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4 戦争と軍人・軍属概説
体験記

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 ○中国での戦争体験
   砂辺※※ 字※※ 大正六年生

 川崎で徴兵検査、沖縄から入営

歩兵砲(大隊砲とも呼ばれた)の訓練時、熊本県大矢野原にて昭和13年4月末頃撮影(右後砂辺※※氏提供)
 私は古堅尋常高等小学校を卒業してから約二年間、月給三円で比謝矼の城間商店で店員をしていたが、給料の安い沖縄で働くのは馬鹿らしいと思い、一九三四年(昭和九)、神奈川県川崎市に行きました。
 その頃、他府県で働いている※※出身の人はたくさんいて、私の兄も川崎で働いていました。それで兄を頼って川崎に行ったわけです。
 私は船の荷揚げ作業や溶接関係の仕事をして三年ほど暮らしましたが、「どうせ兵隊に行くのだから金なんか要るものか」と、月給を取ると喫茶店やバーで使い果たしていました。
 一九三七年(昭和十二)、川崎で徴兵検査を受け、入営することになりましたが、沖縄へ帰る旅費も無いものですから、沖縄へは帰らないつもりでした。ところが「戦地にも行かされるだろうから、一応は帰って来い」との親からの手紙を受け、義姉から旅費として一〇円を借りて帰って来て、※※の自宅から入営することになりました。
 ※※から入営したのは砂辺※※、蒲長浜小の草刈り奉公をしていた呉屋、山内、それに私の四人で、比謝の知花※※が同時入営したので、合計五人が一緒でした。
 古堅尋常高等小学校で校区出身入営者の見送り式があり、比謝矼から嘉手納駅まで大勢の人々に見送られ壮途につきました。

 現役入営

 私は一九三八年(昭和十三)一月十日、熊本歩兵一三連隊第一機関銃中隊に入営しました。
 その時は中古の軍服を支給されていましたが、約一か月後、第三歩兵砲小隊に編入され、四か月間は歩兵砲の訓練があったのですが、私は足裏に肉刺(まめ)ができてしまい、訓練を受けることが出来ませんでした。

 営内生活

 軍隊の生活は朝六時起床、七時に点呼、八時には演習に行き、十二時には帰って来て、昼食が済んだら、また演習の連続です。五時か六時頃帰って来ると、内務班での掃除、恐い古参兵に小突きまわされ雑役を言い付かり、その後やっと自分の小銃の手入れをはじめ洗濯、靴みがきをするという毎日です。その上初年兵いびりも多く、ウグイスの谷渡りと行って寝台の間から頭を出して鳴きまねをさせられたり、柱に抱き着いて尻を振りセミの鳴きまねなどもさせられました。
 そのような生活で、口には出さないものの「もう生きて何するか。弾が来ても恐くない。こんな苦労をするより死んだ方がましだ」と思ったこともありました。
 ガーゼ袋入りの乾麺包(かんめんぽう)という乾パンがあって、いつも背嚢(はいのう)の中に入れていましたが、中隊長の命令があるまでは絶対に食べてはいけない、食べ物が無くなって初めて食べて良いという命令が出るのです。
 乾麺包袋の中には金平糖(こんぺいとう)という小さな星形の甘いお菓子が入っていて、それだけをこっそり食べていました。検査の時、「金平糖はみんな食ったな」と言われましたが、命令なのでどんなに欲しくても乾パンだけは口にすることは出来ませんでした。

 中国派遣

 戦地へ送られる前に、熊本の大矢野原で最後の大演習があり、一九三八年(昭和十三)五月一日、門司港を出て中国に向かいました。その時、軍服や編上靴等はすべて新品を支給されました。
 足裏の肉刺(まめ)で歩行にはかなり困難を感じていましたが、同じ隊の戦友たちが行くのに自分だけ残されるのは面目ないと思って、私は戦地に行きたいと自分から希望し、申し出ました。すると、沖縄出身の石川※※班長と宮城衛生兵に「君は練兵休だから駄目だ。足を怪我しているのに、どうして無理するのだ」と、一旦は断られましたが、「いや、自分一人残ったら恥ずかしい。みんな行くのだから、俺も行かせてくれ」と頑張り、やっと行かせてもらったのです。

 中支(中国中部)各地を転戦

 五月八日、安徽省蕪湖(あんきしょうぶこ)に上陸し、十五日、廬州(ろしゅう)において現地軍歩兵第一三連隊に編入されました。
 中国では前線へ向かうのに毎日八里の行軍で苦労しました。足裏の肉刺(まめ)が破れて膿が出た時は靴が履けなくて、片方は草鞋(わらじ)を履いて歩きましたが、草鞋はすぐに切れてしまうので、交換しながら歩いていました。
 古参兵から「行軍中は絶対に水を飲むな。水筒にチャンチュウという酒を入れて行け。水が欲しいときはそれをちょっと舐(な)めろ」と教えられたが、本当にその通りで、行軍中水欲しさに負けて飲んでしまうと、すぐに落伍という事態にもなりかねませんでした。
 私は駄馬(だば)を引いていたので、行軍中は暗くなると荷物を馬に載せ、馬と自分を縄でつないで馬に引かれて歩いたりしました。
 五月十六日から九月十四日までは、徐州(じょしゅう)会戦、安慶(あんけい)会戦、そして潛山(せんざん)での戦闘となりました。
 潛山では敵の大部隊と遭遇しましたが、弾薬は残り少なくなってこれからどうなるかという時、私と浜野という召集兵と二人で弾薬受領に行く命令を受けました。
 ところが敵の砲火は一段と激しくなり、出られる状況ではありません。溝のほとりで状況を見ていた小隊長菊池中尉は、「今行くと危ない、出るな」と叫びました。
 その声で浜野は居残ったようですが、私は構わず飛び出して後方に下がり、弾薬を受領しました。ところが隊へ持ち帰る途中、敵の襲撃に遭い、田圃の泥の中を一キロばかりも這いずり回り、ようやく隊に届けることができました。
 こうして持ち帰った弾薬を得た我が歩兵砲は、敵のチェコ機銃三基を撃破して我が小隊は危機を脱したのです。青木准尉は大変喜んで、「砂辺、よくやった。有難う」と抱きついてきました。
 この勝利に勢いを得た我が小隊は、進みすぎて敵中に入り込み、敵の挟撃(きょうげき)にあい撤退、つまり退却せざるを得ませんでした。私は分解した歩兵砲の砲身を担いで下がり、無事に我が隊の虎の子を守り通して、殊勲甲とされました。
 その後は、太湖(たいこ)・黄梅(おうばい)付近の戦闘、そして廣涌(こうゆう)付近の戦闘と転戦し、占拠後は警備に当たりました。
 敵と相対峙している時には、明かりを点けると弾が飛んでくるので、夜間に飯は炊けません。したがって茄子やキャベツを見つけると生で食べたりもしました。将校たちはご飯も山盛りでしたが、私たち下級兵はいつも腹を空かせていて、話はいつも食べ物のことでした。
 夜間、暗くて井戸の場所が分からず、死人の浮いている池や、汚い溝の水で米を洗って炊いたこともありました。飯炊きは初年兵の役目で、全員分の夕食を作って食べさせ、次の日の朝食と昼食の弁当を作らなければなりません。炊事仕事すべてが終わる頃にはすでに夜は明けており、一睡もしないこともありました。

 田家鎮の戦闘

 田家鎮(でんかちん)は漢口(かんこう)南東部の要衝で、強力な中国軍が布陣していました。九月十五日から始まったここでの攻防戦は中国における私の最大の激戦の一つとなりました。
 敵軍の包囲網の中、雨に降られ、ダグラ山の第一戦陣地に一週間ほど籠もっていましたが、そこに敵の迫撃砲弾が落下して渡辺軍曹と宮本上等兵が即死、二人の歩兵砲砲手は重傷を負うという大惨事がおきました。渡辺軍曹は、私を大変可愛がってくれた班長でした。
 やがて雨が止むのを待って、飛行機による弾薬・食料の補給を受け、勢力を立て直して攻撃し、ついに田家鎮を攻略しました。

 武漢三鎮

武昌にて 漢口攻略戦後初の休暇、外出が許された 左腕の「公用証」がないと憲兵に捕まったという 砂辺※※氏(左)・砂辺※※氏(右)提供
 漢口(かんこう)は都会で、武昌(ぶしょう)は大学がある所、そして漢陽(かんよう)は工業地帯で、この三か所を合わせて武漢三鎮といっていました。田家鎮が落ちると戦塵を払う間もなく十月十七日、武漢攻略戦に向かいました。
 田家鎮攻撃に参加した多くの部隊はほとんど全滅ということと、九州勢は戦は強いが野蛮だということで、武昌に回されることになりました。武昌では戦闘らしい戦闘もなく無血占領し、一か月ほど警備に当たりました。
 私のそれまでの戦功(殊勲甲)が認められ、後に功七級金鵄勲章を下賜されました。上官に「砂辺、良くやったぞ。あっぱれだ」と言っていただき、また小隊長には可愛がられて、時々呼ばれて酒やお菓子をいただいたりしました。そして寝る段になると、「おい、お前の寝るところはここだ」と言われ、小隊長室で良い布団にくるまり、寝かせて貰うこともありました。
 武昌に来て、それまでの四か月分の給料を貰い、戦友二名と連れ立って大きな馬車を借り、日本人の経営する酒保(しゅほ)(軍隊の売店)で初めての買い物をすることができました。
 一か月間の武昌滞在は、本当にのんびりした生活で、蛇山公園では村出身の人たちとも会うことが出来ました。

 兵器班へ配属

 その後、一三連隊本部で一か月間の銃工修業を受け、新たに設置された兵器班に配属されました。
 ある日、第三大隊一二中隊の補充兵教育係兼本伍長が缶詰等を持って私を訪ねて来ました。兼本伍長は青木准尉から私のことを聞き知っているようでしたが、私は初対面であったので、遠慮して彼が持参して来た物を受け取りませんでした。すると彼は「同じ沖縄人同士何の遠慮がいるものか」と押し付けて来たので受け取りました。
 兼本伍長が来た二日後、一二中隊の本部への出頭命令があり、行ってみると私を含む三人の者は第一線への弾薬支給係になることを命ぜられました。これはどうやら兼本伍長が手配してくれたようです。
 弾薬支給係の仕事は、第一線から弾薬受領に来た班長に弾薬を渡すだけの単純なもので、普段は暇な弾薬および兵器番でした。それで碁や将棋に興じたり、魚とりに行く余裕もありました。食事は実人数以上に多く申告して、贅沢に食べていました。
 また保管されている銃から良いものを取っておいてそれを渡してあげたり、員数外の銃を自分のいた歩兵砲隊に持って行ったこともありました。歩兵砲隊には四〇名の兵に対して銃はたった五丁しかなかったので、武器が増えたと大変喜ばれました。
 私以外の二人は、間もなく戦闘に駆り出されて行き、私だけが一年八か月も弾薬補給係として残っていたわけですが、そのお蔭で死なずに済んだことと思います。
 私のいた小隊には村上という書記長がいて、戦闘が終わる度に小隊員の軍隊手帳に「記録」を記入していました。私の籍は歩兵砲小隊にあるので、現在の連隊本部でのことは記入されません。しかし村上は、連隊本部に来る度に私の所に泊まり、その時に歩兵砲小隊の戦闘記録を私の軍隊手帳にも書いてくれました。
 彼が再々私の所を訪れるのは、どうやら私の給養(きゅうよう)のおこぼれを期待している向きもあるように見受けられました。

 満期除隊

持ち帰った「岳陽楼」の写真(砂辺※※氏提供)
 一九四一年(昭和十六)一月七日、私はマラリアで第六師団第一野戦病院に入院しましたが、二月十七日原隊へ復帰しました。
 そして、間もなく帰国ということになりましたが、悪い遊びでもして病気持ちになったら帰れなくなるということで、一か月間監視付きで隔離されました。そうなるとかえって帰心矢のごとしで、出発の日までの日程表を作り、一日を過ごすごとに日程表の日にちを消していくのが楽しみでした。
 その頃日本は、アメリカとの関係が大変悪化していて、戦争は避けられないとの専らの噂でした。それで「アメリカとの戦争が始まったら、家に帰っていても召集されるのだから、現役志願しなさい」とか、「あと三か月もすれば伍長になるのに」との勧めもありましたが、「そんなことはどうでもよいよ、どうせ私は人の上に立つ人間ではないのだから」と断りました。
 いよいよ二月二十三日には武昌を出発、二十七日南京へ上陸し持ち物検査があり、『軍隊手帳』と『戦跡の栞』は持ち帰ることができましたが、日記等は軍の秘密に関することが入っている恐れから焼き捨てるように言われました。
 写真等も捨てるように言われましたが、私は記念にと思い、雑嚢に細工して岳陽楼(洞庭湖を前に控えた名所)の写真をしのばせました。
 その後軍用船で揚子江を南下し帰国の途につき、三月六日、広島県似島で検疫を受け、風呂を浴び、軍服は消毒され、戦塵をすっかり落として清潔な身なりで汽車に乗って熊本に向かいました。
 三月九日、無事屯営へ着き、三月十五日の現役満期除隊まで一週間、営舎におりました。最終的な階級は兵長でした。

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