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3 防衛隊・男子学徒隊
渡久山朝章

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 防衛隊

 ここで言う防衛隊とは、沖縄戦に駆り出された防衛召集兵(鉄血勤皇隊含む)およびそれらによって組織された部隊のことを意味するが、鉄血勤皇隊以外は防衛召集兵自体で組織する部隊はなく、駐留軍各部隊に配属された補助的兵員であった。
 沖縄守備第三十二軍は、第九師団の台湾移駐と米軍潜水艦や航空機攻撃による海上輸送中の兵員欠損などによる兵力不足を補充するために、現地入隊の現役兵以外にも多数の人員を防衛召集した。それは国民皆兵という思想に基づく軍の強権的なものもあったが、実際には「陸軍防衛召集規則」(一九四二年一〇月施行)に基づき、満十七歳以上満四十五歳までの男子に対して連隊区司令官名の召集令状によってなされるのが原則であった。
 「一九四四年(昭和一九)七月一〇日ころ在郷軍人会沖縄支部は市町村単位の防衛隊を編成したが、これはいわゆる義勇隊であって法令上の根拠はない(義勇兵役法が成立するのは翌年六月)」と『沖縄県史別巻―沖縄近代史辞典』(四九四頁)にはあるが、読谷山では表立ったそのような組織や動きはなかった。
 同じく前掲『県史』によると、「沖縄での本格的な防衛召集は、一九四四年(昭和一九)六月、飛行場建設の目的で召集したのを第一次とし、続いて第二次(同年一〇月から一二月に至る間)」としているが、『知念村史』では「沖縄聯隊区司令部が正式な動員計画による、臨時召集は昭和十九年十月二十九日で赤紙の召集令状はこれが最後であった」(第三巻、知念村役場、平成六年七月三〇日発行、五九頁)としている。
 その頃、沖縄師範学校在学中であった筆者は、十・十空襲前体調をくずし、壕掘り作業を免ぜられ、聯隊区司令部で召集令状(赤紙の警備召集)と現役証書(白色)書きに当たっていた。あの時に警備召集とされた人々も後に防衛隊員と言われたのではなかったかと、思っている。
 『県史』ではさらに続けて「第三次(昭和二〇年一月から三月に至る間)の三期に大別されるが、米軍上陸後においても正式な手続きを経ることなく各部隊で恣意的に召集をした例が少なくない」としている。
 先の『県史』の記述では、飛行場建設のために防衛隊を召集したとなっているが、それはごく一部の防衛隊員で、緊急な飛行場整備のための特設整備工兵隊への配備であって、飛行場建設は請負業者と徴用工で進められていたのである。そして大部分の防衛隊員は各作戦部隊直属となり、所属部隊の陣地構築や糧秣および兵器・弾薬にかかわることが主な仕事だったのである。
 また「各部隊で恣意的に召集した例が少なくない」とはいえ、村の兵事主任を経なければ、その人員確保は不可能であったはずである。それで「米軍上陸後においても正式な手続きを経ることなく各部隊で恣意的に召集」があったとは考えられない。
 例外として、部隊に所属していた雇人(軍属)をそのまま臨時召集したことはあったということを次の文書は示している。
 「球日命第一一一号 球軍日々命令 五月十四日
一、別紙(第一)ノモノ五月十四日第三十二軍司令部雇人ヲ解雇シ引続キ同日第三十二軍司令部ニ臨時召集ス依ツテ頭書ノ通リ服務スヘシ
二、別紙(第二)ノモノ五月十四日附陸軍二等兵ヲ命ス
三、
     経理部 片野※※
     他六名(氏名省略)
 昭和二十年度現役兵トシテ五月十五日第二十四師団ニ入営ヲ命ス
     衛生班 植村※※
     他二名(氏名省略)
 特編第一中隊編入ヲ命ス

 別紙第一には、経理部 又吉※※曹長 他七〇名(氏名省略)の人員が記載されているが、彼らの所属は、経理部・法務部・情報部・兵器部・獣医部・副官部・管理部・特編一中と多岐にわたっている。
 それらはいずれも軍籍にあり、二補・一補・予となっており、兵科は歩(歩兵)・輜(輜重兵)・野重(野戦重砲)・衛(衛生兵)・航(航空兵)等で、階級も曹長から二等兵にまで及んでいる。よってそれは直接軍司令官による予備役及び後備役の臨時召集で、それらは純然たる軍人であったのである(カッコ内は筆者注釈)。
 別紙第二に掲載された人員は、玉城※※他一五一名で、所属は別紙第一同様いろいろあるが、特に注目すべきは、彼らが軍籍に無いということである。それで「球軍日々命令」の二項の通り陸軍二等兵に命ぜられたわけだが、それは直接軍司令部による防衛召集と考えられる。よって『県史』にある「各部隊による恣意的に召集」ということがそれに当たるのだろうか。

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