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3 防衛隊・男子学徒隊

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 鉄血勤皇隊

 学校毎に召集

 学校毎に一括して防衛召集されたとはいえ、中学校では昭和十九年度の三年生以上の者たちで、年齢的に言えば昭和二十年時点で十五歳以上ということになるが、十四歳の二年生も通信兵として従軍しているのである。
 第一中学校の例によると、一年生は自宅待機ということで各家庭へ帰されている。その点、多くの実業学校や師範学校の生徒はほとんどが十五歳以上の者たちで、防衛召集の対象年齢ではあった。

 鉄血勤皇隊(各学校別)の配属等の概況

学校名 配属部隊 人員 総員 死亡者 備考
沖縄師範学校 第三十二軍司令部(勤皇隊本部) 一六 三八六 二二四 職員一九名戦死
全校生徒参加
第三十二軍軍司令部(千早隊) 二二
第三十二軍司令部(斬込隊) 五七
第三十二軍司令部(特編中隊) 四八
第二野戦築城隊 二四三
県立第一中学校 第五砲兵司令部 七六 三七一   職員二〇名戦死
(内配属将校一名)
独立工兵第六六大隊 五〇
独立重砲第百大隊 三〇
野戦砲兵第一連隊 八二
電信第三十六連隊 一三〇
独立混成第四十四旅団第二歩兵隊
第十野戦気象隊
独立迫撃砲第八中隊
県立第二中学校 独立混成第四十四旅団第二歩兵隊 二〇 一四四 一二七 職員七名戦死
第六十二師団通信隊 一二〇
野戦高射砲第七十九大隊
独立歩兵第二十二大隊
第四十九兵站地区隊本部
県立第三中学校 独立混成第四十四旅団第二歩兵隊 一四七 三六三 三七 職員二名戦死
独立混成第四十四旅団通信隊 六六
第三遊撃隊 一五〇
那覇市立商業学校 第四十四旅団通信隊(含む歩兵隊) 五〇 九九 七二  
独立歩兵第二十二大隊 一六
独立混成第十五連隊 二〇
第三十二軍通信隊 一三
県立工業学校 第二十四師団輜重隊 九四 八五  
第五砲兵司令部通信隊 八六
独立歩兵第二十二大隊
重砲兵第七連隊
独立迫撃砲第九中隊
沖縄憲兵隊
県立農林学校 第四十四飛行場大隊 一七〇 一七三 四一 配属将校一名戦死
独立高射砲第二十七大隊
重砲兵第七連隊
独立混成第四十四旅団第二歩兵隊
県立水産学校 第三十二軍通信隊 二二 四九 二三 職員七名戦死
独立混成第四十四師(ママ)団第四遊撃隊 二七
私立開南中学校 第二十四師団歩兵第三十二連隊 二〇 八一 七〇  
第二十四師団通信隊 三〇
第二十四師団司令部 一二
歩兵第八十九連隊
独立歩兵第二十三大隊
電信第三十六連隊
第五砲兵司令部重砲第四十二連隊
野戦重砲兵第二十三連隊
第二十四師団輜重隊
独立速射砲第三大隊
県立八重山中学校 独立混成第四十五旅団司令部 二〇 二〇  
合計     一七八〇 八九〇  

(本表は大田昌秀著『鉄血勤皇隊』(二〇四〜二〇六)より)
(合計が一部合わないところがあります)


 鉄血勤皇隊の編成

 通信隊要員

 殆どの中学校では二年生が通信隊要員としての訓練を受け、米軍上陸と相前後して各部隊に配属された。ここでは県立第一中学校の例を見ることにする。
 「(昭和一九年)一一月末、第三二軍の命令で、県立第一中学校二年生をもって通信隊要員が編成され、県立一中校舎において編成時から昭和二〇年三月中旬ころまで、電信第三六聯隊の伍藤中尉、小上橋伍長等によってモールス信号、通信機の操法、発電機の操法等について教育された」(沖縄県立第一中学校 養秀同窓会編『忘るるまぞなきわが学徒』の「断簡録」)
 「通信要員は有線班・無線班・暗号班の三班に編成されていたが、一中の二年生は繁多川の東の丘陵地の裾にあった無線通信本部に配属された」(前掲書の中の一中一条会安里※※記「学友たち戦友たち」)。

 一般の鉄血勤皇隊

 県立一中では昭和二十年三月二十九日、「事実上の入隊式があった。別に式という程のものではなかったが、二等兵の階級章と軍服が隊員に支給されたのである。真新しい軍服、軍帽軍靴、ゲートルに肌着等全部支給された。上級生も下級生もなく、みんな二等兵である。子供みたいな兵隊ができあがったが、馴れるにそれほど時間を要しなかった。
 武器弾薬としては、九九式歩兵銃が約一〇挺、手榴弾は各員二発宛、対戦車用三式手投爆雷約五〇発(円錐形で三キロぐらいの重さで、手首にひもを巻いて投げると点火爆発する。戦車のキャタピラを狙って、肉薄攻撃する爆雷)が主なものであった。(後略)
(県立第一中学校第五七期編『硝煙下の健児』「わが沖縄戦記」喜友名※※記)
 沖縄師範学校男子部では、三月三十一日、首里城城郭内の留魂壕前広場に全校職員生徒が集合し、軍司令部の駒場少佐によって師範学校の職員生徒全員が、第三十二軍司令官の命により軍に徴されたことが告げられ、続いて野田※※校長先生の悲痛な挨拶があり、式らしいことが終わると、斬込隊・情報宣伝隊・野戦築城隊・自活隊・本部等の隊編成に移った。
 隊編成が終わると、被服等の支給が行われた。服は半袖半袴の防暑服で、階級章はなかった。
 野戦築城隊は、軍司令部洞窟陣地構築、つまり壕掘りに当たったが、後には道路や橋梁の修復作業にも駆り出された。
 情報宣伝隊は千早隊ともよばれ、軍司令部の情報部に属し、主として後方住民への情報伝達・避難誘導等が主な任務とされていた。四月一日から約一週間、薬丸参謀と益長大尉から情報宣伝の方法や接敵工作の方法などの速成指導を受けていた。
 斬込隊は、菊水隊とも呼ばれ、第三十二軍情報部の斬込隊として編成され、四月一日から師範学校の記念運動場で林少尉と岡軍曹によって訓練がはじめられた。
参考(沖縄師範学校 龍潭同窓会編 『留魂の碑』)

 鉄血勤皇隊の特例

 防衛隊員であっても軍人であり、いかなる状況にあっても所属部隊を離れてはならないし、特に戦場においては戦列からの離脱は考えられない。ところが鉄血勤皇隊の場合、学校によっては除隊ということもあった。
 県立第一中学校の場合の特例だとは思うが、次のような証言がある。
 「篠原教官は、和田※※中将から鉄血勤皇隊員の除隊のことで内示があった、と語っていた。その内示とは『戦場になった沖縄では、学生たちは家にいても鉄血勤皇隊にいても、いずれは敵とたたかうことになる。おなじ戦いなら、たたかいやすいところでたたかわせよ』ということだった」。(兼城一編集 『沖縄一中 鉄血勤皇隊の記録』(上)、二一四頁 城間※※証言)
 篠原教官とは現役の配属将校であり、和田※※中将とは、一中鉄血勤皇隊が配属されていた野戦砲兵隊の司令官である。この除隊のことは、親を離れて鉄血勤皇隊で戦死させるということが忍びないという恩情からではなく、鉄血勤皇隊の組織維持・活動上の問題、すなわち食料確保のための人員制限だったようである。
 四月二十八日、「篠原配属将校は戦局と鉄血勤皇隊の現況を説明したのち『食糧不足になったので、体力に自信のないものは家に帰ってもらわねばならない。除隊を希望するものは手を挙げよ』とみんなを見渡しながら言った」。(前掲書二一三、二一四頁 与座※※証言)
 この日、配属将校は一九人の生徒を除隊させた。
 しかしこの措置は米軍上陸後のことで、すでに沖縄本島は南北に分断されており、北部の家族の許に行き、行動を共にしようにもかなわぬことであった。
 喜瀬※※(四年、読谷山村字比謝矼出身)も除隊組の一人であったが、北部の家族の許へは行けず、隊を離れて友人と共に戦野を彷徨し、国吉方面で十七歳の命を散らしている。


(参照) 鉄血勤皇隊における読谷村出身の戦没者

鉄血勤皇隊・沖縄師範学校男子部
本科三年 新崎※※ 現役入隊 首里 比謝矼
本科二年 宮城※※ 特編隊 摩文仁 比謝矼
         
鉄血勤皇隊・県立第一中学校
五年 上間※※ 球九七〇〇部隊本部 三和村真壁 不明
四年 池原※※ 首里 楚辺
四年 喜瀬※※ 球九七〇〇部隊野重砲 豊見城村 比謝矼
四年 山田※※ 三和村米須 比謝矼
三年 佐久川※※ 球九七〇〇部隊本部 首里 比謝矼
二年 渡久山※※ 球一八八三〇部隊通信隊 三和村摩文仁 比謝矼
         
鉄血勤皇隊・県立第二中学校
四年 町田※※ 石三五九九部隊通信隊 浦添村前田附近 比謝矼
三年 大城※※ 三和村摩文仁 波平
三年 渡久山※※ 比謝矼
二年 石嶺※※ 喜名
二年 比嘉※※ 楚辺
         
鉄血勤皇隊・県立工業学校
二年 比嘉※※ 石三五九四部隊 浦添村仲間 座喜味
二年 山入端※※ 球九七〇〇部隊通信隊 三和村 喜名
         
鉄血勤皇隊・県立農林学校
三年 澤岻※※ 中飛行場青柳隊 美里村久保 牧原
三年 比嘉※※ 読谷山村栄橋方面 古堅
二年 島袋※※ 東村福地又 座喜味
         
鉄血勤皇隊・県立水産学校
二年 宜保※※ 球一六一六部隊通信隊 三和村摩文仁
海岸沖一〇〇〇メートル地点
渡慶次
一年 比嘉※※ 三和村摩文仁 波平
         
         
         

鉄血勤皇隊戦没者総数二〇名

沖縄師範男子部 二名
県立第一中学校 六名
県立第二中学校 五名
県立工業学校 二名
県立農林学校 三名
県立水産学校 二名

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