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3 防衛隊・男子学徒隊
体験記

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 ○松田※※ 昭和四年生 字※※

 防衛召集

 昭和十九年(編者註=昭和二十年)三月中旬、私は防衛召集を受け読谷山役場(現在の喜名番所)に出頭した。父徳成も同じようにこの日に防衛召集を受けていたので親子二人が同時召集を受けたのである。
 その頃は村に若者は一人も残らないほど召集され、僅かにそれを免れていた者への最後の召集であった。したがって四十を過ぎ初老の域に入った人たちや十六〜十七歳の少年達ばかりであった。
 振り返ってみると三月中旬というと米軍が上陸する二週間ほど前である。喜名周辺にいた守備軍が南部に引き上げ刻々と敵の上陸が迫っているのを肌で感じていた頃であった。日本軍もおそらく直接戦闘につかせるための召集であっただろう。
 戦場に駆り出される不安もあったが、喜名出身の人が多くいたのがいくらかの救いであった。顔馴染みの村の先輩が一緒だというだけで心強い。
 我々と同じ日に召集された喜名の人には、安里※※、比嘉※※、喜名※※、大城※※、佐久本※※、波平※※、翁長※※、それに父松田※※などがいた。その中で安里、比嘉、喜名、佐久本、松田が四十歳を越えており、最年少の翁長※※と私は十六歳であった。他の字から集まったのも年寄りと十代の少年たちである。
 役場構内で配置先が告げられ、我々は二十人ぐらいがトラックに乗せられ、那覇市の上之山国民学校に連れて行かれた。その頃から学校など公共施設はすべて日本軍に取られていたが、この上之山国民学校も球部隊の兵営になっていたのである。
 父※※も同じ部隊に配置されたが入隊は翌日とのことである。というのは父や喜名※※、佐久本※※などの荷馬車を持っているものは馬車つきの召集である。馬車は弾薬の運搬などに欠かせないのでそれを目当てにして召集したのであろう。この人達は喜名から馬車をひいて翌日入隊し我々と合流した。我々の班長は比謝矼で馬蹄業をしていた喜名兵長であった。
 私は少年だったこともあって中隊長の飯当番を言いつけられた。当番兵みたいなもので、いわば隊長のお世話係りである。
 防衛隊といっても戦闘の訓練があるのでもなく防衛隊員は毎日首里山川の壕掘りの仕事の連続であった。防衛隊というのに軍服も支給されなかった。私は青年服をつけていたが別の人達はそれぞれ家から着けたままの服装である。帽子もまちまちで、よく覚えていないが、あるいは裸足の人もいたように思う。情勢が緊迫してから働ける者は残らず召集されていたので支給する軍服もなかったのだろう。

 首里山川の壕

壕掘り作業(宮平良秀画)
 我々がこの上之山国民学校に配置されて直ぐに上陸を意図した空襲が始まった。三月二十三日からはじまった空襲である。今までの空港や港湾の攻撃に加え日本軍陣地への徹底攻撃に変わっていた。「どうも様子がおかしい、上陸を意図しているのでは」との不安を誰もが感ずる激しさであった。この空襲で大隊長(名前は分からないが少佐だった)が戦死。
 空襲のあまりの激しさに、ここにもおれなくなり首里の山川に移った。そこはそれまでに我々の部隊が掘った壕であった。
 四月一日、敵は上陸した。壕の中にいた私はそれを見てないが直ぐに伝わっていた。我々防衛隊はここで軍服を支給された。軍服に布製のカバン(雑嚢)、携帯食料二個、正露丸の小瓶一つ(これは泥水を飲んでもおなかを壊さないためのものという)それに手榴弾二個が渡された。まさに臨戦態勢である。
 我々の部隊は二〜三百名ぐらいであった。そのため壕が狭いということもあって、正規の兵以外の防衛隊は首里の盆地を囲むカラヤー森という山に移った。そこには墓がいくつもあり、大きな門中墓が二つあったのでそこに分散して入っていた。ほとんど読谷からきた防衛隊員で一つの墓に七〜八名で計十五名ぐらいであった。
 前に述べたようにここはいくつもの墓があったが墓と墓とはトンネルで全部繋がっていた。この丘は球部隊、山部隊、石部隊など正規軍の日本軍の陣地であった。そのため片方が攻撃されてもトンネルを伝わって出られるようにするためであった。
 このカラヤー森に来てからも空襲の荒れ狂う中を防衛隊は壕掘りを続けていた。この壕掘り作業は敵が上陸したあとも続けられた。
 私はここでも舎内当番を命じられていた。将校の食事を作るため、玄米をついて白米にしたり、ターンム(水芋)を取ったり、キャベツや芋を取ってくる仕事である。壕の外は敵機が飛び交い、艦砲が凄まじい轟音を立てて炸裂する。艦砲が激しくなると隠れ、その合間を縫って食料を取るのである。
 この墓には十日ぐらいいただろうか、余りに艦砲が激しくなり、ここにもいられなくなり再び山川の壕に引っ越した。
 上陸した米軍は刻々と浦添、那覇に迫り、厳しい戦闘が始まっていた。そのため私以外の喜名からきた防衛隊は毎日のように弾薬運びに駆り出されていた。空襲も艦砲も激しく、もはや馬車も使えなくなっていたので弾を背負って山川から与儀の陣地や他の日本軍陣地に運ぶ労務である。高射砲の弾を二つロープで背負って運ぶのだが空襲や艦砲の荒れ狂う中を二キロ余も運ぶのだ。

 那覇を撤退

 識名には野戦砲の陣地があった。この野戦砲は実によく活躍したものである。間断なく敵に向かって撃ち続ける。我々のいる山川からはちょうど相対する丘になっているので手に取るように見える。実に頼もしい反撃である。ところが敵に察知され艦砲と飛行機による集中攻撃を受け、直ぐに壊滅した。
 この野戦砲攻撃に呼応するように、敵はここ首里の日本軍の陣地に徹底した攻撃を仕掛けてきた。我々の部隊はここにもいられなくなり与儀に移った。現在の知事公舎の辺りである。
 あそこはちょっとした丘になっているがその下は蜂の巣のように壕が掘られていた。ところが、我々がそこに移る頃からはすでに日本軍の敗色が濃くなっていたのだろう。たった二〜三日で南風原に移動せざるを得なかった。
 我々防衛隊はそこにあった高射砲を南風原の長堂に移動せよとの命令を受けた。高射砲を分解し担げるものは担ぎ、砲身だけは馬車に積んで出発した。昼は敵の攻撃が激しいので夜の行動である。
 道は艦砲や爆弾で掘り返され、爆弾で飛び散った瓦礫が散らばっているので砲身を積んだ馬車もロープで引っ張らなければ一歩も進まない。しかも真玉橋は爆撃で壊れたのか、あるいは日本軍が壊したのか、通れないので一日橋を迂回しなければならなかった。
 夜でも艦砲は絶えることがない。照明弾が絶え間なく打ち上げられ昼のようになる。その度ごとに隠れるの繰り返しの移動である。
 我々の行く那覇から南部への道は至るところ死体が転がっていた。ほとんど艦砲でやられているので残酷である。真玉橋では首のない死体が転がっていたが、その切れた首に蛆が湧いていた。東風平では艦砲に吹き飛ばされたのだろう肋骨がぽっかり開いた死体が木の幹にへばり付いているのを見た。
 我々防衛隊には鉄兜も飯盒も支給されてなかったが、死んだ兵の物を取って鉄兜を被り、飯盒も持っていた。
 結局我々はこの高射砲を摩文仁まで引っ張って移動した。ところが高射砲は組み立てる事もなく、使われることもなかった。もはや日本軍に反撃の力はなく、兵隊もただ逃げ惑うばかりであったのである。

 南部戦線

 現在の姫百合の塔(編者註=ひめゆりの塔、以下同じ)近く、米須に大きな自然壕がある。姫百合の壕よりも大きいと思われる壕である。我々はそこに入った。兵隊や防衛隊員などすでに沢山の人が入っており座るところさえない。座るところもないので、下の水が流れているところに飯盒を置き、その上に座って時を過ごした。
 ここで偶然にも字出身の松田※※君に会った。彼は私より歳は一つ下だが、彼も防衛召集されてここまで来ているのである。彼の話によると同じ字出身のミーヤー当山の※※(彼と同年輩である)もこの壕にいるとのことだったが、※※君に会うことも出来ないままその壕を出た。
 ここまでくると兵隊も逃げ回っているだけで命令系統もない、我々はここで部隊から離れ、読谷出身の防衛隊だけ具志頭の安里(与座、仲座)に移った。墓が幾つもあったのでその中の二つに分散して入った。
 不思議にここは飛行機も来ないし弾も来ない、今までのことが嘘のように静かである。波平※※と比嘉※※さんがどこから手にいれたのか馬を買ってきた。その馬を潰して久し振りに御馳走にありつけると喜んで馬肉を飯盒に入れて炊き始める頃、物凄い艦砲射撃が辺りに炸裂した。馬肉を食べるどころではない。標的になっているようである。
 与座、仲座にチンガー(井戸)があったが水を汲むにも這っていくほど危険になっていた。
 与座川に、水汲みに行くといくつもの死体が浮いている。しかもここで今まで一緒にいた読谷村長浜出身の松田※※は黄燐弾で死んだ。墓の入り口でやられたのである。黄燐弾というのは花火みたいに火の粉が飛び散りそれによって焼け死ぬのである。
 こんな事があって、ここも危ないというので夜道を摩文仁、米須を通って喜屋武福地に入った。ここは壕がない。幸いに水を溜めるのに使ったのかセメント造りの、人が入れるような筒があった。それを横にして中に入り昼間を過ごした。
 ここ摩文仁にきてからは一ヵ所に落ち着くことはない。一日隠れただけで喜屋武岬に行った。ここまで我々読谷出身の防衛隊はずっと一緒であった。喜名の人、長浜、楚辺の人を含め十二〜三人である。一緒におれば助け合って生き延びることができる。それにこんな生きるか死ぬかの瀬戸際では、一緒にいることで心の支えになるとの思いがあった。
 ここ喜屋武に移って最初は村の屋敷の掩帯壕(編者註=掩体壕)に入っていた。後は海でもう逃げ場はない。
 その頃、北、中飛行場(読谷飛行場、嘉手納飛行場)は友軍が占拠しているという話が伝わった。我々は敵陣を突破してそこにいくことにした。そのためこんな大勢の人が一緒にいると危険だというので次の二組に分かれることにした。

 一組
比嘉※※、波平※※、大城※※、喜名兵長、それに波平出身の松田さん、佐久本※※ 六〜七人

二組
翁長※※、安里※※、喜名※※、それに父松田※※と私の五〜六人であった。

 ここまでくるともう運まかせである。一組は西海岸回りで読谷に向かうと言い、我々の組は東海岸回りで読谷に向かうことになった。二組に別れそれぞれ別行動を取ることになったのである。
 我々は追い詰められ摩文仁の海岸に来ていた。兵隊や住民がうようよしている。兵隊も住民もなく単に逃げ場を探して彷徨っているだけである。

 摩文仁

 私は摩文仁の海岸の崖に潜んでいた。現在牛島中将の自決の碑がある下の崖である。牛島、長参謀が自決した六月二十三日の四〜五日前だから六月の十九日か二十日頃である。その頃までは父※※も一緒だった。
 この摩文仁でのことである。我々親子のいるところに突如日本兵が現れ、父に銃を向け今にも撃たんばかりの形相で食べ物を出せと迫った。上等兵の階級章をつけた兵隊だが、断れば今にも撃たんばかりである。幸い父は持っている米を全部渡したので事なきを得た。撃たれなくて命拾いをしたようなものである。
 負け戦の戦場では何をするか分からない。自分もあと幾らかの命、相手もどうせ死ぬのだと思っているのだ。戦争では罪の意識もない。それが戦争である。
 我々がここ摩文仁にきてから後を追うように米軍は崖の上まで迫っていた。海からは敵の哨戒艇が我々のいる崖に向かって弾を撃ち続けている。一人か二人しか入らない岩の窪みに身を隠すのだから父とも別れ別れになっていた。前に別れた別の組もどうなったか皆目分からない。後で聞いたら、喜名兵長も佐久本さんも死んだという。
 同じ村の人がいるというだけで心強かったのにその仲間も今ではちりぢりばらばらである。
 幸いに翁長※※君とは最後まで一緒だった。
 我々のいる断崖の下は波打ち際になっていて、幾らも離れてない海には敵の哨戒艇が浮かび、盛んに投降を呼び掛けている。それに応えるように住民や兵隊たちも降伏する者が出始めていた。
 崖の下の浜辺を数人の女が歩いて行く。その女の一人はオッパイをやられているようで黒くえぐられた乳房には蛆虫がたかっている。ふだんなら重病人だろうが皆と一緒に元気で歩いて行くのが奇異である。
 浜辺で一人の日本兵がやや大きい丸太を手に「慶留間に逃げる」と海に出ようとしていた。
 「一緒に連れていってください」と言うと「ついて来い」と言うなり海に出ていった。連れていってくれるものと※※と二人で飛び込んだ。しかし軍服を着けているものだから泳げる筈はない。※※君が溺れそうになったので引っ返してまた崖に潜んだ。
 崖の上は米兵がいるし、前の海には哨戒艇から弾が飛んでくる。食べるものもないから死んだ兵隊を見ると何か食べ物を持ってないかと持ち物に目がいく。死んだ兵隊の飯盒を足で蹴ってみると重みがあるので、開けてみると雑炊のようなものが入っていた。貪るように食べた。
 食うのもなくなり投降する兵隊や住民が日に日に増えていた。兵隊や住民が投降するために米兵のいる広場に歩いて行く。それでも私は隠れていた。しかしだんだんと人が少なくなっていたし、沖の船から「投降しないと明日は崖を焼き払う」と呼びかけていた。「思い切って明日は私も投降しようか」と思うようになっていた。
 軍服を脱ぎ捨て青い女の着物に着替えた。近くに三〜四歳ぐらいの男の子が怪我をして一人泣いていた。どこの子か知らないがその子をおぶって米兵のいる広場に向かった。六月二十日か二十一日であった。
 後で聞いて分かったのだが、父は私より二日ぐらい前に捕虜になったという。最後まで一緒にいた※※君が投降したのは私より後だったそうである。同じ摩文仁の果てにいても親と子も一緒にいた※※も皆ちりぢりばらばらである。戦争も土壇場になると親も子もない。それが戦争である。(後略)
(一九九八年二月一日発行『喜名誌』より原文のまま掲載、但し編者で段落をつけた。)

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