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4 戦争と軍人・軍属概説
体験記

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 ○ジャワ島で製糖業務に当たる
   島袋※※ 明治四十四年生

 沖縄製糖へ入社

 私は昭和七年、沖縄県立農林学校を卒業したが、翌八年、現役兵として熊本歩兵第一三連隊へ入営した。当時起こった「満州事変」で、従軍させられることを心配していたが、幸いにも事変が早目に終息したので、一年半で満期除隊となった。
 帰郷後、沖縄製糖株式会社へ入社し、同社嘉手納工場勤務となった。
 「大東亜戦争」が勃発し、日本軍は南方方面において破竹の勢いで進撃し、敵地占拠の報が相次ぐようになった。その頃、海南島に行かないかと勧められたが、待遇が余り変わり映えしないので断った。

 ジャワで製糖業務に従事

 シンガポールが陥落し、ジャワが占領されるに至って、沖縄製糖株式会社もジャワでオランダ経営の製糖工場を接収して、その経営に乗り出すことになった。
 早野※※沖縄製糖重役が総監督でかの地へ出向することになり、沖糖傘下の嘉手納・西原・高嶺の各工場から蘭印(オランダ領インドシナ、現インドネシア)のジャワ島行きを募集した。
 嘉手納から農務班三人と工務班一人が行くことになり、私も農務班の一員として行くことになった。沖縄からは総員一四人であったと思う。
 派遣された私たちのグループは、宮城※※工場長以下五人で、現地のオランダ工場を接収し、オランダに代わって製糖業務経営に当たることになった。
 当初、困難を極めたのは言語問題で、相互の意志が不通であり、そのため業務引き継ぎにかなり手間取った。
 早野社長は毎週やって来ては状況をチェックし、業績を上げるよう督励した。
 現地における製糖業務を行っているのは、沖縄製糖だけでなく、日本製糖・明治製糖・南洋興発等五、六社のライバルがあり、その上、沖糖自身も五工場を抱えていることから、それらにも負けてはおれなかった。
 私は、農務作業で現地人を使うには、まず言語問題の解決が先決だと考えた。
 当時、官舎には各棟五人宛てで宿泊していたが、私は特に頼んで一棟を貰い受け、オランダ系・ドイツ系、それに現地人の子供たちを招いて遊ぶ内に、言葉の上では大分慣れて来た。特にメナードから来た子供たちからはマライ語を習ったのが良かった。

 順調な成績

 二、三か月もすると、会計係は「島君は私よりうまい」と言った。宮城工場長は英語しか話せなかったので、この会計係は唯一のマライ語通訳であったのである。その人からうまいと言われ、大変うれしかった。
 幸い現地人従業員は柔順で、業務は順調に進んだ。
 雨季、植え付けを済ませた甘蔗は一年目には大収穫を上げた。工場も順調に行き、ジャワ中部の六社六〇工場でトップという素晴らしい成績を上げた。
 それに気を良くした上間農務係長は、グヌウン・ラウーン(グヌウンは山という意味で、ラウーン山)の麓の六千町歩のゴム園・コーヒー園も経営しようと言い出し、視察までも行った。

 軍の直轄下に入る

 そうした矢先、軍政官命令で食料(米・トウモロコシ)の生産にも回るようになった。もうその頃になると、戦局はかなり悪化しており、補給も目処がつかず、いよいよ自活を考えなければならなくなったのである。そして私たちは軍政直轄下となり、すべて軍命にしたがって活動しなければならなくなっていたが、それまでの製糖業務は続けることが出来た。
 食料確保のため、ブキス州で米作りもしたが、そこでうまく行くとすぐ不振地へのテコ入れで、中部ボジョネゴロ州へ派遣され、苦労している頃、終戦となった。

 抑留生活

 終戦でマディウン州へ集結させられ、刑務所に収容された。
 この刑務所はオランダが造ったもので、高いコンクリート塀に囲まれた鉄筋コンクリート二階建てで、寝台もあったが定員過剰で床に雑魚寝した。
 当初、マディウン耕地で自活することを覚悟し、そのつもりでいたが、外出は許されなかった。万一、外出中に事故でも起こったら我々の責任だから、と収容所側の人は言った。
 食は与えると言ったが、米と野菜が少ししかなかった。肉を要求すると、肉は高いから金を出せと言った。日本軍軍票を出し合って相手に渡すと、豚を一頭呉れた。生きた豚を与えられて面食らったが、沖縄出身者たちが屠殺・解体して料理した。
 私たちが収容所に行くまで現地民間人は同情的で良くして呉れたが、収容所での看守は見下げた言動をした。
 収容された者の中には日本軍の大佐もいたが、彼らが表に出ると、特に看守の反発が強かった。日本軍には反感があったようである。
 三か月後、マライのクアラルンプールの収容所に移された。英軍とマレー人は大らかで、物売りも自由に入れるような楽な収容所であった。
 食料増産の為のエストメーワ、これは半強制的な勤労奉仕である。けれども私たちは喜んで働いた。それは日本流に言えば一日奉仕ということになろうか。村長夫人もサロン(筒型の腰布)をまくり上げて田に入った。
 収容された日本の軍政官たちはこの行事を、「お前たちの食料増産のためだ」と言って駆り出されたらしい。けれども後で、そうではなかったことが知れて、散々嫌みを言っていた。

 敗戦の悲哀

 戦争が当初のようにうまくいっておれば、私たちは本当に豊かになっていただろうに、と思った。家族も呼び寄せたいと思った程である。
 わずか三年で急転直下、敗戦となり、囚人となってチーク林で思い切り泣いた。家族のことばかり思い続けていた。

 ジャワ島での日記(島袋※※)
昭和二十年
七月一日
二月十一日附の便りを五ケ月ぶりに受領。父六十一歳で馬車持ち。※※君去年十二月入隊、※※君便りなし。四回空襲を受く、三人の愛児と共に健在。寝ても覚めても僕のことばかり。之が最后の便りかも判らない。
七月二十九日
四、五日前より今は無き故郷の妻子、両親、親類の面影しきりに浮かぶ。(特に今日は)朝の出掛けから故郷に思いを馳せ、今は行く先さえ知らぬ妻子の面影が目の辺りに浮かび、悲憤の涙さへ落ちぬ。
八月十二日
遠巡りを止め県役所へ出頭。勧業課へ籾供出者の調査票作製の勧告。村長タンバルジョ、同カノール、同ケドンハドンの三人の来訪あり。スモペイカラン区長子供等と共に来訪す。義勇軍の陰謀策動の傾向が共産分子に依り動じつつあるとのこと。小銃と弾丸を渡さる。
1 八月九日ラジオ放送 北満国境に於て目下日蘇軍激戦中なりと。
2 義勇軍なる物果して如何程の効果を我が日本軍の為、否、独立に際し有りや否や?
八月十七日
午前 ボジョネゴロ村川向ひの部落巡り。
午后二時 日本人全員参集。副州長官は最高指揮官よりの現時局に対する心構へと進むべき方針を指示さる。
世界に冠たる帝国の行手は如何!東京都に居る政治家、軍人、財家は今迄果して何をして居ったか?国民の一人々々は全く無念無想の戦ひをして居るのに反し、彼等は全く売国的行為に等しき方策を採って来て居たのだとしか考えられない。
八月十八日
昨日の状況聴取後は全く仕事も手に付かず、それこそ悲憤慷慨(ひふんこうがい)、くやしくてくやしくて堪らない。故郷の仇は必ずや僕は討って見せる積りだったのに斯くなれば涙を呑んで忍ぶ他なし。今朝から川上技手と共に二ケ月半振りトウバン迄出掛ける。張景輝夫妻の態度は全く立派なものだ。僕は彼等を一生忘れない。
八月二十八日
午前十時、本社へ連絡の為スラバヤへ出張。五時間がかりで到着。行く度に重役は不在。残って居る連中の応対振り、全く心から日増しに嫌になる。一片の親心もなく重役の顔姿考えれば考える程憎くなるのみ。
 春のめぐみに薫りし梅よ
 たとえ木枯し荒ぶとも
 偲べまた来る御代の春
九月七日
東印度独立認容記念日
野上氏への連絡の序に河上氏の所へ寄って見た所、有山氏や角谷氏等は既に出発したのにはどうやら不審だった。インドネシアの民衆は独立々々で喜んでいるのに反し、我々日本人の現況?全く地に落ちた果物が腐敗せんと!
九月九日
午前十一時、野上氏の車に便乗、河上氏と共に発つ。愈々マゲタンに於てお百姓さんになるのだ。野上氏は邦人報国団を代表して慰問の為に同行。午后五時頃より農園の大略区分を為す。
十月  
収容される。
十二月十八日
獄窓に眺める月や哀れなる
同じ月見る彼女の心如何ばかり
両方の想いを知る月顔かくす
十二月二十五日
昨晩は一日中減食の為此処彼処で食物の闇取引が盛んに行われ、マベイウンの方でも現行犯を襲われ、とうとう第五区隊はお陰様にて謹慎を命ぜらる。本当に昨日は腹が減って自分も※※氏と共に黒砂糖を買って食べた。話を聞けば外部の情勢は既にインドネシアに不利となってマベイウン市迄の連絡もとれないとの事。勿論当所の食糧どころの騒ぎじゃないらしい。前方に居る義勇軍の如きは浮足立ちの態で逃げ腰の様子らしい。
十二月二十六日
今回で再び三度目拠出金五十円計二百五十円出し、全く呆れ帰った話だ、否、敗戦国民薄弱さよ。自分等で偉がりを言ふて居るけれど見よ!この始末を。インドネシアの馬鹿所長位に右左に牛耳られて居る様相は真に何とも譬たとえ様の無い哀れを覚える。斯かる民族と行動を共にして居れば、後には本当に墓穴に入らないとも限らぬ。速に別居或は行動を別にすることが一番の良策とつくづく感極まりぬ。
昭和二十一年
一月一日
鉄窓で遥かに故郷を偲ぶお正月
門松もお餅も無きお正月かな
満腹にお正月の有難さ知る捕虜の身
一月二十七日
夜もすがら胸の想ひやさめやらず
トッケーの泣く声数え日和待ち
恨みても果てしも知らぬ浮世波
もまれてぞ知るらん人の世の花は
日に増し月に進みて敗戦の苦汁の
味はいやまさるのみ
四月一日
午后三時過ぎ看守の所へ煙草の火を貰いに行った所が、「火は無い。此処に入ったら撃つぞ」と。それが入所当初からの顔馴染だ。僕は憤慨で堪えなかったと同時に、トウバンで支那人から「インドネシア人の代名詞に動物が言葉を話す」と言ふ事をよく聞かされよった事を再び痛切にまざまざと目のあたりに見せつけられたと同時に、未だもって常に耳の中で唸っている。

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