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各字の戦時概況・体験記等にみる「慰安所」・「慰安婦」たち
喜名の「慰安所」は、十・十空襲前にはすでにあった。そのうち、大通りの謝花には四人の朝鮮人「慰安婦」がいて、休日になると昼から兵隊が列を作って並び、村の人は目を背けるほどであった。この五箇所の慰安所のうち、東ノロ殿内、仲大屋、後仲門にいる慰安婦は日本人だったと言われているが、確かなことは分からない(喜名字概況)。
複数の証言から通称「オキク」と呼ばれた建物も慰安所だったといわれる。昭和十九年に建築されたが、L字型で屋根には赤瓦がのってかなり大きな建物だった。一般兵は入ることが許されなかったが、たまに航空兵が軍歌を歌っていた。完成後すぐに十・十空襲で焼失した。戦後、その周辺を耕したら、大量のサックが出てきたという。
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「オキク」と呼ばれた宿泊所(宮平良秀画) |
喜名東のナガサクの壕に避難していた新垣※※は、「住民ばかりになったこの壕に、日本兵と朝鮮人慰安婦のあわせて六人が逃げ込んできたのは、それから数時間も経たないうちのことだ。朝鮮人慰安婦たちの家は牛ナー(闘牛場)や、私の家の近くのクシナカジョーなどにあったのだが、その日は空襲が激しく、避難できる場所を探していたのだろう、兵隊は鉄兜をかぶり、慰安婦達はナベを被って私たちの壕に駆け込んできた」という。
伊良皆の慰安所は那覇市辻から来た人々だ、として、
「屋号松伊波(マチーイファ)に慰安所があった。そこにいた四人の女性たちは那覇市辻から来た尾類小(ジュリグヮー)風で炊事係のおばさんも一緒であった。夕方になると兵隊達が並んでいた。慰安婦の一人は過労と栄養失調で重症だったという」(伊良皆字概況)としている。
十・十空襲で焼失した辻遊郭では、遊女たちは北部などへの疎開を開始したが、なかにはすでに地方で慰安所運営に当っていた知り合いに誘われ、そうした地方の慰安所に加わった女性たちもいたという。伊良皆の慰安所はそうした流れをくむものだったのかもしれない。
また「移ってきた慰安所」として比謝字概況では次のように記している。
「伊良皆の北側の北飛行場内の三角兵舎は十・十空襲でほとんどが破壊された。そこには那覇分廠もあったが、破壊されて比謝の東(亀地橋=ときわ橋付近)に日本軍と共に移ってきた。同時に長屋式茅葺きの慰安所も引っ越してきた。場所は、現在の国道比謝交差点から北東に約五〇〇メートルほど行ったところの大湾亀地原の窪地にあった。そこには三〇名ほどの朝鮮人慰安婦がいた。比謝の字事務所に駐屯した通信兵たちもときたま『今日は慰安の日』といって、身支度をして出かけていた」。
比謝矼では、かつての読谷山村産業組合があったところ、比謝矼一五番地(洪次郎屋)の隣りに、一般兵用の慰安所があったといわれる。昭和九年には、産業組合は砂糖倉庫とともに大通り沿いに移転しているが、その隣りの空き地に簡易建築の長屋があったと言われる。
また、比謝矼は戦前から商業町として栄えており、いろいろな職種のサービス業があった。その一つに料亭もあって、牛市場の活況と相俟ってにぎわった。「昭和十八年(一九四三)、日本軍の大挙駐留にともない
〔寿亭〕 は将校たちの利用も多くなったが、やはり民間人の利用にも供していた」と『比謝矼誌』にも記述されている。軍管理の慰安所とは若干趣きを異にするが、追記しておく。
比謝川沿いの慰安所にいた慰安婦たちの様子については二人の元看護婦の証言がある。
福地※※(旧姓※※・牧原出身)
十・十空襲で勤めていた与那原の病院が閉鎖され、実家にもどったところ、実家に駐屯していた球部隊の将校の勧めで部隊の食事係や事務の手伝いをするようになる。ある日、彼女はこんな光景を目にした。
「部隊は、比謝川沿いにありました。私の通っていた本部は、二重橋(栄橋)の手前辺りにあって、自宅から歩いて行けるぐらいの距離でした。そこはちょうど谷底のような場所でしたが、以前牧原の婦人会長をされていた※※さんの瓦葺きのお宅のすぐ下辺りでした。隊長が居られた本部は、カバ屋根(テント地の屋根)で作られていました。その周囲は広場になっており、隊長の所から、一〇メートル程の所に兵隊用の炊事場がありました。初めはそこで炊事の仕事をしていました。そこから、川の上流に向かって両側は山ですが、川伝いの山の麓に兵舎が建ち並んでいました。物資の無い時代でしたので、兵舎といっても粗雑なつくりで、あり合わせのものを使って組立てた合掌造りの茅葺きの平屋でした。そこに何百人という兵隊がいました。
数日経って、炊事場から一人事務所の方に行きなさいという事で、私が事務所の手伝いに行くことになりました。色々な書類を綴ったり、雑事が沢山ありました。それを、国吉※※さんと二人でやっていました。その部隊には、私達だけでなく、牧原の女子青年が総勢で一四、五名働いておりました。
そんなある日、嘉手納の大通りにあった大山病院に行ったとき、部隊にあった慰安所の女性達が定期検診に来られていたのを見かけたことがありました。当時は事情も分からずに、川沿いに並ぶ部隊兵舎のうちの長屋の一つが『兵隊さんのおもてなしをする所なんだよ』と聞かされていました。それで、そういう事もあるんだねと思っていました。今でこそ、朝鮮の方も中国の方も居たと聞きますが、私達から見たら、区別も付かないし日本人であるように思っていました。しかし、とくに会話を交わした事もなく、遠くから川辺を散歩するのを見かけるぐらいでした」。
玉城※※(旧姓※※・※※出身)
当時大山医院の看護婦として勤務していた。慰安婦たちの性病検査にあたったときの様子である。
「大山医院には、朝鮮人慰安婦の人たちが定期的に性病の検診のため連れてこられていました。一か月に一回から二週間に一回の割合で、一〇人から一五人ぐらいの女性たちが、憲兵に強制的に引っ立てられて来ました。その扱われ方といったら、まるで動物を追い立てるみたいなやり方でした。
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嘉手納の大山医院にて(玉城※※さん後列右端提供) |
朝鮮人慰安婦はみな美しい娘たちで、色白ですらりとした姿がとても印象的でした。どうやら年のころも十六、七歳と、私と同い年ぐらいに見えました。
今日でこそ、彼女たちは強制的に慰安婦にさせられたんだとわかりますが、当時は全く知りませんでした。憲兵は彼女たちのことを『自分で望んで朝鮮から商売に来ている』と私たちに説明しました。私はそれを聞いて『どうしてこんなに美しいお嬢さんたちが、沖縄のような遠いところで、こんな商売しなければならないんだろうか』と不思議でたまりませんでした。また、彼女たちの多くは暗い表情でうな垂れていたり、またある者はあからさまな反抗を示していました。それを見ると『自分で望んで来てる筈なのにどうしてなのだろうか』と何かしら腑に落ちない気がしていましたが、それほどには気にとめていないんですね。あの頃は戦時中で、人のことをゆっくり考えている余裕はなかったんです。
慰安婦の一人に、とてもイジグヮー(気)が強い人がいました。性病の検診ですから若い娘には恥ずかしくて嫌だったんでしょう。診察台に絶対にのらないと、病院の中を逃げまわったりしていつも反抗していました。すると憲兵が追いかけて、怖い顔をして、冷たく厳しい声で『なんで、お前、どうしたんだ。行け、やれ』そう言って慰安婦を殴るんですよ。私はびっくりして『あんなにまでして。嫌がっているのに、検診もさせなければいいのに』と思いました。かわいそうな彼女たちに話かけたいんだけど、言葉も分からないので、ただ彼女たちにつけられている日本名を呼んで、『こっちに寝なさい、服を脱いでここに来て』など、看護婦としての業務に関わることをジェスチャーを交えて伝えるのが精一杯でした。また彼女たちの方でも、私たち看護婦に対してすら反発心を持っていたように思います。当然ですね、日本人にあんな目に遭わされていたんですから。それでも、反抗的な態度をとった者が叩きのめされてからは、残りの人はみな『はい』と言って私たちの指示にも従いました。
こうした屈辱的な検診の結果、朝鮮人慰安婦の中に梅毒や淋病などの性病に感染している人が四、五人いることが判明しました。しかし性病だと分かっても、大山医院には薬が無かったので、治療はできませんでした。性病の治療法としては
〔六〇六号〕 という薬を静脈から注入するなどの方法がありましたが、この薬は高価で貴重な薬だったので、まったく使われませんでした。医院では住民に処方する薬も欠乏している状況だったので、どうしようもなかったのです。検診の結果は院長先生から憲兵に直接伝えられました。私はそばで聞いていたのですが、先生は『ここに治療薬はないから、軍のほうで処方してくれ』とおっしゃっていました。ですが軍で薬を用意していたかどうかはわかりません。とにかく性病はどんどん人に感染するんですけど、彼女たちは性病との診断を受けて、その後はどうなったのでしょうかよくわかりません。
将校の相手をするジュリ(遊女)たちは、同じ慰安婦でも朝鮮の人たちとは違って大山医院での検診はありませんでした」。
参考文献