうした女性たちの一部が読谷山村内にもいた。
 これまでの聞き取り調査などにより判明した村内の慰安所は次表のとおりである。

[表1] 読谷山村内の慰安所一覧

  字名等 建物 人数 出身地 備考
喜名 民家(※※) 四人 朝鮮半島  
  民家(※※)   不詳  
  民家(※※)   不詳  
  民家(※※)   不詳  
  建築・闘牛場の中の三角兵舎   不詳  
  建築通称「オキク」   日本  
伊良皆 民家(※※) 四人 那覇辻の人たち  
  北飛行場・三角兵舎の一部 約三〇人 朝鮮半島 十・十空襲で焼失後、比謝東に移動。
高志保 民家(※※) 二、三人 朝鮮半島 十・十空襲後島尻に移動。
比謝矼 簡易建築洪次郎屋隣り   不詳 他に、将校たちと民間人にも供した料亭があった。
比謝川沿い 簡易建築長屋づくり     嘉手納の大山病院に検査に一〇人から一五人ぐらいできた。

 

[図1] 読谷山村内の慰安所分布図

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