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4 戦争と軍人・軍属概説
体験記

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 ○フィリピンの離島警備
   新崎※※ 大正十二年生

 新兵として台湾軍台南第四部隊に入隊

 私は、一九四三年(昭和十八)三月、台湾総督府新竹師範学校演習科を卒業し、台中州大肚国民学校訓導を拝命した。在職中徴兵検査を受け、第二乙種合格となった。
 その頃には、戦局は大変厳しくなっており、郡内では月に二回ほど壮丁訓練が行われるようになった。本来、第二乙種は国民兵なのだが、甲種並びに第一乙種の人々と共にその訓練に参加させられた。同年九月二十一日には、兵役法施行規則改正公布施行により、第二国民兵も召集されることになっていたのである。
 一九四四年(昭和十九)二月、召集令状を受け、台湾軍台南第四部隊に入隊した。この部隊には沖縄からの現役兵もおり、嘉手納の池原※※がいたが、彼は体調を崩して保育隊での訓練を受けていた。
 同年五月、教育期間を終え一期の検閲を済ませると、フィリピン・バタン島守備隊として独立歩兵第三〇二大隊(隊長横山中佐、一〇三六名)に編入され、高雄市に集結した。そこで私たちは軍医による検診を受けたが、検便では細い棒を直接肛門に差し込むので、その痛さといったら大変なものであったが、とにかく異状なしということで合格、そして派遣軍の一員となったのである。

 バタン諸島警備

 バタン諸島はバシー海峡(台湾とフィリピン間の海峡)上に浮かぶ小島嶼群だが、そこでは先発の酒瀬川隊(四〇〇人)と合流して、守備隊は大きく膨れ上がることになった。その頃、近海は米軍潜水艦が出没、活動しており、我が軍の艦船の被害が続出している状況で、そのためうっかり出航することもできず、高雄市で五、六日も足止めを食わされていた。
 一旦出航すると、行く先は全く告げられず、ただ「第一線だ」と言われ、一夜にして到着したのがバタン諸島だったのである。
 バタン諸島は七つの島からなっており、私たちは主島のバスコに駐屯した。そこは前に米軍が駐留していたようだが、私たちが着いた時にはルソン島へ引揚げた後であった。
 バスコには港があり、飛行場もあったが、我が方には飛ばせる飛行機はもはや無かった。
 ここはフィリピンの一州だったようで、州知事も置かれているとのことであった。島民は英語とタガログ語を話していた。
 ここで私たちは小学校を接収して六か月程駐屯していたが、ここでの私達の日常は陣地構築で明け暮れていた。米軍迎撃のための陣地構築ということであったが、米軍上陸予想海岸に向けてのトンネル掘りが主な仕事であった。
 陣地構築出動時の様子は、褌一本の丸裸で、その上に雨合羽を羽織り、上から帯剣の帯革(ベルト)で締めるという格好であった。そしてトンネル掘りとなると、雨合羽は脱いで褌一本の姿となって十字鍬(じゅうじしゅう)(つるはし)や円匙(えんぴ)(ショベル)を振るったのである。何しろ軍服一張羅の着たきり雀では、こうでもしなければ仕方がなかったのである。
 その頃は一等兵になっていたが、補充兵は来ないのでずっと新兵扱い、そして仕事は厳しく、辛い日々の中でホームシックに罹っていた。
 戦況はいよいよ悪くなり、分隊毎に分散して山の谷あいを利用して草葺きの三角兵舎を造って移り暮らすようになっていた。
 その頃、下士官候補生志望募集があり、私にも応募の勧めがあったが、戦が終われば、どうせ私は教員に戻るのだからと、固辞した。

 戦況不利の中で

 近海では米軍潜水艦が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し、時には近海に浮上し島に砲撃を加えることもあり、付近航行中の我が方の艦船の撃沈も相次いだ。そのための遭難兵の死体の処理・埋葬が続き、大変だった。
 米軍機による空襲も頻繁になり、バスコ港内でも撃沈される船が出て来た。私達は沈没船から缶詰を引き上げ、各隊に配給したこともあった。
 一九四四年(昭和十九)の十一月、京都からの部隊二〇〇〇名が上陸して来て、私達と合流して独立第六一旅団(旅団長田島※※中将)となり、台湾軍から離れ山下奉文大将麾下(きか)の比島方面軍に編入された。こうして小さい島は兵隊で溢れ、右を見ても左を見ても兵隊という情況になっていた。
 野菜不足ということもあって、兵隊の中にはココヤシを切り倒し、その芯芽を食べるのがいた。島民たちにとってヤシは大事な財産であり、それを切り倒す暴挙には我慢がならなかった。それ以外にも島民との間で軋轢(あつれき)は少なからずあった。
 隣りの小島には牧場があり、少数の島民が牛を放牧していた。その島には二〇人の通信兵が駐留し、南方各地とバスコを結んで交信していた。その島で、バスコから渡った要人を含む多数の島民が蜂起して、日本兵に襲いかかり、皆殺しにした事件が発生した。地上には日本兵の死体を並べ、屋根の上にはペンキで救援を求める記号を記し、制空権を把握した米軍機に連絡しようとしていたのである。
 無電連絡で島からの返事がないことから、異変は察知された。異変を知った我が軍は、直ちに鎮圧作戦を展開した。この鎮圧には私も軽機関銃を持って参加したのだが、双方の軍隊の撃ち合いの場ならともかく、今まで何らかの形で接して来た彼ら島民たちに向かっては、どうしても発砲することは出来なかった。しかしこの事件は、私が兵隊として経験した唯一の戦闘らしいものとなった。
 鎮圧戦で捕らえられた島民たち数名は銃殺にされたが、戦後、首実検で責任者及び下手人は割り出されてマニラに送られ、戦争犯罪人として旅団長田島中将も責任を取らされ、山下大将らと共に絞首刑に処せられた。この一連のことがサブタン島事件と言われるものである。
 大勢の兵隊を抱えたこの島への補給は全く途絶え、日々の食にも事欠くようになって来た。そこで自活のために、名護出身の呉屋兵長を班長として漁労班を編成した。
 野原に自生しているカラムシ(苧麻(ちょま))の繊維を取り、網を作って漁をしたが、粗悪な網では思うような成果は上げられなかった。
 地元民はオビ(山芋)を栽培していたが、兵隊にはそれは作れず、一九四五年(昭和二十)五月には、サツマイモを植え付けた。しかしそれも終戦で収穫出来ずじまいとなった。
 この年の六月二十三日、沖縄出身兵は休みを与えられた。沖縄玉砕の報に接し、仕事は休んで喪に服させるという恩情だったのだろうか。しかし、そのことも中隊へ行って伝令から知らされただけであった。
 八月十五日の敗戦のことも後日知らされたのであるが、それを聞いて、本音はやっと終わったと言うのが偽らざる心情であった。
 食料は無いし、サツマイモはまだ取れない。仕方なく山百合の根(鱗茎(りんけい))を漁って食べていた。

 武装解除、ルソン島アパリへ

 一週間後、米軍がやって来て我々は武装解除された。米軍は武器、弾薬をLSTで運び去り、途中弾薬は海に投棄させた。そしてまた、四、五日すると、LSTでルソン島北部のアパリ港へ送られた。
 アパリに上陸すると、装具・持ち物一切を浜辺に置かされ、古参捕虜らしい人に、海で浴びて来い、と言われた。言われるままに浴び終えて上がって来ると、元来たところと別の方へ行かされた。結局、持参した装具等はすっかり取り上げられ、与えられたのはアメリカの中古軍服一着であった。
 米軍の指示もあっただろうけれども、同じ日本人捕虜にすげなくあしらわれて装具等を失ったことは大変惜しく、悔しい思いがした。
 そこでは米軍中古軍服に身を包み、港湾での石運びや兵舎の清掃等の仕事をさせられた。ある時、港近くにサン・ミギョール(San・Miguel)のビールが山積みされたところの作業現場に割り当てられた。フィリピン軍の監視兵は飲ませてくれただけでなく、お土産まで持たせてくれたこともあり、掃除でこき使われていた身にとって、その監視兵の恩情は深く身にしみた。

 マニラへ移送

 私はバタン島での爆雷運搬で足を痛めていたが、ここに来てその後遺症が出て痛みだした。病院へ行き、作業は休んでいたが、間もなくマニラに移送された。
 汽車での移送となったが、無蓋の貨車であった。途中、地元民の集落近くを通過する度に現地人の投石にあい、体を低くし、両手で頭を被い戦々恐々としていた。
 マニラではテント張りの病院に収容された。食事は重湯が主で、ご飯粒が数えられる位しか無く、水さえ自由に飲めなかった。元気な人達は使役の帰りしなに雑草等を摘んで、重湯に入れて食事の量を増やしているようだったが、私達病人にはそれも出来なかった。収容所長はかつて「バターン死の行進」(註)で日本軍に地獄の行進を強制された一人で、「私達にはこのような食事さえ与えられなかったのだ」と、彼は言っているということであった。

 復員、祖国の風は冷たかった

 一九四六年(昭和二十一)一月、帰還の話が伝わると、隣ベッドの大尉が「沖縄は玉砕したと言うし、どうだ、青森に来ないか」と誘った。その親切な気持ちは有り難かったが、心は動かなかった。
 そうこうするうちに日本の復員船(商船)がやって来て、病人を先に帰還させることになった。戦争からこの方、苦労続きで、そのせいでか取り越し苦労は尽きず、船に乗っていてもいつ沈められるか不安であったが、四、五日かかって日本の島影が見え出したのでやっと安心した。
 一月末、長崎に上陸し、やっと祖国の土が踏めたと喜んでいたのもつかの間、フィリピンから持ち帰った装具入れ袋一杯の衣類等はすべて没収され、代わりに支給された物は夏物の薄い海軍服と陸軍の袴下(こした)、それに長靴と毛布一枚だけであった。
 それから久留米陸軍病院へ入院したが、毛布一枚にくるまり寒さに耐えていた。

 帰郷までのこと

 久留米陸軍病院に入院して一週間後、沖縄人は鹿児島に集まっているという話で鹿児島に向かった。西鹿児島駅の近くには元陸軍の仮兵舎があり、そこを宿舎として各地から沖縄出身復員兵たちが共同生活をしていた。こうして娑婆の生活、つまり一般社会の生活に戻ったわけだが、食事は支給されてはいたものの、金が無くて困った。
 沖縄関係の復員傷病者は熊本の菊地元陸軍病院へ収容するということで、私は再び病院生活に戻った。
 その頃、ブーゲンビルから帰国し浦賀で復員した與座※※や大木の奥間某と会った。彼らは本州・四国を点々として、いろいろな事情に通じ、小商いをやっているようにあったが、物も金も無く、その上病身の私は何もすることが出来なかった。
 それでも今後のことを考えると不安で、意を決して熊本県庁の学務課を訪れ事情を話すと、無試験検定で教員免許状が下付されることを教えてもらい、申請すると一九四六年(昭和二十一)八月十六日付けで国民学校教員免許状が下付された(現在保管中)。
 八月の末までは病院にいたが、父と兄がフィリピン・ミンダナオ島ダバオから引き揚げて埼玉にいることを知り、会いに行った。
 十一月、送還船で久場崎につき、石川に落ち着いたが、同月三十日、先遣隊として読谷に帰り、読谷初等学校教官となった。

註 バターン・コレヒドール攻撃と「バターン死の行進」
 バターン半島はフィリピンのルソン島南西部、マニラ湾西岸の半島で、西半部は密林で、東岸に人口が集中している。太平洋戦争時の激戦地であった。
 一九四二年(昭和十七)此処の米軍陣地を攻撃した第一四軍は準備不足で思わぬ苦戦を強いられ、二個大隊が全滅した。
 増援兵力に重砲部隊を加え四月から攻撃を再開し、バターン半島を攻略し、五月五日コレヒドール島に上陸した。(マッカーサー脱出)
 その戦闘で約五万人の捕虜が生じた。この捕虜は徒歩で約六〇キロ後方のサンフェルナンドへ送られた。多数のマラリア患者を含む疲労した捕虜を、乏しい給養で炎天下に徒歩行軍させたため、途中で多数の死者が出た。「バターン死の行進」と呼ばれる事件である。

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