読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第三節 それぞれの体験

3 防衛隊・男子学徒隊
体験記

<-前頁 次頁->

 ○比嘉※※ 明治四十二年生 字※※

 奉公・嘉手納製糖工場

 私は古堅尋常小学校を卒業してから楚辺で一か年奉公し、その後中城で一五年奉公に行きました。普通二〇〇円前借りしたら四年間の奉公で返済すると言われていました。一年で五〇円ということになりますが、私は親がどれほど借金したか知りませんでした。
 奉公が満期となり、二年ほど楚辺の海で浜石切りをしました。石切りは楚辺では東池原のおじいさんが最初だったようですが、私がその仕事をしていたころは、亀芝(カミシバ)や鍋山保(ナビヤマフ)のおじいさんや東上門小(アガリイージョーグヮー)のおじさんたちがやっていました。切って来た浜石は屋敷囲いや建材等として使われました。
 石切り仕事の後は、嘉手納製糖工場の正社員であった比嘉※※さんのおじさんの紹介で工場に臨時で入ることができました。製造部や分離部に務めましたが、工場は昭和十九年の製糖期までは操業していたように思います。

 徴用・防衛召集

 製糖工場で働いている時に徴用令が来て、読谷山飛行場造りに行かされました。発破を使って石を砕き石粉(イシグー)にしてトロッコで運び、滑走路に敷き詰めるという作業でしたが、読谷山で徴用されているというのに、石垣の飛行場建設への徴用令も入って来ました。
 現在徴用中ということで石垣には行かずに済みましたが、もし行っていたら死んでしまっていたかも知れません。というのは昭和十九年に石垣へ向かった人々の船は途中、アメリカ軍の潜水艦に撃沈され、楚辺の人も大勢亡くなったからです。
 防衛隊としては屋良に召集され、中飛行場建設に従事しました。軍服と靴、それに巻脚絆が支給され、四中隊に配属されました。仕事は八時に始まりましたが、炊事は交替で行いました。
 時々行軍があり、屋良を出て北谷を通り、石平を経て山内から戻ってくるという長い道程で大変辛いものでした。
 米軍が上陸するということで、白川・楚南山城・石川・古知屋・宜野座を通って、大宜味村押川で中隊は一応解散しました。解散とは言うものの実は、現在の中隊を解いて首里へ集結ということだったのです。
 敵の配備線を抜けて南下し、読谷山村牧原まではたどりついたものの、それより南へは突破できず、クールダキグヮー(読谷山岳)に戻りました。行動を共にした人たちは、大湾※※(中隊は別)・※※・次良徳松の※※(※※と言った)に大湾の人二人、それに石平の石原※※でしたが、間もなく石原は家族を探すということで離れました。
 昼は山に隠れ、夜になると留守番として一人を残して食料探しに出掛けました。日本軍の壕の跡や米軍進攻の跡地には缶詰や乾麺麭(かんめんぼう)、それにチーズやバター等もあり食料はまあまあでしたが、煮炊きするのにマッチがなくて、火種を絶やさないようにしました。
 防衛隊で支給された軍服は脱ぎ、壕の中から着物を拾ってきて着けていました。アメリカ兵に見つかり追われたこともありましたが、全員無事でした。

 収容所へ

 終戦も知らずに日本の勝利を信じて、大当山(ウフドーヤマ、現国道五十八号の東あたり)をさまよっていましたが、九月か十月頃ミカンを取りに行った民家の人に言われてはじめて終戦を知りました。
 夜だったので「命が惜しいなら準備して来て、明日石川に行こう」とその人に言われて、翌日石川に行きました。一緒に行動した人々は皆無事でした。
 参考=『楚辺合同調査報告書』

<-前頁 次頁->

読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第三節 それぞれの体験