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第四節 県外疎開
体験記

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○私だけでも生き残れと言われて

 金城※※(昭和五年生)屋号※※

 疎開を決心

 昭和十九年、私は古堅国民学校の高等科二年生(現在の中学二年生)で、十五歳であった。その夏休みに渡久山※※先生から学童疎開に行かないかという話を受けた。これは古堅校から疎開する学童は比謝矼出身者が多く、同字出身で年長者でもあった私に、一緒に行って手伝ってくれないかということでもあった。
 疎開するという話に両親は賛成した。私の父※※は大宜味村出身の大工で、その当時、読谷山北飛行場建設に徴用されていた。そこで、兵隊達からいろいろと戦況を聞かされていたようで、万一沖縄が玉砕に追い込まれたときを考えると、長男の私一人だけでも生き残っていた方がよいと考えたようだ。そういうわけで、私は宮崎県の加久藤国民学校へ疎開することになった。

 出航

 八月二十七日昼食後、那覇港より伏見丸に乗船した。駆逐艦三隻位に護衛されての船旅であった。この船には古堅をはじめ、宜野湾、豊見城、具志川など五、六校の疎開学童が乗っていた。一般の人も大勢いた。その途中、女性の急病患者が出て、名護の病院に運ぶことになったので今帰仁の運天港に停泊した。
 また鹿児島県十島村悪石島付近で、敵潜水艦接近の警報があり、乗船者全員が救命胴衣を着用させられた。もちろん覚悟はしていたことだった。全員甲板に上がらされたが、古堅校の学童は甲板上で寝ることができた。そこなら、船が撃沈されてもすぐに海に飛び込めるというわけであった。その夜は幸い攻撃を免れた。
 九月三日午前九時頃鹿児島へ上陸。波止場の近くの旅館で泊まった。受入先について鹿児島県庁からの連絡を待ちながら、鹿児島の旅館に六泊した。ちょうどその頃、姉八重子が広島県呉の軍需工場勤務を満期となり、帰省のため鹿児島で船便を待っていた。しかし船には容易に乗れず、大島屋旅館に住込みで働いていたので、私は姉に会いに行った。
 九月九日午前十時に鹿児島を発った。鹿児島本線の列車に乗り、吉松駅で吉都線に乗り換えた。沿線の田は稲穂が実り、波打っていた。竹林や杉林が印象に残っている。

 宮崎県加久藤村に到着

 その日の午後一時半頃、加久藤に着いた。
 加久藤駅では全校生徒と村民たちが旗を持ち大歓迎してくれた。駅から一五〇メートル位の田と畑の中に加久藤国民学校はあった。道一つへだてたところに加久藤青年学校があり、そこの講堂でエプロン姿の婦人会員たちが夕食の世話をしてくれた。銀飯とお茶、それに茄子のお汁が印象に残っている。それまで茄子という野菜を食べたことがなかったので、めずらしかった。
 講堂の裏の控室が宿泊所となった。到着後一〇日間位は授業はなく、話を聞いたり、買い物の方法、その他いろいろ、生活についての話が主であった。婦人会の人たちが面倒を見てくれた。
 加久藤国民学校区には、中の町、大溝原、西長江、東長江、永山、西郷、栗下、榎木園、松原などの集落があった。地域の方々には本当にお世話になった。

 加久藤国民学校での生活

 九月十六日、私たち学童は二学期に編入され、私は加久藤国民学校の高等科二年へ通学し始めた。当時上級は男女別学だったので、我那覇※※や渡久山※※たちは女子の部に入れられた。
 初めの頃は生活、言語の違いから劣等感を持ち、無口になって片隅で小さくなっていた。「寒いから、運動せにゃならんど」と言われたが、なかなかとけ合えなかった。下級生の幼い学童たちは、ホームシックにかかっていた。
 こちらへ来た翌月の十月十日に、沖縄で大空襲があったようだ。先生方はラジオニュースで聞いていたのだが、子ども達が動揺するだろうという配慮から、しばらくこのことは伏せておられた。少し落ちついて、先生からこの知らせを聞いたときは、みんなが泣いた。親兄弟たちみんながどうなったかなあ、生きてはいるかなあ、という心配があったものだから、上級生も泣いていた。

 食べ物のこと

 向こうでは、とにかく食べ物がなくて、ひもじい思いをした。食糧営団中の町配給所から一週間分ずつ米の配給があった。しかしこれではどうしても足りなかった。学童五、六名ずつが組になって、毎日交代で荷車を引っ張って唐芋(甘藷)、里芋、野菜類の買出しに出かけた。農家は協力的で、喜んで売ってくれた。しかし、慣れるに従って気まずい思いをすることが多くなった。
 それはやはり、時にはお金も取らずに優しく野菜を分けて下さったりする農家へは行きやすかったので、つい何日も続けて通った。そのうち「なんで、農家はうちだけじゃないよ」と言われ、農家の方たちにも自分の生活があるのだ、きびしいのだなと分かった。そこで、同じ農家に重なって行かないように話し合いながらやっていた。とはいえ、概して地元の人は好意的であった。ただ、やってあげたくても、向こうもずっとは続かないという時代情勢でもあったから、そういう面では苦しかった。

 寒かった冬とシラミ

 加久藤の冬は、とにかく寒かった。畑の農作物には霜が降りるので、覆いをかぶせてあった。霜柱を踏むとザクッザクッと音がした。学童には一人二足づつの靴が配給されていたが、雨靴などはなく、多くの者がしもやけになり、手足がはれあがっていた。私は皮膚が強かったのか、幸いしもやけに悩まされることはなかったが、中には歩くのにも不自由していた友人もいた。学校へ行っても椅子に腰掛けながら、いつも両手で腫れあがった足をさすっていた。そんな時、地元の学童達から「何やっとるんだ」ということで、からかわれもした。
 加久藤国民学校へ、対馬丸遭難から助かった大城※※が来た。※※はまだ初等科の二年生で一番幼かった。その時、他の遭難者の荷物が学校講堂の二階に運ばれてきた。私はそこからズボンを二枚失敬して、近くの洋裁店に持っていって直してもらった。それで冬の寒さをしのいだ。
 また、シラミが湧いて大変だった。これも地元の子どもたちから「オキナワンシ シタミッゴロ」と言われてね、実際に沖縄から来た私たちはみんなシラミが湧いていたが、向こうは誰もそんな風ではなかったもので、みじめに取られても仕方がなかった。しかし、それも最初の頃だけで、先生が「沖縄から来たみんなは、ご両親と一緒ではないよ、大変なんだよ」と注意をされて、そんなこともなくなり、後からは同情心に変わっていった。

 京町の温泉

 私たちは、青年学校講堂裏の四〇畳ほどの空部屋に寝泊りしていた。初めの頃は青年学校の宿舎のお風呂を借りていたが、こちらは五〇名近くの大人数だったので、いつまでもお世話になるわけにもいかなかった。幸いなことに、隣の駅(京町駅)に温泉があった。私たちは、そこまで世話人をしておられた又吉※※や新垣※※に連れられて、五組ぐらいに分かれて交代で行く事が出来た。風呂代は一人五銭であったが、団体割引ということで安くしてもらった。
 風呂へ入れるのは一週間に一回だった。汽車に乗ることもあったが、お金に限りがあり、線路に沿って歩いて行くことも多かった。鉄橋を歩いている時、思いがけず列車が来たときは、逃げ場もなく大慌てで枕木にぶら下がって難をしのいだこともあった。

 卒業後のこと

 高等科を卒業すると、もう学童ではなくなるので加久藤国民学校にはいられなかった。高等科を終了した者は、各自それぞれの進路を考えなければならなかった。私は一級下の比嘉※※と共に都城農林学校に進学した。山内※※、比嘉※※、照屋※※は下関の船員養成所へ行った。山田※※、大城※※、照屋※※は、福岡県の大刀洗軍需工場へ行った。神山※※と我那覇※※は小林高女へと進学した。又渡久山※※と※※姉妹は、近くのお寺に養女として引き取られたようだった。
 このように、卒業後はそれぞれがバラバラになった。そして、戦況も悪化していった。私は農林学校へ進学はしたものの、その学校が飛行機などを作る軍需工場の隣だったため、米軍の空爆を受け、入学後間もなく、夏休みを待たずして校舎が全焼してしまった。
 終戦になって、比嘉※※は叔父が復員して宮崎県に来たので、弟※※とともに叔父に引き取られていった。
 私は、都城農林学校の河野※※校長に退学願を出した。すると校長は「私は間もなく退職する。郷里の高鍋に帰るが、お前も一緒に来て、そこで畑を手伝いながら学校へ通ってはどうか」と言われた。それで、私は姉※※とも相談した上で高鍋へ行き、そこの中学校へ転校した。
 昭和二十一年十一月、一緒に疎開した古堅国民学校の学童が沖縄へ帰るという連絡を受け、鹿児島の引揚者収容所でみんなと合流した。このときは、宮城※※・※※先生達も一緒であった。
 戦後になって二、三回は宮崎を訪ねた。当時の同級生とは、今でも文通をしている。十数年前に宮崎を訪ねた折に、大変お世話になった河野校長先生ご夫妻のお墓にもお参りをしてきた。このようないきさつもあり、私は宮崎県でお世話になった方々に大変恩義を感じている。

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