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3 防衛隊・男子学徒隊
体験記

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 ○島袋※※ 大正五年生 字※※

 現役入営・「支那事変」(日中戦争)へ派遣

 私は昭和十一年、第十二師団久留米連隊輜重隊へ現役入営しました。輜重とは、軍隊が必要とするすべての物資の運搬と監視に当たる兵科です。他の兵科の教育期間が二年であるのに対して輜重兵のそれは五〇日余りで、いわゆるミチチャーヒータイ(三月兵隊)とも言われました。
 軍の武器弾薬や糧秣の運搬は主として輓馬(ばんば)が用いられます。私は娑婆にいた頃から馬の扱いには慣れていましたが、この短期間に馬具をはじめとするいろいろな名称を覚えるのには一苦労しました。その上、兵隊としての一般訓練も一通りは受けました。
 除隊後、家業に従事していましたが、昭和十三年第六師団熊本六連隊に召集され、直ちに支那(中国)へ送られました。
 輸送船で渡り呉松(ウースン)に上陸し上海に至り、その後揚子江(長江)を溯り、武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽)に駐屯した後、前線に送られました。
 前線では歩兵の進撃を追いかけ、弾薬・糧秣を届けるのですが、補給は何回も行われますので歩兵の何倍も補給路の往復を繰り返しました。途中敵と遭遇しますと応戦しなければならず、そのためにも軽火器を携行しなければならないので、その装備も運搬上の負担となりました。
 駐屯中、一〇六部隊の応援にいったことがありますが、こちらが六師団と知ると、敵さんは恐れて、襲ってはきませんでした。
 昭和十六年、私は連隊本部にいましたが、三中隊の古堅※※(同字)が六中隊で教育を受けるためにやってきて久しぶりに話し合いました。彼は三日泊まって原隊へかえって行きましたが、その後間もなく戦病死したと聞きました。
 それまで連戦連勝だった我が軍も、やがてアメリカ製の優秀な武器をもつようになった敵に押しまくられて、命からがら長沙から転進(退却)しました。その大敗の原因は、進み過ぎた六師団の勇み足にもあったのです。
 昭和十七年の暮れには武昌に下がり、さらに南京から鉄道経由で上海に行き、呉松(ウースン)から船出して福岡に着き、熊本で除隊になりました。

 防衛召集

 帰省後は、北飛行場(読谷山飛行場)の建設に従事したりしていましたが、昭和十九年、防衛召集を受け、北谷村屋良国民学校に入隊しました。
 私たちの任務は飛行場の滑走路整備とその警備でしたが、同字の山内※※や古堅※※らと共に都屋で漁労に従事させられたことの方が多かったように思いました。
 昭和二十年四月一日、米軍が北谷・読谷山海岸から上陸して来ますと、屯所を放棄して北谷村国直に撤退しました。そこで隊長の古賀中尉は島尻に移動すると言い出しましたが、私は歴戦の経験からして北部に行くことを主張しました。隊員全員が私の考えに賛成しましたので、古賀中尉の統率力はすっかり失われて、部隊は解散同然になりました。
 軍装のまま一人で北部に向かっていると、楚辺の大湾※※・上地※※他一人に懇願されて羽地まで同行することになりました。三人を同郷の人たちに合流させ、「敵に出会っても逃げるなよ」と助言をして、また一人で南下しました。
 名護の近くで二人の米軍斥候兵(せっこうへい)と遭遇しましたが、お互いにそのままやり過ごしました。ここで軍装は不利と思って手榴弾を捨て、軍服を脱いでよれよれの着物をまといました。
 家族は恩納に疎開しているとのことでしたので、あちらこちら探し回ったのですが、全く行方は分かりませんでした。集落外れで米兵のキャンプの近くに出てしまいましたが、幸い撃たれずに済みました。
 集落近くは余りにも米兵が多いので、恩納岳に退きましたが、ここで山内※※他数人がついて来ましたが、構わずまた単独で読谷山村長浜までしのんで行き、さらに山伝いに喜名東の村有林を通り越来に出ました。付近には米兵がテントを張り駐屯していましたが、彼らに見つかりいつの間にかついてきていた又吉某は撃たれ死亡しました。

 投降

 その後越来村字上地の草葺き家の天井裏に一週間も潜んでいましたが、その後、先に捕らえられていた人々に会い、投降を決意して自分から出て行きました。その時相前後して投降した人たちは山内※※や石川※※、それに大島出身の※※たちでした。彼らはずっと私の後を追っていたのです。
 投降に際しては、尋問されても他人のことは言うな、と申し合わせていました。やがて日系二世兵士の尋問に際して私が、軍隊のことはまったく知らない、で押し通しますと、他の人たちもそれにならいました。
 胡屋の収容所で北谷村屋良の伝道(屋号)の小母さんに会いました。彼女は義伯母(伯父の妻)の妹で、ハワイ帰りで英語が話せるので通訳を務めていました。彼女が姉と面会のために石川へ車で行くというので、同行と便乗を頼みました。運転手の米兵も便乗を許して呉れました。
 家族はすでに石川に保護収容されており、そこで家族との再会を果たしましたが、元防衛隊での同僚が言うには、島尻へ行くと言って空威勢を張っていた古賀中尉が真っ先に捕虜になり、屋嘉捕虜収容所にいるということでした。

 聞き取り=一九九九年九月三十日 於 島袋※※宅

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