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4 戦争と軍人・軍属概説
体験記

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 ○中国大陸を転戦
   国吉※※ 字※※ 大正四年生

 入営そして除隊延期

 私は一九三三年(昭和八)、沖縄県立農林学校を卒業し、一九三四年(昭和九)、大阪市明正簿記専門学校に入学、一九三五年(昭和十)十二月、徴兵検査のため同校を早期卒業した。
 私たちは俗に「十年召集」と呼ばれた組で、一九三六年(昭和十一)一月十日、第六師団歩兵二三聯隊(都城)へ入営した。
 一年半の満期が近づき、それこそ帰心矢の如しで、各自、営門前のお土産品店に立ち寄り、星印入りの徳利や杯を買い求めていた。
 その時、突如起こったのが二・二六事件である。故郷への心のはやりは、その事件によって水をぶっかけられた。連隊の応急動員令が下され、兵役の満期除隊も取り消しとなった。

 北支派遣

 そうこうする内に一九三七年(昭和十二)七月七日、盧溝橋事件が起こり、北支へ派遣され、八月二日、北京の千軍台近くに駐屯し、初めて戦場に到着した。当時私は上等兵で第四分隊長をしていたが、敵軍との睨み合いが続いた。
 八月十八日、正定城攻撃へ進発し、十月八日、正定城を攻撃中、左腕貫通銃創を受け陸軍病院に入院したが、北支での戦闘終了にともない部隊が移動するにおよんで、入院三日目にして包帯をしたまま原隊へ復帰し、乗船のため石家荘(せっかそう)を出発した。
 十月二十七日、北昭丸にて中支方面に向かう。十一月五日、分隊毎に小艇に分乗し、汀線で水に浸かりながら杭州湾へ敵前上陸、その後、青補追撃戦で一日約二〇キロの行軍が続き、南京攻略に向かった。
 十二月十日、南京城外苑の雨花台を攻略するも、工藤分隊員が戦死し、約二週間その遺骨の一部を紙袋に包み、私の背嚢に安置して作戦に参加した。十二月十一日、南京城中華門を攻撃中、敵の大部隊と正面衝突し一時苦戦したが、やがて中隊本部から増援隊が到着して事なきを得た。
 一九三八年(昭和十三)三月一日、陸軍伍長に任ぜられ、約三〇日間旅順において特別訓練を受けた。

 商家橋の払暁(ふつぎょう)戦

 九月五日、敵は前方の丘陵に立て籠もっている。本日中に丘を攻略せよとの命を受けたが、敵は頑強に抵抗してなかなか突入できず、近距離で相対峙していた。
 機関銃弾の飛来が激しく、我が軍は溝に這いつくばったまま動けない。後方の大隊本部からは「直ちに攻略せよ」との矢の催促である。
 私は擲弾分隊長だったが、彼我間の距離での擲弾筒では近すぎて全く効果はない。擲弾筒で叩いてから突っ込むのが普通の戦法だが、ここで擲弾筒が使えないとなると、私は擲弾分隊長としての責任を痛いほど感じていた。
 夕方になり、小隊内でも焦り出し、誰か行かんかと言い出した。「現実の花より錦に飾る花を愛せよ」四、五日前届いた母校農林学校の近藤※※校長からの葉書にあった言葉がひらめいた。と同時に敵に向かって飛び出していた。
 あたりは地雷原かも知れないと思ったが、そんなことはどうでもよかった。暗くなった右側の物陰に敵の一団が潜んでいる感じがしたので、そっと近付いて手榴弾を投げ込もうとした時、「国吉分隊長が出たぞ!」と聞こえると同時に「突撃」の声がかかった。
 その声と同時に、例の暗闇の中から機関銃が火を吐いたと思ったら、何もかも分からなくなってしまった。
 その時、機関銃弾の一発が私の左の耳たぶをかすり、耳裏の頭蓋骨の外縁を通り、後頭部中央の鉄兜にまで達していたのである。
 その時の事を、当時小隊指揮班長の隈元※※(都城市早水町在)は、次のように書いている。
 「昭和一三年九月五日日没時、あなたは商家橋の戦闘で頭部貫通の重症でした。小隊長有馬※※少尉の腰部貫通銃創のあとでした。
 私はあなたの受傷部位を確かめましたところ、左耳の中に射入口があり、出血は意外に軽微でした。敵弾道のわずかに死角になっている地点を見つけてそこにあなたを運びましたが、あなたはこちらが楽だとしてアグラを組んで端然と座し、身動き一つしませんでした。私はこの人の生命もあと僅かばかりと思ったのでしたが、私その後第一小隊を指揮し夜襲攻撃をかけ、私も左下腿部受傷。翌九月六日、黄梅城門付近の第六師団野戦病院に収容され、そこで生きているあなたを見つけ、箸を落さんばかり驚きました」
 この戦闘では、慌て者が叫んだ「突撃!」の声が、有馬※※小隊長と野崎第二分隊長の命を奪い、幾多の兵たちを死傷させたのである。

 内地送還

 負傷後は野戦病院を転々と移され、十月二十日、内地送還のため上海を出発した。十月二十二日、門司に上陸し、熊本に送られ藤崎台陸軍病院へ入院、そこで陸軍軍曹に昇任したとの通知を受けた。
 一九三九年(昭和十四)二月二十日、都城陸軍病院へ移されて間もなく退院し、一か月の休暇を得て三年ぶりに帰郷し、郷徒と面会することができた。
 三月二十日より都城歩兵第二三連隊第四中隊四班の班長として約七か月勤務し、その内一か月は都城高等農林学校の軍事指導員として派遣された。

 満州の部隊へ転属

 十月一日、満州方面へ転属のため都城を出発。ノモンハン事変終了直後で、満州国ハイラルの満州第十八部隊六中隊に転属を命じられ、直ちに内務班長及び兵器担当、さらに衣料品担当を命ぜられた。
 一九四〇年(昭和十五)一月二十七日、戦局の推移と社会情勢を見て、私は職業軍人を志し、陸軍省令第五二号により現役下士官志願書を提出、二月十日、勅令一三七号付則第七条二号陸軍省令五二号により現役下士官に採用された。
 一九四一年(昭和十六)陸軍曹長に昇進し、中隊の衣料関係管理責任者となった。一九四二年(昭和十七)七月一日、営外居住を命ぜられ、兵営から約一里離れたハイラル市近くにある官舎を一棟与えられ、当番兵もつくようになった。

 軍務と結婚と

 一九四三年(昭和十八)三月一日、陸軍准尉に任ぜられ、一八部隊経理委員を命ぜられた。
 その頃、結婚話が持ち上がったのである。自分としても異存はない。ところが結婚ともなると、何はさておいても相手がいての話である。私は学校卒業この方、軍隊生活ばかりで、おまけに第一線での戦争生活に明け暮れて来たので、知り合った娘さんなどいる訳がない。そのような折、故郷から便りが来た。渡慶次の※※家の娘を推薦して来たのである。※※の妹なら面識はなくとも全く知らないという訳でもない。話はとんとん拍子に進んだ。
 読谷村字渡慶次の戸主※※の娘※※との婚姻許可願を一八部隊長に提出し、間もなく許可書を受領したので沖縄に送った。
 軍務中にあっては、結婚のためであってもおいそれと帰る訳にはいかない。結局、彼女から出向いて来ることになった。ところが、彼女の沖縄からの出発も知らないうちに、新しい教育飛行隊編成要員として静岡県浜松の部隊への転勤命令が出た。
 満州から釜山に至る長距離列車の中から、彼女の出発についての問い合わせ電報を打ったが、確認することは出来なかった。静岡に着いてみると、彼女は、鹿児島の叔母の家に逗留中ということを初めて知った。
 一九四四年(昭和十九)六月十日、浜松の飛行場では第四一教育飛行隊の編成が始まり、私は営外居住であるので宿舎は兵営前の旅館の二階に取ってあった。
 ※※が鹿児島を発って浜松へ向かっているという電報を受けた私は、汽車の時刻表を調べ、旅館から自転車を借りて三日間何回も駅と旅館の間を往復したが、彼女が到着する日時は全く掴めなかった。
 その内のある夕刻、駅にたたずむ二人の女性の人影があった。もしやと思って声をかけてみると、全くの他人だった。翌朝九時、北支大同飛行場へ先発隊員を命ぜられていたので、やむなく旅館へ戻り出発の荷造りを済ませ休むことにした。
 六月十九日、すなわち北支の大同へ発つ日の七時頃、突然、旅館の小母さんに大きな声で「国吉さん」と呼ばれたので、急いで階下に降りてみると、なんと、玄関にはパーマ姿の女性、すなわち※※が立っているので吃驚仰天(びっくりぎょうてん)した。まさか一人で沖縄から出てくるとは夢にも思わなかったのだ。彼女は昨夜静岡に着き、私の宿泊先を探しあぐねて駅前で宿を取っていたのである。
 二階へ上がってもらい、挨拶もそこそこに、私の荷物と貯金通帳を※※に託し、飛行場へ出掛けようとした直前、天候が悪く出発延期となり、お陰で一日ゆっくり今後の事を語り合うことが出来た。
 六月二十日、※※は汽車の都合を見て鹿児島の叔母の家に帰ることにして、私は第四一教育飛行隊先発隊副長として三機編隊で北支大同へ向かった。
 二十一日、大同到着と同時に第四一教育飛行隊、見習士官飛行士教育部隊の経理、特に衣料担当を命ぜられた。
 一九四五年(昭和二十)一月十日、朝鮮水原飛行場に移動、ここでも営外居住が出来るので、鹿児島の※※に連絡して鹿児島出身の中野准尉の奥さんと共に来鮮して貰い、その後三か月、新所帯を持つことが出来た。

 終戦そして帰郷

 四月七日、この頃沖縄での戦況は大変悪化し、その状況をラジオで聞いて心配するけれどもどうしようもなく、二人で南に向かって祈るだけしかできなかった。
 ところで、水原教育飛行隊での訓練機はボロの双発飛行機しかなく、上がることは上がるが着陸は保証出来ないという代物を抱えていた。こうして上がることを主に教え込まれた少年航空兵たちの中には、特別攻撃隊員となった者も多かったと思う。
 六月五日、水原飛行場に来て六か月、教育隊は北朝鮮会文に移動を命ぜられ、※※は他の奥さん方と水原の各々の住宅に留まることになった。
 八月、移動後二か月、終戦となり、大急ぎで荷物を貨車に積み込み、積み荷と共に水原に戻った。ここで※※は取り敢えず他の奥さん方と鹿児島に帰すことになり、満員列車の窓から押し込んで出発させることが出来た。
 十月三日、武装解除された部隊は汽車利用が出来ず、釜山まで歩いて行くことになった。私は笹倉少佐とともに部隊の設備・備品一切を米軍に引き継ぐために残り、その後少々のトラブルはあったものの、何とか終戦整理を済ませ、汽車で釜山に着いた。そこで歩いて来た部隊の主流と合流し引揚船に乗船し、門司に上陸した。
 ここで復員手続きを済ませ、直ちに鹿児島の叔母宅を訪ね、ここで約五〇日ぶりに※※と再会することが出来た。
 十月十八日、鹿児島県霧島商社利用の許可を得て、沖縄県出身復員者で開拓帰農組合を結成し、食料難に備えた。
 私は※※と共に、元酒保に使われていた一軒家を住居とし、馬一頭と荷馬車や鋤、それに小さなラジオも持っていた。
 一九四六年(昭和二十一)一月十日、長男※※が誕生した。鹿児島市から叔母が駆けつけ、帰農組合員全員で祝ってもらった。
 十二月一日、いよいよ沖縄に帰還出来るようになり、帰農組合を解散し、荷造り出来る物のみを持ち、鹿児島を出航した。安田※※・比嘉※※・知花※※・仲宗根某らが一緒であった。
 船から降りるとトラックに乗せられ、仮収容所へ運ばれた。
 十二月七日、石川佐次田家の屋敷に、叔父※※を中心に親戚が共同生活をしていた。話を聞くと、昭和十九年頃、北海道からの速射砲部隊の一部が国吉屋取に配置され、住宅の主な部分はほとんど軍に接収され、住民は炊事場の片隅に押しやられていたという。
 一九四五年(昭和二十)二月頃から波平の犬桑江原(イングェーバル)の洞窟を避難所としていたが艦砲射撃が激しくなり、そこには居れなくなったので国吉グループは山田の洞窟に移った。
 間もなく米軍が沖縄本島に上陸し、山田の洞窟に迫って来たとき、叔父※※のお陰で全員が無事石川の民家に収容されたという。叔父※※はハワイ帰りで英語が堪能であったため、通訳として米兵に当たったと言うのである。
 さて、読谷村は波平と高志保に移住許可がおりたので、私たちは一九四七年(昭和二十二)七月一日、帰村した。
 波平と高志保にはかなり民家が残っていたが、古里国吉屋取の集落は跡形もなく、米軍のボーロー飛行場と化しており、つくづく国破れて山河なし、の嘆きをかこった。

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