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4 戦争と軍人・軍属概説
体験記

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 ○極寒のソ満国境から台湾へ
   知花※※ 大正八年生

 入営

 私は昭和十二年三月、沖縄県立農林学校を卒業した。間もなく与儀農事試験場に設置されていた農業練習所(甲種)に推薦され入所した。同年九月、県甲種農業練習生を終了し、十月には県雇として農事試験場に勤務した。昭和十三年の始め頃、西原村在の西原試験場に転勤となり、約二か年いた。
 一九四〇年(昭和十五)、西原農事試験場勤務中に徴兵検査を受け、甲種合格となった。
 村長や村会議員、その他多くの村民の歓呼の声に送られて上覇、波ノ上宮で武運長久を祈願してから乗船、那覇通堂(トゥンドー)の港から感涙を押さえて船出し、同年二月十日、第十二師団歩兵第四六連隊(長崎県大村市)に入営した。
 当時の沖縄出身の新兵は、第六師団の熊本一三連隊、鹿児島四五連隊、都城二三連隊、大分の四七連隊と、第一二師団の久留米四八連隊、小倉二四連隊、そして長崎大村四六連隊に配属入営させられた。そのため郷里読谷山村出身の竹馬の友や、農林学校時代の同級生達もそれぞれ異なった兵営に入営したのだった。
 入営のための鹿児島までの船旅には、それぞれ異なった兵営に向かう者たちがともに甲板上に集って「暁に祈る」、「父よあなたは強かった」、「兵隊さんよありがとう」、「愛馬進軍歌」などを歌い明かした。

 ソ満国境警備

 第四六連隊に入営して大村の兵営に落ち着いたと思ったら、二月二十四日には満州国牡丹江省東寧県石門子の満州第一〇八部隊要員として門司港を出港した。
 門司港を出てから約一週間、船から汽車さらにトラックを乗り継いで、文字通り「ここはお国を何百里」を思い浮かべるような長旅の後、ソ満国境の東寧県石門子に到着した。到着するや直ちに第一〇八部隊(部隊長・国分※※大佐)第二大隊の第六中隊(駒本隊)に編入され、ここで内務班教育を受けたのである。
 白雪皚々(はくせつがいがい)、極寒零下二〇度の中、気の荒いノモンハン帰りの古兵殿の動静を気にしながら彼らの衣服の洗濯、兵器の手入れ、軍靴磨き、そしてランプの火屋(ほや)掃除が当然のこととして義務付けられ、そのあとに自分の兵器、衣服の員数確保などをした。
 昼間は極寒の中、雪中訓練、夜間は軍歌演習と号令調整の時間刻みの動きを強いられた。
 入隊後六か月の一期の検閲が無事終わり、一つ星の二等兵からふたつ星の一等兵に進級する頃からは軍隊生活にも慣れ、要領も心得るようになってきた。

 幹部候補生となる

 幹部候補生の受験資格は、中等学校在学中に軍事教練の合格検定証を必須条件とした。
 私は農林学校時代の教練の時間は割りとまじめにやっていたので、教練検定は好成績をおさめており、それで幹部候補生への受験ができた。
 一九四〇年(昭和十五)十一月一日、「兵科甲種幹部候補生ヲ命ス」という通達が来て、その年の十二月一日、奉天陸軍予備士官学校に入校した。
 ここに来ると、厳しい軍隊生活ながらも内務班では威張り散らす意地悪古参兵や三年生神様はいなくなったので精神的に救われた。つまり極楽内務班の様相に変わったのである。
 第二中隊(中隊長・松下※※少佐)、第二区隊(区隊長・日野※※中尉)の下、猛訓練をうけ、一九四一年(昭和十六)七月三十日、同校を卒業した。卒業すると、見習士官となり、原隊の石門子に帰り、第一中隊(中隊長・山田※※中尉)附を命ぜられた。
 その頃、日本による「支那事変」(日中戦争)や「満州国」(中国東北部)問題について、米英諸国はたびたび非難を続けていたが、ついに七月二十五日、アメリカが在米日本資産を凍結という挙に出ると、イギリス・オランダ等もそれに続き、いわゆるABCD対日包囲陣を布いて経済封鎖に踏み切った。日本軍はすかさず七月二十八日、南部仏印へ進駐し、南方進出の足がかりとした。
 南方情勢が風雲急を告げる頃、原隊では「関東軍特別大演習(関特演)」が下命され、関東軍の各部隊は戦時動員編成となり、我が一〇八部隊の各中隊も多くの召集兵をも加えて二〇〇人以上の戦時編成となった。それは「南進のための北辺の護りの固め」とか、あるいは「南北両面作戦」とか言われたが、私にはそれらの動き、状況は知る由もなかった。
 その後、石門子では第一中隊から、連隊砲中隊(中隊長・福永※※中尉)、歩兵砲大隊本部(大隊長・家形※※少佐)の大隊副官となり、さらに一九四四年(昭和十九)十月、「天皇陛下の命に依り、陸軍中尉知花※※、歩兵第四六連隊中隊長に補せらる」ということで、第一機関銃中隊長を拝命した。
 振り返って見ると在満六年半、実にいろいろな場面に遭遇していた。一九四四年(昭和十九)一月二十四日、特別志願将校に採用され、時局兵備要員幹部学生として、陸軍公主嶺学校に入校したのは、ソ連の重量級戦車に対抗し得る速射砲指揮官としての実戦教育を受けるためであった。牡丹江の軍馬補給廠では将校乗馬教官訓練にも参加した。石門子では三〇二高地や第一展望山におけるソ連陣地偵察、菜営嶺での連隊砲実弾射撃訓練、信義山やかぶと山での対戦車肉薄攻撃、匍匐(ほふく)前進などや、冬になると、部隊前の小鳥蛇溝での採氷作業、国境線大鳥蛇溝の冒険渡河(越境)大肚子川の弾薬庫大爆発事件と非常緊急配備など枚挙にいとまがないほどだった。


石門子附近要図 知花※※氏 提供


 南方に転進

 南方での戦況は、連合軍の猛反攻にあい、七月七日、サイパン島玉砕、七月八日、ビルマ・インパール作戦は全員撤退、そして十月二十四〜二十六日の比島沖(レイテ沖)海戦で我が連合艦隊は壊滅状態に陥り、米軍の次の進攻先は沖縄か、あるいは台湾か、はたまた本土かという情勢になっていた。
 十二月十日には、「軍令陸軍第一〇五号」により、関東軍の大移動が行われることになった。
 軍隊の移動は企図秘匿のため極秘裏に進められた。部隊の編成、装備、行先など、その内容は中隊長にも知らされなかった。ただ師団命令に基づいて、連隊長の指揮の下に粛々と実施されたのである。
 一応、ノモンハン近くのアルシャンへの進出と言われて行動を開始したが、装備その他などから、いよいよ関東軍の精鋭第十二師団主力の南方への転進であろうことは、兵隊の間でも充分推察された。
 東満国境の石門子から完全武装の背嚢を背負って、大肚川駅まで極寒雪中の夜間行軍であった。深夜の内に有蓋貨物列車に詰め込まれて、行く先不明のまま発車、とにかく東満から南下し、幾日か走り続けた後、旅順駅に到着した。
 旅順滞在中(輸送船待ちのため)は銃剣術訓練、乗船・退船教育、筏(いかだ)造り、あるいは射撃訓練等で待機した。
 一九四五年(昭和二十)の正月は、旅順郊外の天幕の中で迎えた。まず、皇居を遥拝し、小さい餅が三個ずつ配給され、酒を酌み交わし、これが今生の最後の正月になるかも知れないなどと語り合った。
 一月七日、突如移動命令が下され、部隊は旅順駅から再び汽車に乗って釜山港に移動した。そこでも輸送船団の編成のためか、定かではなかったが、有蓋貨車の中で数日滞在した。そこで東満から着けてきた冬服、冬シャツ、外套などを脱ぎ、全員夏服に着替えさせられたので、南方転進のことがようやく判明した。

 運命の岐路

 私ども歩兵四六連隊(満州一〇八部隊)は、三隻の輸送船に分乗して釜山港を出港し、一九四五年(昭和二十)一月十八日、門司港に着いた。
 九州出身の兵士たちは数年ぶりに故郷の山河を目前にしたが、埠頭上屋に閉じ込められたまま、一日の外泊も許されなかった。その頃、硫黄島守備隊の苦戦が報じられている時であり、その上、これから南方に送られるという矢先であったのでやむを得ないことではあっただろう。
 一月二十日門司港を出港し、鹿児島に向かった。連隊本部と第一大隊主力は明秀丸、第二大隊は他の部隊と共にくらいど丸に、第三大隊主力は馬来丸(まらいまる)にそれぞれ乗船した。そして歩兵砲中隊と速射砲中隊、通信中隊は小隊ごとにさきの三船に分乗した。被害を最小限度に食い止めるためであったのだろう。
 明秀丸は他の輸送船と船団を組んで門司を出港したが、途中、博多沖でエンジントラブルが発生したため、船団から離れて一月二十六日、一旦博多港に接岸、代船を待つことになった。それが幸運につながることになったのである。
 先行した馬来丸が枕崎沖で、またくらいど丸は台湾基隆上陸目前の一月二十九日、それぞれが米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没したことが知らされた。
 馬来丸には松崎中尉ら他多数が、くらいど丸には田淵曹長ら多数の戦友がそれぞれ分乗していたが、それが数時間後、そして数日後に沈没し、敢え無い最期を遂げたのである。
 私たちは、故障で動けなくなった明秀丸から新たに回航された大光丸に乗り換えて、二月十三日、夜遅く再び門司港を出港した。
 その時は一隻だけで、護衛艦もなく、まさに戦々恐々の航海で、昼は島陰に避難し、夜間航行という状況であったが、門司出港一〇日後の二月二十三日、無事台湾基隆港に着くことができた。

 台湾の守備

 台湾の基隆港に上陸した満州第一〇八部隊(歩兵第四六連隊)は、剣八七〇五部隊(部隊長・山根※※大佐)と秘匿略号が変更され、ただちに基隆駅から汽車で南下した。
 高雄州岡山郡援巣中に移送され、さらに同郡田寮庄大岡山山麓に移駐、刺竹の林を開いて甘蔗の葉で屋根を葺き、仮の兵舎を建てた。
 悪性のマラリア、赤痢、チフスなどの伝染病とたたかいながら、毎日毎日鼠穴(そけつ)陣地の構築に明け暮れ、また大岡山の頂上に機関銃を据えて、対空警備の任務にも従事した。
 大岡山から見下ろす台南の町は、一九四四年(昭和十九)十月十二日に爆撃されたとのことで、その後も絶えず飛行場を目標に、米軍機は爆撃・銃撃を繰り返していた。
 近くの高雄は、軍需工場地域であるばかりでなく、軍港もあったことからすでに大空襲を受けていた。
 緊迫した南方戦線の情報は、私たちには確かなことは報じられず、ただ奮闘転戦ということばかりであったが、間もなく硫黄島守備軍玉砕のことが知らされた。
 そのほかどこからともなく報じられたのは沖縄本島に米軍が上陸し、激戦が展開されて日本軍は玉砕した。そして県民の大半は軍と運命を共にして戦死したということであった。
 その後、長崎市に新型巨大爆弾が投下され、全市は一瞬にして壊滅したと報じられ、部隊構成員の約八割を占めた長崎県出身兵士は悲嘆にくれた。

 無条件降伏

 一九四五年(昭和二十)八月十五日の朝、突如「本日正午、玉音放送が行われる。中隊長は連隊本部に集合せよ」との連隊本部命令を受けた。私は第一装に着替えて帯剣し、本部の八椎型幕舎の連隊長室に行き、玉音放送を拝聴した。
 放送は雑音がひどく、内容はほとんど聴き取れず、各自それぞれの判断で理解するしかなかったが、とにかく「戦争は終わった」ということだけは理解できた。
 連隊本部から帰ると私は中隊全員の集合を命じ、その場で「玉音放送を連隊長と一緒に拝聴したが、雑音がひどくよく聴き取れなかった。どうやら終戦のようだが、動揺することなく、中隊長を信頼し、軽挙妄動(けいきょもうどう)を慎むこと。南方での戦争が終わっても台湾軍は厳然として在る。日本は負けたのではない。一層の奮起を望む」というような訓示をしたことを覚えている。恐らく連隊長訓示の請け売りの部分があったとは思うが、それが功を奏したこともあったのだろう。その日の午後は平常時の日課で、平穏無事に終わった。
 戦争は敗れたのではない、終わったのだと言っても正直なところ自分でも良く分からなかった。連隊長から軽挙妄動することのないよう厳しく注意を受けたが何故だったろうか、うまく整理ができなかった。
 やがて日本国軍隊の無条件降伏が現実のものとなって迫ってきた。武装解除されると日本軍将兵は捕虜となって何処かに連れて行かれるのかと思い、落胆、虚脱、恐怖の幾日かが続いた。
 全島玉砕が伝えられている沖縄出身兵士や、巨大爆弾が投下され全市永久壊滅されたという長崎市出身兵士たちに特に配慮するというかたちで、山崎※※連隊長の特命が出された。私は、各中隊に配属されている数少ない沖縄県出身兵士たちを訪ね「元気で一緒に復員し、沖縄再建にあたろう」と言い続けた。
 敗戦に伴う日本軍の武装解除は、部隊自らによって実施された。捕虜として強制収容されるようなこともなく、自主的に高雄港、基隆港から上船、帰国することになったが、約三〇万人の在台日本人の動揺の色は隠せないでいた。

 ポツダム憲兵

 武装解除した日本軍隊の風紀秩序の維持、在台日本人の生命財産の保護、軍需物資の警護、接収引渡しの円滑な実施のため、台湾憲兵隊の大増員が図られた。
 私も一九四五年(昭和二十)九月六日、台南地区憲兵分隊玉井分遣隊に転属が命じられ、いわゆる「ポツダム憲兵」ということで、玉井地区の兵器、弾薬庫、衣服糧秣庫の警備、また同地区の治安維持の任務に従事した。
 周辺では、弾薬、車輌、衣服、糧秣などの膨大な軍需物資は、米軍の監督のもとに中国大陸から進駐してきた中国軍に引き渡された。玉井憲兵分遣隊も地区内の軍需物資倉庫の接収引渡しを終え、その警備も中国軍に引き継いだ。
 近隣の在台日本人は高雄からいよいよ祖国日本に引き揚げることになった。ところが、憲兵分遣隊長であった私のみは、嘉義憲兵分隊に転属を命じられ、結局航空隊司令部に籍を置かざるを得なかった。嘉義市内の焼け残った寺で、他部隊から来た沖縄籍軍人らと一緒に投宿、一九四六年(昭和二十一)の正月は黒山羊を数頭つぶして豪華な酒宴を開いた。敗戦後にしては、にぎやかな正月をみんなで迎えたことになる。

 基隆集結

 これから先どうすればいいか全く分からぬまま幾月かが過ぎた。日本軍人の大部分が引揚げを終わった一月五日、台湾残留沖縄籍軍人は混成第一一二旅団に転属を命じられた。これでいよいよ私も故郷に帰れるかも知れないと、一縷の望みを抱き、希望にあふれて基隆に集結した。
 ところがそれはすぐに打ち消された。混成第一一二旅団が最後の日本軍隊として祖国に引揚げたあと、約二〇万人といわれる日僑(在台日本人)の台湾引揚げ業務の一部を、中国軍隊の下で担当する任務をあてがわれたのであった。
 日僑の引揚げ荷物は制限があり、厳しいチェックが私の主な業務だった。荷物の船積み、船を待つ間の食事炊き出し、徹夜の船積み作業などが幾日も続くことがあった。
 沖縄籍軍人は最後のご奉公ということで、献身的に働いたので、日僑の皆さんから大変喜ばれた。
 日僑の引揚げが完了した後も、沖縄現地米軍からの入域許可が得られず、またこれといった仕事もなかったため、暇と体力をもてあました。「小人閑居して不善をなす」ということがないように、退屈しのぎにいろいろ働きまわった。
 基隆市内で爆撃を受けて倒壊した建物の廃材や煉瓦の跡片付けをして小遣い銭を稼いだり、入船町や社寮島など沖縄県出身者の多い町に行って慰安と憂さ晴らしの生活をしたり、時には中国軍隊の要請で日本軍から接収した連隊砲、重機関銃の操作指導をしてご馳走になったりというものだった。また、高砂の有志の若者たちが残留日本兵士への慰問ということで、郷里の馬舞(ウマメー)に良く似た勇ましい踊りを見せてくれたときは、身近に沖縄が感じられて懐かしく、うれしく思った。

 琉球籍官兵

 沖縄への帰還のめどはつかないままの状態が続いた。基隆の学校(双葉、瀧川)を何時までも占拠していることも許されないので、台北の旧台湾総督府庁舎に移ることになった。
 最初、基隆に集結した沖縄籍旧軍人は、陸海軍合わせて約二〇〇〇人と言われていたが、日本軍人と一緒に、あるいは日僑家族と共に祖国に引揚げたものも多く、またヤミ船で宮古、八重山に帰郷した者もいて、台北に来た時は九〇〇人ほどになっていた。
 旧台湾総督府庁舎は、米軍の爆撃を受け、窓ガラスなどは全壊していたが、鉄筋コンクリート建ての躯体は一部損壊しただけで、使用には十分堪えた。面積は広く、本部、医務科、経理科、憲兵隊、自動車班などを収容した。また第一中隊、第二中隊は大稲堤に、第三中隊から第八中隊までは宮前に分散収容、それに基隆乗船支部を加えて、琉球籍官兵善後連絡部が編成された。
 「琉球官兵」とは当時全く聞き慣れない言葉で一種の戸惑いを旧日本軍兵士たちに与えた。言葉のニュアンスからは、昔の琉球王朝時代の兵士のことがイメージされる。しかしそうではなく「琉球官兵」とは、中国台湾省警備総司令部の訓令によって、帰るに帰れない在台沖縄籍旧軍人軍属が、基隆乗船地からやむなく台北総督府庁舎に移動、同軍司令部の区処を受けた琉球籍官兵集訓大隊の略称である。勿論中国軍隊に編入されたのではなく、日本籍軍が全員引揚げた後の唯一の日本軍部隊の栄光ある琉球官兵ということになる。
 在台沖縄県人の帰還業務に当たるため、各州ごとに僑民隊が組織された。その連合総本部も旧台湾総督府内に設置された。琉球籍官兵善後連絡部は連合総本部と相互に連絡協力を保ちながら、沖縄県人の早期帰還の実現を駐台米軍と中国軍司令部に要請した。
 軍隊というところは、階級だけで秩序統制が保たれている特異な社会である。そのため、敗戦によって階級章をはずし、しかも故郷は戦場となって玉砕、親兄弟、妻子の生死すら分からない状況の中にあっては、綱紀風紀など厳しく望むことは不可能に近いと言えた。
 そこで、全兵員が無事故で帰還できるように統制を取っていくのが私たちの任務だった。
 いろいろと心労の毎日であったが、私たちがそこで行ったのは、琉僑本部にお願いして郷里の先輩、偉い先生方を招いて精神講話、道徳規範などの話をして貰うことだった。時には中国軍隊からも「三民主義」について訓話をお願いし、それも拝聴したら中国側も沖縄籍人も大変喜んでくれた。さらに、無味乾燥で今にも心がすさみそうな兵隊宿舎に、一種のなごやかさと楽しいムードがおとずれたのは、琉僑の方々と官兵の眷族(けんぞく)が集中営に同居するようになったからだ。
 琉球籍官兵善後連絡部という呼称も、中国軍隊や本省人から同胞盟友というふうにみられ、好感を持たれた。「怨みに報ゆるに徳をもってす」という蒋総統(蒋介石)の思想で、最後まで親切に遇された。
 琉球籍官兵善後連絡部は、中華民国軍隊の指揮監督下に置かれていたので、その命令で毎日一〇〇人ほどの使役供出をして、市内公園の清掃、接収兵器の手入れ、物資の整頓、市街地道路の清掃、側溝浚えなどもした。とかく強制労働に服することもなく、また身柄を拘束されることもなく、食糧は豊富で保健衛生医療も完璧な台湾で終戦を迎えたことは最高の幸運だったと思っている。

 帰還、復員

 一日千秋の思いで待った沖縄帰還許可が出た。私の記憶では、終戦から一年一か月後の一九四六年(昭和二十一)九月頃である。
 まず、基隆乗船地連絡支部の増強のため、本部、医務科、経理科、自動車班、憲兵班の主力を基隆乗船地連絡支部に移動させ、岸壁倉庫の収用、さらに検査班、乗船班の兵員も増加し、交代制勤務ができるよう帰還輸送業務遂行のための態勢を整えた。
 二万人余の在台琉球籍僑民は、台北琉僑本部の指導指揮でひとまず台北集中営に集結された。官兵善後連絡本部と基隆乗船地連絡支部の密接連携で、下命されていた乗船運送計画に従って、私たちは琉球籍僑民を台北集中営から基隆岸壁の乗船待機所に移送、中国税関、中国軍憲兵による船積荷物等の検査、船積、出港の手続き、その他一切の帰還業務を完璧にして円滑に行った。私はこの業務遂行で、日本軍の有終の美を飾ることができたと自負している。
 琉球籍僑民の輸送は、第一次から第九次までに終了、引揚げ最終の第一〇次は乗船地連絡支部の最終要員官兵二二七人、その家族二一人、琉僑残留隊一九人の合計二六七人で、日本海軍最後の駆逐艦「宵月」に乗艦して、一九四六年(昭和二十一)十二月二十四日に基隆港を出港した。
 沖縄の中部、中城湾久場崎港に艦が着いたのは、翌日の十二月二十五日であった。その日の晩は艦上において分散会を開催、荒木艦長ら他乗組員に感謝の意を表した。翌朝、上陸復員、琉球籍官兵善後連絡部の業務をすべて完了した。

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