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4 戦争と軍人・軍属概説
体験記

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 ○山部隊の南部撤収に際して=武器、弾薬運搬
   比嘉※※ 大正九年生

 村内の軍配備概況

 渡慶次カタノーには最初に山部隊がいたが、間もなく南部に移動して行った。
 当初、座喜味城近くに駐屯していた北原中尉を長とする石部隊の一中隊は、十・十空襲後、高志保アカムヤーに移っていた(中尉は米軍上陸後自決したという話があった)。
 波平のアガリジョウの北、上地のシラシ御嶽との木立の間に山部隊が三角兵舎を作って駐屯していた。
 球部隊は波平の民家に分宿していたが、字事務所には衛兵指令所があり、アガリジョー(東門)の大きな松の木に対空監視哨が設置され、衛兵指令所から交替で監視員が送られていた。ある日、対空監視中の兵隊が墜落死するという事故があったが、覚悟の自殺であったという噂も立った。
 牧原に駐屯していた山部隊の一兵士が川で飯盒の蓋を紛失し、飛び込み自殺をしたこともあった。陛下御下賜の軍用品紛失で、軍法会議にかけられることを恐れての事だったという。

 東風平への弾薬運搬

 一九四五年(昭和二十)三月二十三日、波平では各戸の壕からシムクガマとアガリシムクガマに移ることになった。
 私は一旦防衛召集されていたが、字の警防団長ということで召集解除になっていた。
 空襲が激しくなってから、国吉屋取に駐屯していた山部隊野戦重砲隊が東風平に移動することになり、部落中の荷馬車持ちは総動員され、重砲および弾薬運搬に当たることになった。彼らが連れて来た道産子(馬)は気候が合わなかったためかバタバタと死に、ついに民間の雑種馬だけが頼りになっていたのである。
 同部隊炊事班長玉井伍長の下で、比嘉※※他六人も部隊とともに島尻へ下がって行ったが、その内二人だけが無事に帰って来たのである。
 さて、東風平への弾薬運搬を終えた私が南風原まで来ると、艦砲射撃が激しくて、ついに荷馬車は捨て、馬だけを引いて帰った。三月二十七日のことで、これが最後の荷馬車業務となった。

 シムクガマとアガリシムクガマ

 三月二十八日、私は家の近くの壕に避難していたが、家が艦砲の直撃弾を食らって目の前で全壊した。
 二十九日、松前宇座の焼けた馬をシンメーナービで煮て食べ、皆にも食べに来るよう呼びかけたが、恐れて出て来る人は少なかった。
 アマカービラ(天川坂)の近くにあった読谷山防衛隊本部が移動し、食料は残して行ったとの情報を得て、十五歳以上の警防団員を連れて乾麺麭(かんめんぽう)(乾パン)を運び、シムクガマに避難中の人たちに配った。
 話は前後するが、三月の二十四、五日頃から警察と憲兵隊から頻(しき)りに山原への避難命令が伝えられたが、言を左右して応じなかった。ここに留まっていたお陰で、四人以外は全員無事米軍に収容された。シムクとアガリシムクと合わせて一四二〇人ほどであった。もし警察や憲兵隊の命令に従っていたら山原で散々苦労し、犠牲者も多く出ていたことであろう。

 米軍に収容される

 四月一日、砲爆撃の音も遠退き、朝のシムクガマは大変静かであった。急に誰かが、犬が洞窟入り口近くを歩き回っていると小声で言うと、一瞬、洞窟内は恐怖の沈黙に陥った。
 何時頃だったか、恐怖のあまり時間も分からなかったが、耳を澄ますと武戸比嘉方面から地響きがとどろいたと思ったら、いきなり砲弾が炸裂した。戦車砲を撃ち込んだのだろうか、やがて硝煙が晴れたその下で見た光景には思わずゾーッとした。新里小の二人とマサー比謝小ら四人が変わり果てた姿となっていた。
 こうして呆然と立ち尽くす間も無く、洞窟入り口近くからの聞き馴れない声を耳にした。やがて洞窟から呼び出され、残っていた全員無事に米軍に収容され、俗称マタガーに連行され、さらに大当浜から都屋に連行されたようである。私は警防団服を着けていたことから、兵隊と思われたのだろう、シムクガマからジープに乗せられて直接都屋へ送られた。
 都屋の小さな金網の中に入れられていたのは※※曹長であった。米軍上陸以前、座喜味の島袋前宇座の東にあった炊事場の炊事軍曹で、私は荷馬車運搬のことで会ったことがある。目玉を刃物でえぐられ、自殺用具を請求していた。捕らわれた後反抗したのであろうか、一週間位は生きていたようだ。
 石川へ行ってから、米兵の死体片付けの使役を命ぜられた。中には蛮刀で首を切り、頭と胴体を別々にする仕事もあったようだ。
 喜名のモートンナにも行かされたが、そこは激戦地だったらしく、日本兵の死体がまだ野ざらしにされていた。

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