<-前頁 次頁->
○海軍志願し沖縄戦従軍
上地※※ 昭和三年生
海軍志願
戦局は逼迫している。いずれ若い男は残らず軍隊に召集されることは分かり切っていた。召集されるよりはと、私は海軍志願兵への道を選んだ。饒波※※も同時志願した。
普天間の農事試験場で検査が行われて合格し、一九四五年(昭和二十)一月二日、小禄當間在国民学校駐屯の亀川中隊に入隊した。
同中隊は総勢八〇数名で、本来の任務は何であるか、たった一人の新兵では知る由もなく、連日壕掘りで明け暮れた。
那覇に米軍が近付いた頃、遠藤兵曹指揮の下に明治橋を爆破した。
糸洲へ移動
日ははっきりしないが、長雨の始まる頃真壁村糸洲へ転出し、そこで陣地構築をした。篠を突く雨の中、泥濘(でいねい)と化した道なき道を四〇キロの弾薬を運ぶ苦しさは、到底耐えられるものではなかった。
途中、糸満の町外れで陸軍の将校らしい人が下腹部をやられ腸が出ていたが、路傍の土手にもたれて、「俺は平野大尉だ、助けてくれ。連れて行ってくれ」とわめいていた。だが、それどころではなかった。
小禄地区の戦闘で
小禄地区への敵進攻にともない、海軍関係の各部隊は急遽小禄地区へ集結し、海軍根拠地隊守備に当たった。
戦闘では四、五名一組で急造爆雷と手投げ弾を持って敵戦車に肉薄攻撃をすることになっていたが、戦車が近付くと脅えて誰も飛び出せない。戦車は目の前を悠然と去って行った。
最後の総攻撃で俗称石山に向かった。前に山根部隊が構築した陣地に入り様子をうかがうが、敵の気配は全くないので更に進み、山裾の壕に入り機をうかがっていた。
翌朝、馬乗り攻撃されて、八〇人余の中から二人で抜け出した。残った兵たちのことは分からない。
彷徨の中で先輩と遭遇
本部の壕に近寄るとすっかり爆破されていた。それからは一緒に脱出した田端上等兵と当てもなく逃げ惑うこととなった。
真壁村伊敷にたどり着くと一軒の瓦葺き家があった。床は無くなっていたが、その家の中に女学生の一群と教師の姿があった。どこの学校の学生さんであるか分からない。
軒先で休んでいると、逃げ延びてきた避難民の群れがやって来た。その中に軍服姿の男が一人いる。同字の比嘉※※であった。
彼は杖をついて近付いて来たが、私の姿を見て名前を呼ぶや否やへなへなとへたり込んでしまった。彼は臀部を爆風の土砂でやられて衰弱していた。
翌日、田端上等兵が死人のポケットからハサミを見つけだして来たので、※※の頭を虎刈りにした。
次に軒下で私の髪を切っている時、突然、迫撃砲の至近弾をくらい、何が何だか分からなくなった。ややあって、落ち着いて見回すと、田端上等兵は腹部をえぐられ事切れていた。村外れの砂糖小屋の畑の隅に遺骸を安置し、キビの枯れ葉で覆うてやった。
捕虜となる
何日か逃げ回った後、名城に達した。海岸線から畑にかけて死体だらけであった。追い詰められ、あるいは突破を試みて集まった人々に砲弾が注がれたものと思われる。死人の間に三日間も潜んでいた。
宜寿次と名乗る老女と嫁、それに孫の三人連れに出会ったが、間もなく砲撃を受け、孫は胸部貫通破片創で即死した。幼児の悲惨な姿と痛ましい女たちの姿を見るのが辛く、逃げるように彼等から離れた。
ある日、陸軍伍長と上等兵の二人がやって来て、私と※※に、一緒に突破しようと協力を呼びかけた。彼らとしては道案内が欲しかったのだろうが、取り合わなかった。
翌晩、ヒシのクシ(リーフの外側)を歩いたり、泳いだりしながら北に向かって進んだ。午前三時頃だっただろうか、糸満近くの海中で敵に気付かれ、発砲されてあわてて浜辺に逃げ隠れた。
翌日、小島の岩陰に潜んでいる所を、リーフ伝いにやって来た戦車とともにやって来た米兵に発見され捕らえられた。
捕虜収容所
捕らえられるとすぐ豊見城の収容所に送られた。田圃の傍らのいかにも仮収容所といったところであった。
米軍の携帯口糧(レーション)を与えられた。※※は何日も食をとってなく、大変弱っていた。どうして手に入れたか分からなかったが、レーションの他に得体の知れない物があった。それを※※に示すと、引ったくるようにして取り、口にしていたが、すぐにペッペッと吐き出し、「お前、俺を殺す気か」と言った。どうやら噛み煙草であったらしい。
こうしている間にも続々と捕虜は送られて来た。軍人であることを偽って、地方人の着物に変装したのが多く、女の着物を着けた者もおれば、ただでさえ汗が噴き出る六月の下旬、汚れた綿入れを着込んだ姿等々さまざまであった。中でも子供の着物をツンツルテンに着て、性器をブラブラさせて狂人の体を装っているのを見ると、恥ずかしさを通り越し、哀れを感じた。
間もなくこの収容所から小禄の軍人収容所に送られ、※※とは別れた。二日後には砂辺の防衛隊収容所に移され、しばらくすると更に屋嘉捕虜収容所に転送され、三日後にはハワイへ送られた。
<-前頁 次頁->