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4 戦争と軍人・軍属概説
体験記

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 ○南方各地を転戦
   比嘉※※ 大正十二年生

 学徒出陣

 私は一九四二年(昭和十七)四月、東京商科大学(一橋大学の前身)商学専門部へ入学した。
 一九四三年(昭和十八)九月二十二日、閣議により理工科系以外の学生の徴兵猶予が撤廃された。それを受けて、徴兵検査を受けるようにとの電報が読谷山村役場から届いた。
 十月に帰郷して、沖縄県庁で徴兵検査を受けて甲種合格となった。東京では十月二十一日、雨の中、神宮競技場で、徴兵猶予撤廃措置を受けた学生数万人が学徒出陣壮行会に出席した。
 十二月一日、私は第一回学徒出陣で、第四五聯隊(鹿児島)機関銃中隊へ入隊した。同日、東京商科大学商学専門部は仮卒業ということになった。

 南方派遣軍へ転属

 一九四四年(昭和十九)三月、私は兵科甲種幹部候補生に合格し、四月には久留米予備士官学校へ入校した。
 九月、第十二期幹部候補生入校のため、南方派遣軍に転属し、門司を出航した。途中、バシー海峡(台湾とルソン島の間の海峡)で米軍潜水艦の攻撃を受け、僚船が多数撃沈されたが、私の乗船は幸運にも無傷でマニラに到着した。マニラでは比島方面軍最高司令官山下奉文(ともゆき)大将の閲兵を受けた。
 九月十七日、東京商科大学商学専門部を繰り上げ卒業となる。
 十月、米軍がフィリピンへ上陸(二十日レイテ島上陸)する直前、シンガポールへ移動した。さらにシンガポールから蘭印(現インドネシア)ジャワ島中部のスマランへ移り、スマラン教育隊(歩兵砲中隊)へ入隊した。
 一九四五年(昭和二十)四月、スマラン教育隊を卒業し、兵科見習士官となり、シンガポール在の第三船舶司令部配属となる。その頃部隊には速射砲はもちろん歩兵砲なども無く、陣地構築に従事したり、特攻艇の訓練を受けたりもしていた。
 七月、タイ国シンゴラ在の海上輸送第七隊へ転属となり、陣地構築に当ったが、共産匪ゲリラとの散発的な戦闘があった。

 終戦、そして残務処理

 八月、陸軍少尉に任官。ビルマ(現ミャンマー)救援作戦準備中に終戦となり、大隊の本隊は武装解除後復員のため、マライ(現マレー)半島を南下してシンガポールへ向かうことになった。進駐直前の英軍からCollect the firewoods との指令があって、我が部隊本部は大騒ぎとなり、鳩首(きゅうしゅ)協議の結果、英軍の潜水艦に「狼煙(のろし)を上げろ」という意味と判断し、大掛かりな発火準備をした。ところがそれは、単に「薪を集めろ」との指令であることが判明し、日本軍第一戦上層部の英語力の貧弱さを物語るものとして物笑いの種にされた。Collect the firewoods(薪を集めろ)の Collect the を見落とし、firewood(薪)を fire wood (木を燃やせ)と誤訳したのである。木を燃やせ、なら fire the wood となり、中に定冠詞の the が入らなければならなかったのに…。
 さて、部隊南下に当たって、私は服役年が短く、その上英語が多少出来るということで、終戦残務処理小隊長として四八名の部下とともに残留させられた。
 英軍から、隊の所有する武器・弾薬その他の全品目を英文で作成し、六日以内に提出するよう命じられた。まる五日間徹夜で仕上げたが、その件に関連して、言うに言われぬ苦しい試練が起こるとは夢にも思わなかった。
 十月、武器・弾薬を英軍に引き渡すための責任者として一人で出掛け、小隊を留守にした。その深夜、小隊は共産匪ゲリラに襲撃され八名が戦死した。武装解除後で武器は無く、剣道具の竹刀で応戦した模様である。
 「隊長殿と一緒に引き渡し式に行かせてくれ」と必死に哀願していた当番兵も戦死した。あの時、彼の希望どおり連れて行っておれば死なさずに済んだのにと後悔して四、五日は呆然としていた。当番兵は東北出身の兵長であった。
 その後、残った四〇人はどうしても五体満足な姿で親・妻子の許に帰すのだと心に誓った。
 カンパン(収容所)から監視の目をくぐり、出歩く古参兵にはホトホト手を焼いたが、そのような軽率で危険な行動は絶対にするなと厳命した。
 やがてこちらの誠意が通じ、全員が規則を守るようになった。また、帰国後の社会復帰に備えて隊内教育を始めた。小学校高学年程度の国語・算術・理科である。それからポツダム宣言により国体は維持されたとして「大日本帝国憲法」について誰かの講義の請け売りをしたことは、まことにもって笑止の至りであった。
 いずれにしても、南下するまでのわずかな期間の学習会ではあったが、連帯意識が強固になり、効果は十分にあったように思われ、隊長としての自信が持てたのである。

 作業をしながら半島を南下

 十一月、終戦残務処理が終了し、シンガポールに向け南下し、その後他の部隊と合流して英軍管轄下の作業隊を編成し、英軍兵舎の建設作業、開墾作業、衛生作業等に当たった。英軍支給の小麦粉と粉ミルク、それに現地自活用のタピオカ(註)やカンコン(沖縄方言名「ウンチェー」)で命を繋ぎながら作業に明け暮れる毎日であった。
 英軍管理下の作業では一日一回以上英軍将校が見回りに来た。その時は作業を中断してその将校に向かって挙手の敬礼をする決まりになっていた。
 ところがある日、私と同年配位の若い将校が来たにもかかわらず、私は無視して敬礼を行わず、そのまま作業を続行した。それが問題になったのである。
 カンカンに怒ったこの将校は日本軍の作業本部に行き、「比嘉少尉は生意気だ」と抗議し、厳重な処罰をするよう要求したという。
 それに対して作業本部の係将校は「比嘉少尉は沖縄出身で、沖縄全滅の情報で少々自棄(やけ)になって居るから勘弁して呉れ」と言ったらしい。
 その翌日、私はこの若い中尉に呼ばれて「戦時法規」等について話し合い、最後に私が「今後気を付けます」と言う意味で Take care in future を大声で「テイクケアー イン ファーチャー」と叫んでしまったのである。しまった、と思ったが後の祭り、その将校は「違う!テイク ケアー イン ヒューチャー」と怒鳴り返して来た。そこで二人は大笑い。それで一件落着、以後二人は仲良しになった。
 Firewood を嗤(わら)った張本人が Future で嗤い返されたのである。

 復員、そして帰郷

 作業をしながらマライ半島を南下していた一九四七年(昭和二十二)のはじめ頃、沖縄出身者は優先的に復員させるという話が出て来た。GHQ(司令部)の指示であったようである。
 二月の末頃、作業隊の本部に呼ばれてその旨伝えられた私は、まだ部下がかなり残っており、帰国したいという意欲も余り無かったので、早期の復員は難しいと軽く辞退した。
 ところがシンガポールに近づく五月頃になって再びこの件が持ち出され、今回は断ることが出来ず受けることにした。
 復員の順位は服役年数、年齢、健康状態の総合で査定されるので、服役年が短かく、若い私の場合は当然、ランクは下位であるが、この恩典(沖縄人優先)で六月、残りの部下とともに復員することになった。マライ半島を南下して二十一か月が経っていた。
 六月、復員船「朝嵐丸」に乗船し日本へ向かい、長崎県諫早に上陸した。
 二十九日、中城村久場崎に上陸し、DDTの洗礼を受け、インヌミ屋取に収容された。
 事務所で帰郷者名簿をめくると、弟の名前があり、行く先地は石川市となっている。宮崎県に疎開していた弟は帰郷したが、「親兄弟が全滅し、誰もいないので再びヤマトゥ(本土)の石川県の石川市に行ったのだ」と早合点した。
 ところがである。しばらく考えると石川県には石川市はない。県庁所在地は金沢市であることに気づいた。では石川市はどこにあるのか、逸(はや)る心を押さえて、近くにいた年配の三線を弾いている人に訊(き)いたら、美里村の字石川だと言うので二度びっくり、すんでのことに「ヤマトゥの幻の石川市」に行くところであった。「野戦ボケ」もいいとこである。それにしてもあの石川が石川市とは…。三十日、その石川市で父親と再会した。

註  タピオカ=キャッサバの地下茎(沖縄方言のキーンム)から取る澱粉

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