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4 戦争と軍人・軍属概説
体験記

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 ○軍属を志願して台湾へ送られる
   大城※※ 昭和四年生

 軍属志願

 一九四一年(昭和十六)、学校は小学校という名称から国民学校へ変わって、何かと戦争に関するような教育が行われるようになってきた。そして、一九四三年(昭和十八)頃になると静かな村も、飛行場(読谷山飛行場)建設や軍の駐屯等で急に慌ただしくなっていった。
 私たち学童、五、六年生から最上級の高等科生までは、直接軍の工事に駆り出されるよりも、出征軍人の家(誉れの家)への農耕奉仕作業の方が多かったと記憶に残っている。特に上級軍人の福地※※家への奉仕作業には、人数も回数も多く割り当てられた。
 一九四四年(昭和十九)三月、私は渡慶次国民学校を卒業と同時に、軍属を志願した。それには先生方の勧めによることも大きかったが、切迫した戦局下では、国に殉ずるとか、お国のために尽くすという思いは皆同じで、自ら進んで海軍志願、陸軍志願、あるいは軍属志願の道を選んだのである。そして、軍隊に入れば三度三度米の飯にありつけるという思いからでもあった。
 検査は普天間の中頭教育会館で行われた。身体検査と口頭試問であった。幸い合格となり、那覇に集められた。読谷山からの同期は與久田※※、與久田※※、神谷※※、知名※※、喜友名※※、仲宗根※※、比嘉※※らであった。沖縄からは八〇人くらいではなかったかと思う。
 那覇に集結すると料亭「三杉」を宿舎にして、西本願寺で訓練が行われた。訓練内容は駆け足・銃剣術・剣道等で、それに毎日行軍が行われた。

 台湾へ派遣

 五月二十七日、鹿児島へ上陸。同行の海軍志願兵たちは旅館で軍服を支給され、威勢よく入隊して行くのを羨ましく見送った。
 私たちは大刀洗飛行場に送られ、航空機整備の実地訓練を受けた。大刀洗航空廠第九期生である。
 六月末、台湾に派遣され、風一八九一八部隊中央航空路台湾軍管区屏東基地へ配属された。間もなくフィリピンへ派遣される予定であったが、戦局が緊迫化し、輸送路が危険ということで中止となった。
 石垣島に転属される連中の乗った飛行機が滑走路を離れようとした途端、空襲に遭い爆撃されて炎上し、全員戦死した。
 花蓮港基地では二人乗りの旧式機「キ51」に一人が乗り込み、爆弾をつけて飛んで行くのを見送った。その機は車輪が引っ込まない代物で、恐らく特攻のはじめではなかったかと思う。

 終戦

 終戦となって武装解除され、沖縄人は他県人とは別にされた。中国軍はかつての日本人の官舎に入り込み、私たちはその庭の草刈り作業をさせられた。
 敗戦で自暴自棄になった人達の中には、薬用アルコールを呑んで暴れる者もいた。そのような中で同胞をまとめ、指導したのは知花※※大尉(※※出身)であった。
 荒れた人々も彼の指導にはよく従い、統制のとれた集団となってきた。そうしたことで中国軍も好意をもって接してくれ、日本軍の残した食料も分け与えられたし、復員に際してはお土産として線香を持たしてくれる中国兵もいた。沖縄玉砕ということで、戦没者を弔うことへの配慮からであったのだろう。
 こうして私たちは整然と復員することが出来た。一緒に復員した人達の中には嘉手納の村山※※もいたことも覚えている。

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