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○比嘉※※ 明治三十七年生 字※※ (屋号※※)
徴兵検査
二十歳になると北谷学校でヒータイシラビ(徴兵検査)がありました。兵隊は五尺一寸から召集され、幸い私は五尺五分しかなかったので召集されずにすみました。ヒータイシラビを受けるまでは、男の子は大きくさせないように、成長させないようにと両肩に荷を担がされました。その頃の人たちは軍隊に召集させない考えで大きく育てないようにしていたのだと思う。
それでも兵隊として召集され出征するときには盛大に送別会を催していました。
日本軍駐屯
戦時体制下に入ると、家のアサギを階級の高い兵隊が宿舎にした。一般兵はあちらこちらに分散していました。家は竈(かまど)も二つ大きいのがあったので、一般兵も含めての食事を家のウスントゥ(炊事場)で炊事班が準備していました。そのおこぼれで私たちまで麦御飯をもらったこともありました。
家の前のメーヌクラヤシキはセンダン木が植えられて広場になっており、そこに山部隊で字長田のマーチキヤー(松を切る)の兵隊がいた。その兵隊たちに甘藷を持って行くと喜んで食べていましたよ。アサギにいる上官に見られたら大変だということで隠れて食べていました。
あちらこちらに分散している兵隊もみんな家で食事を取っていました。
私の家のアサギにいたのは高射砲部隊の少佐ではなかったかと思う。球部隊の人たちでした。夜になると広場で兵隊を並べ、点呼を取ったり号令を掛けたりしていました。兵隊は殆ど北海道の人たちでした。北海道の人たちは体格も立派で顔もきれかった。他にはイーグチ(屋号)やイーカナマチ(屋号)にも兵隊が泊まっていました。楚辺は部落が大きかったからなのか、どこの家でも兵隊が借りていました。
防衛隊
私は昭和二十年二月頃、四十二歳で防衛隊に召集されました。私はなかなか召集されなかったので、免れたと喜んでいたのに、上之山に防衛隊として配属されることになりました。那覇の上之山国民学校へ配置になり、楚辺のイートーバル(屋号)、字波平の※※(松田※※)らと喜名の人が一緒でした。その時すでに那覇の街は壊滅状態で瓦礫の山になっていました。上之山国民学校だけが残っており、そこでの仕事は首里の観音堂前の壕掘りでした。なんの仕事かと思っていたら壕掘りだよ、防衛隊の仕事というのは。米兵上陸以前は日本兵と一緒に運動場で酒盛りをしていたが、米兵が上陸したことが知らされると、それまでは防衛隊ということであったのに、「もう二等兵ですよ」と言われ、その日から兵隊の規則を守らなければならなくなり、厳しくされた。
米兵が上陸してからは国民学校にいることもできず、あっちこっちに逃げた。その時からは命令などなく、各自逃げるのに必死でした。国頭や島尻などあっちこっちに逃げて行った。
捕虜
六月二十三日に喜屋武の岬で捕虜になった。私の班の班長は嘉手納の喜名さんという人でした。
六月二十日の夜のこと、彼が私に「イクサは勝っているよ、※※。弾の音も聞こえなくなっているし勝っているよ」と言った。私たちは「良かった、良かった」と口々に喜び、二十一日には壕の入り口を覆っていた枯れ葉を取り払いました。
同日夕方、壕の前を米兵が歩くのを見かけてビックリして再度、入り口を覆った。勝ちイクサのはずなのにどういうことだと思った。どうしようかと相談して、東の海辺を廻って船を探して国頭まで逃げようということになった。夜には海の方へ船を探しに出たが、船などあるわけもありません。その晩と二十二日の晩は、どこに逃げようかと右往左往していましたが、何処へ行くこともできず、仕方なく二十三日の夜明けに糸満の海岸近くに隠れていました。そこでサーターグヮー(黒糖)をなめたり、水を飲んだりしているうちに眠り込んでしまっていた。
突然、「大変だよ」と揺り起こされてみると、学生のような子が「心配しないで小父さんたち、ここにはたくさんの御馳走があるよ」と言った。「お前みたいなヤナワラバー(悪い子だ)、米兵なんか連れて来て」と私たちは舌打ちしたが、どうすることもできず捕虜となりました。
そこから振り向くことも許されず連行されました。ずっと歩かされて出たところが糸満街道でした。その道は米兵がいっぱいで道の両側を埋め尽くしていた。初めて見るアメリカーは大きな人たちで恐かったが、煙草や菓子をくれた。
そこからジープに乗せられ、捕虜が二、三〇人いるところに連れて行かれ、所持品検査をされた。そこを終えて次の所へ移されて驚いたよ。大きな広場に一〇〇人ほどの捕虜が集められていたんだ。(後略)
(『読谷村立歴史民俗資料館紀要』第一五号「庶民の生活史」から。)
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