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4 戦争と軍人・軍属概説
体験記

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 ○軍属として沖縄戦従軍
   與儀※※ 昭和四年生

 軍属志願

 一九四四年(昭和十九)三月、私は学校卒業と同時に軍属を志願した。志願については学校からの勧めもあり、またその手続きも学校で行っていたのである。
 当時、男生徒はほとんどが陸・海軍志願か軍属志願で、女生徒も軍の事務や炊事等に憧れていたようである。国策に従い喜んで軍関係の仕事に就くということは、当時の風潮であったが、軍関係の職は民間の職場より条件がよく、物資にも恵まれていた。私の想像ではあるが、女性たちにとっては、若い元気な大和兵隊たちへの魅力も大きかったのではなかろうか。
 さて、検査は普天間で行われ、口頭試問と身体検査で合格し、四月一日から那覇の三杉を宿舎にして、小禄海軍航空隊で教育訓練を受けた。
 六か月間の訓練の後、北飛行場勤務となった。宿舎は、伊良皆の県道東側(現国道五十八号東、変電所の裏)にあったので、そこから飛行場に通って飛行機の整備作業に従事した。本部は、伊良皆と長田の中間あたりの山中に壕と三角兵舎があった。

 十・十空襲

 早朝出動して、「作業かかれ」の号令がかけられると同時に、ずんぐりした飛行機(グラマン)が東から超低空で襲いかかってきた。と同時に爆弾の炸裂と轟音が起こり、米軍機は次々に急降下して爆撃を繰り返した。
 私たちは全員施設の近くから立ち退き、近くのタコ壷壕に飛び込んだが、爆弾の炸裂と同時に、地揺れがして土砂が降りかかってきた。こうして間断なく空襲は繰り返され、このままではおられなくなり、機を見て脱出し、本部へ避難し待機した。
 私たちの部隊は、一九四四年(昭和十九)十月二日までは大刀洗航空廠那覇分廠であったが、空襲後は、第五野戦航空修理廠第一分廠(誠一九〇二三部隊縄部隊)となり、中央航空路部沖縄管区第五保安中隊(風一八九一八部隊沖部隊中城隊)の隊長が兼任隊長となった。いずれにしても飛行場施設および飛行機整備の任に変わりはなかった。

 戦闘要員として

 一九四五年(昭和二十)三月二十三日以来の空襲で地上施設は壊滅的な被害を受け、その後、艦砲射撃も加わり復旧整備作業は全く思いもよらないこととなった。
 三月二十六日から久得の山のウシヌスドゥーガマ(牛盗っ人洞)に潜み待機していたが、敵上陸にともない、北飛行場を放棄して石嶺飛行場へ向かうことになった。
 山中を一列縦隊で抜け知花に至り、越来・普天間・棚原を通過して首里石嶺町にたどり着いた。守衛の石嶺※※・真栄田・島袋※※たちも一緒であった。
 首里石嶺町では滑走路の北側、一〇六高地に陣を構えていたが、この造りかけの滑走路の保安管理は時遅く、もはや必要ではなかった。したがって敵戦車来襲に備えて肉薄攻撃訓練を繰り返していた。
 そのような頃、運玉森守備隊山三四七四部隊に配属された。この部隊は火砲を主とした部隊で、配属後は弾薬運搬の役を言いつかった。南風原村喜屋武から弾雨と泥濘(でいねい)の中、弾薬および食料の運搬をしながら、新川の第一野戦病院への傷病者輸送の任にも当たった。そうした中で三回も斬り込みに参加したが、運良く生き残った。五月下旬までは運玉森近くに留まっていた。

 部隊壊滅・兄との邂逅(かいこう)

 東風平に転進する頃は、部隊は解散状態になっていた。本部の所在も不明で途方に暮れ、真壁村真壁に向かったが、もうその頃から部隊はバラバラで単独行動となっていた。
 そのようなある日、とある一軒家に休もうと思って入って行こうとすると、大勢の先客の中から「※※!」と叫んで飛び出してきた男があった。兄※※であった。思わぬ邂逅に一瞬、言葉もなかった。

 投降

 その後、喜屋武に落ち延び海岸に出て、国頭への突破を考えた。考えたというより、他人の話や行動にしたがってそのように思うようになっていたに過ぎなかった。
 海岸伝いに東へ進み、具志頭あたりの海岸と思われる辺りで二泊し、明くる日雨にあい、濡れた衣服をしぼって乾していると、犬の低いうなり声がして思わず逆毛立ち、岩陰に引っ込んだ。
 夕方、移動しようとして岩陰を出ると、銃の一斉射撃にあい、一緒の者たちはてんでんばらばらになったが、私たち兄弟二人は逃げそびれ、溝に突っ伏していた。
 どの位時間が経ったであろうか、兄が状況をうかがうため上体を起こすと、米兵がやって来たと言う。相手も既に気が付いていたらしく、大声で何か叫んで飛び退いた。
 しばらくすると、数人の米兵が銃を構えて向かって来た。とっさに手榴弾を手にして安全栓を引き抜くと、兄が「早まるな」と制した。相手の呼びかけが近付いて来る。こうしてどのくらい時間が経った事だろう、兄が出て行くので後に従った。その時、手榴弾のことは全く頭に無かったが、米兵が取り上げて力一杯投げると、浜辺で爆発した。
 その後、屋嘉捕虜収容所を経て、七月五日北谷海岸(野國総管の墓近くの海岸)でビクトリー型輸送船に乗せられ、ハワイへ向け出航した。

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