読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第三節 それぞれの体験

3 防衛隊・男子学徒隊

<-前頁 次頁->

 ○比嘉※※ 明治四十五年生 字※※

 出稼ぎ

北(読谷)飛行場の建設(宮平良秀画)
 私は十七歳から二十歳までと、二十六歳から三十一歳までの二回、大阪の大阪鉄工所で働きました。
 仕事は午前七時から午後五時までが定時であったのですが、それでは金がたまらないので、さらに五時から九時まで残業をしました。残業をすると半日分の給料に当たる残業手当がつくので、ほとんどの工員たちは残業をしていました。
 ですから私の場合は、仕事から帰って、午後十一時に寝て朝五時に起きるというような生活でした。しかし土曜日は早く帰って映画を見て遊びました。映画が大好きで、休みの日にはよく出かけ、上原謙出演の映画を見にいったこともありました。
 工場は最初は小さかったのですが、後では軍需工場となり、大砲の砲身を製造していました。

 帰郷・徴用令そして空襲

 昭和十八年に楚辺に帰って来ますと、家には通信隊の兵隊が一〇人駐屯していました。集落の多くの家には兵隊が分宿しておりました。私は家にいた兵隊たちと大変親しくなり、あちらこちらを案内したこともありました。
 しばらくして読谷山飛行場造りに徴用されて、馬車で赤土運搬の仕事をしました。その後、渡具知に軍の船が入ってくると、積んで来た軍需物資を馬車で田幸山の後方に運搬しました。もちろんお金は貰いました。また名護から軍需物資を積んで島尻まで二日がかりで行ったこともありました。
 昭和十九年十月十日は豚をつぶす約束でしたので、朝、比屋久(屋号)に出掛ける途中、飛行機が飛んできました。見ると星印ですから、これは敵機だと思い、急いで引き返し、庭の小さい壕に父母と二人の子供を入れて、私は木の陰で見張りをしていました。
 昭和二十年に入ると頻繁に敵機来襲がありましたが、隣保班(隣組)では大きな壕を掘ってありましたので、班の人全員がそこに避難することができました。

 防衛召集

 十・十空襲後、北谷村平安山の船舶隊に召集されました。そこは小艇の艫(とも)に爆雷を積んで敵艦に体当たりするという特攻艇の部隊でした。
 艇は二人乗りで一人は舵を取る役目だったようです。防衛隊員はこの決死隊に誰も行きたがらないのに、私より一歳年上の大木の我喜屋※※は進んで出動し、運良く無事帰還して有名になりました。
 私は軍隊の経験はないので、壕掘りをしたり、舟艇を隠す場所を作ったり、あるいは艇を運んだりというそのような仕事だけをしていました。
 三月三十一日、北谷のトンネルから見ていますと、米軍は北谷海岸に上陸していましたが、三十分程で引き揚げていきました。それを見て部隊は全員島尻に下がることになりました。海岸近くはアメリカ軍とぶっつかるおそれがあったので、丘の方の道を通り浦添に朝方着きました。
 浦添にいた兵隊に北谷の状況をきかれて「もう敵は上陸していますよ」と答えると、その兵隊はブルブル震えていました。
 昼は隠れて夜間歩いて行ったのですが、島尻に入ると道端には死体が転がっており、明日は我が身かと思いました。そしてどうせ死ぬなら誰にも見られない片隅で死にたいと思いました。
 一か月程は部隊と行動を共にしていましたが、爆風でやられて歩けなくなり、しばらくは他の人に支えられてついて行きました。折りからの大変な大雨でずぶ濡れになり、負傷した身には濡れた毛布一枚持つのさえ大変で、他の隊員に持ってもらったり、食べ物を分けてもらったりして多くの人に助けられました。一人だったら生き残れなかったと思います。
 年寄りや小さな子供の死体も随分見ました。もう戦争の話しはしたくありません。

 捕虜

 捕虜になったのは五月末頃だったと思います。嘉手納に連れて行かれて、それから屋嘉に送られ、そこには一日いて、ハワイに送られました。(以下省略)
 参考=「楚辺合同調査報告書」

<-前頁 次頁->

読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第三節 それぞれの体験