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1 南洋出稼ぎ移民の戦争体験

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 南洋群島における戦争と戦災(社会・政治・軍事的状況)

 戦争の雰囲気・〜昭和十五年

 今泉裕美子は、「南洋群島に非常時の空気が広がり始めたのは、満州事変以後あたりからであり」、日本が国際連盟から脱退した後、「日本国内や南洋庁で南洋群島を『海の生命線』と呼ぶ声が高まった」と述べている(今泉一九九七a・二一五―二一六)。一九三六年には広田弘毅内閣が国策として「南進」を明示し、「一九三七年からは物価の規制、物資・資金の需給調整など経済統制が強化され、国家総動員法が南洋群島にも施行され」た(今泉一九九七・二一六)。
 紀元二六〇〇年にあたる一九四〇年(昭和十五)には、パラオ支庁コロール島において官幣大社南洋神社が建立され(今泉一九九七a・二一六)、紀元二六〇〇年祭が盛大に行われた。その頃、瀬名波の津波※※はパラオのかつお漁船で仕事をしていた。南洋神社で大きな祭があったとき、日本軍の幹部がパラオにやってきていた。ちょうどその時期に、津波は船の上から望遠鏡で南洋神社をみていると、宮古出身の船長に「イャーや学校出ジランティナ、ムノーウマーン」(お前は学校を出ていないのか、軽率だ)と怒られた。魚を見るための望遠鏡で、神社を見てはいけないというわけである。また、当時小学校一年生だった古堅の池原※※は、紀元二六〇〇年祭で小学校の生徒全員で旗行列を行ない、また、兵隊の慰問で学芸会みたいなことを行なったと語っている。このようにして、南洋群島は次第に戦争の雰囲気に包まれていった。

 南洋からの引揚げ

 安仁屋政昭によると、一九四三年(昭和十八)十二月までに約一万六千人が日本本土と台湾に引揚げている。島別の内分けは次の通りである。
 ヤルート・三六二名、ポナペ・二二〇八名、トラック・三二四六名、ロタ・三八七名、テニアン・一六五八名、サイパン・二五九六名、ヤップ・八二〇名、パラオ・四九二〇名(安仁屋一九九〇・一一〇)。
 安仁屋政昭によると、「『内地引き揚げ』というのは、一般住民の安全をはかるのが第一義ではなく、作戦の足手まといを排除し、食糧を確保するというのが主目的であった」という(安仁屋政昭一九九〇・一一一)。例えば、「農耕のまったく不可能なマーシャル諸島では軍の要員を除き、一般邦人のうち『不要』老幼婦女子の『内地引き揚げ』は、徹底して実施された」のに対して、「農耕自活の可能なクサイ島やポナペ島では、軍用の野菜の生産や航空基地建設のために労働力を必要としたので、婦女子の引揚げは、かならずしも強制ではなかった」(安仁屋政昭一九九〇・一一〇)。当時南洋群島に居住していた読谷山村出身者の間でも、戦況が激しくなる昭和十九年以前に引揚げる人は少数であった。

 絶対国防圏と南洋群島・昭和十八年

 一九四三年(昭和十八)九月三十日、「絶対国防圏」が御前会議によって決定された。絶対に確保すべき要域を千島、小笠原、内南洋及び西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む太平洋及び印度洋と定めた。児島襄は、「絶対国防圏」の眼目が「防衛線を縮小して内を固めること」にあったと述べている(児島襄一九六六・五九―六一)。何故防衛線を縮小して内を固める必要があったのかというと、一九四二年(昭和十七)後半から一九四三年(昭和十八)の時期が敗戦に向かう戦局の転機であったからに他ならない。一九四二年(昭和十七)五月までに、「西太平洋と東南アジア全域を支配下におさめた」日本は、その後「ミッドウェー海戦で主力空母四隻を失い、ガダルカナル島では海軍第一線パイロット多数と陸兵二個師団の戦力を失う大打撃を受けた。ここに日本は、ようやく国力増強の必要を感じ、国内および南方支配地域の戦争体制整備を、一九四三年(昭和十八)に求めることになった」(児島一九六六・二)。国内では、昭和十八年六月に「軍需生産第一主義を確立するための『戦力増強企業整備基本要綱』、食糧自給体制をはかる『食糧増産応急対策要綱』、衣料品節約を強調する『戦時衣生活簡素化実施要綱』、学生を勤労動員する『学徒戦時動員体制確立要綱』、全国を九ブロックに分けて中央集権を強化する『地方行政協議会』などの措置がとられ、九月二十九日に企画院、商工省を廃止して軍需省の新設が決定された(発足は十一月一日)」(児島一九六六・五九―六〇)。
 この頃になると、南洋群島では現地召集が盛んに行われるようになった。喜名の山田※※(一九四三年当時二十歳)は、サイパンで初めての徴兵検査を受けた。それ以前までは召集の延期願いができたが、昭和十八年にはもうできなくなっていたという。結局、山田は昭和十九年三月に召集された。また、瀬名波の※※は、戦争当初は日本軍の食料確保の任にあたると徴兵を逃れることができたが、昭和十八年頃にはできなくなったと証言している。津波は、米軍による空襲が始まった頃もパラオ本島アイライにて野菜づくりをしており、日本軍が野菜を買いとっていた。しかし、昭和十八年には結局召集されて、ある大隊に配置された。津波が二十四歳のときだった。

 戦場としての南洋群島・昭和十九年

 一九四四年(昭和十九年)六月、南洋群島は戦場になった。この頃、移民の男性は軍隊に召集され、召集を受けない者は、主に海軍に徴用された。
 六月十一日にサイパン島は初めて空襲をうけた。爆弾と機銃掃射は三時間続いた。米軍機一八〇機が街の上空を飛び回った。初めての空襲から三日目に、艦砲射撃が始まった。大型大砲で長距離に陸地を攻撃するので、陸地の日本軍の大砲では、弾が敵艦に届かなかった。艦砲射撃は三日間続いた。砲弾の総量六万トンだった。日本軍は島の守備に一年間に二万トンの砲弾が必要だと考えていたが、「一日だけで一年分の砲弾が打ち込まれたことになる」(赤嶺一九九〇・八六)。児島襄によると、「六月十五日未明、サイパン攻略軍の第二、第四海兵師団、第二十七歩兵師団を乗せたLST輸送船団は、サイパン島西岸の沖に達した」(児島一九六六・一八九)。このときの日米両軍隊の兵力は、米軍のサイパン攻略部隊総数が六六、七七九人に対して、日本軍のサイパン島主要守備隊の総数三一、六二九人であった(児島一九六六・一九〇―一九一)。
 六月十七日に上陸した第二七歩兵師団はアスリート飛行場を占領した。さらに、「第四海兵師団は島を横断して東岸のラウラウ(マジシアンヌ)湾南端に進出して、島を南北に分断した」。その結果、「南部の守備にあたっていた独立歩兵第三百十七隊は、ナルタン半島に孤立した」(児島一九六六・二〇八)。児島襄によると、サイパン上陸以降、米軍は「徹底した掃討前進」を行なったという。「徹底した掃討前進」とは、上陸部隊が一日平均九〇〇メートル以下、時速三〇〜四〇メートルの速度で進攻したことを指す(児島一九六六・二一四―二一五)。これよって、米軍は「どんな小さな洞穴、くぼみ、草むらも見逃さず、前方に動く影には容赦なく銃弾を浴びせた。このため、日本兵だけでなく、水を求め、かくれ場所をさがしてさまよう市民も、少なからず射ち倒された」(児島一九六六・二一五)。
 このようなサイパンでの戦況は住民にとって苛酷をきわめたものだった。喜名の阿嘉※※とその家族四人は、「捕まれば殺されるからそれよりは自分で死んだ方が良い」という思いで、タロホホの海に飛び込んだ(阿嘉※※の体験記参照)。阿嘉家族は幸運にも助かったが、その頃のサイパンの海には死体がたくさん浮いていた。
 七月六日午前十時、サイパン主要守備隊であった陸軍第四三師団長の斎藤義次中将は自決した。同じ日の夜、海軍中部太平洋方面艦隊長の南雲忠一中将が自決した(児島一九六六・二一七―二一八)。九日午後四時十五分、スプルーアンス大将はサイパン占領を宣言した。
 サイパンを占領した米軍は、サイパンからテニアンに向けて高射砲を撃ち、飛行機から爆弾を落とし、艦砲射撃するといった具合に、徹底的に攻撃した。テニアン島は一坪に一発の爆弾が落とされたと、テニアン住民は後に言うようになった。サイパンとテニアンの周りの海上は米軍の船がぐるりと取り巻いていた
 米軍は、七月二十一日にグアム、二十三日にはテニアンに上陸した(児島一九六六・二三三―二三四)。八月三日にはテニアンを占領し、八月十一日にはグアムを占領した(児島一九六六・二四二)。児島襄によると、米軍のグアム島攻略部隊の総数は五四、八九一人であり、日本軍のグアム島守備隊は、陸軍が一一、四六四人、海軍が六、六五九人の合わせて一八、一二三人であった。また、米軍のテニアン島攻略部隊は四二、二九〇人、日本軍のテニアン守備隊は陸軍が五、〇五二人、海軍が四、一一〇人の合わせて九、一六二人であった。

 戦没者

 安仁屋政昭によると、南洋群島の中で「玉砕」した島は次の通りである。クェゼリン、ルオット、ブラウン、エボン、サイパン、テニアン、グァム、ファイス、ペリリュー、アンガウル。このうち、婦女子を含む一般邦人が軍と運命をともにしたのは、サイパンとテニアンであった(安仁屋一九九〇・一一二)。
 サイパンでの戦闘における米軍の死傷者は、「米海兵一〇、四三七人、歩兵三、六七四人、合わせて一四、一一一人」であり(児島一九六六・二二二)、日本軍はほぼ全滅に近い状態だった。「三一、六二九人の日本軍のほとんどが戦死し、捕虜になって生き残ったのは一、〇〇〇人にすぎなかった」(児島一九六六・二二二)。また、サイパンに住んでいた一万人以上の市民が亡くなった。これはサイパンの人口の約四割に当たる。沖縄出身の出稼ぎ移民者の戦没者は六千人以上にのぼった(安仁屋政昭一九九〇・一〇九)。戦没した市民の六〇%が沖縄からの出稼ぎ移民者たちだったわけである。
 テニアンは八月三日、グアムは八月十一日、それぞれ組織的抵抗を終えて占領された。テニアンでは角田海軍中将、グアムでは高品陸軍中将が部下とともに自決し、両島における日本人戦没者は、軍人と民間人合わせて約三万人に達した(児島一九六六・二四二)。

表2 南洋群島における沖縄県関係者の戦没者
(沖縄県援護課資料、但し、安仁屋政昭一九九〇・一一二をもとに作成)

陸軍
海軍
戦闘
参加者
その他
合計
サイパン
385
2,101
1,810
1,921
6,217
テニアン
147
482
30
861
1,937
ロタ
64
61
30
213
368
グアム
1
44
2
11
58
パラオ諸島
742
78
113
2,136
3,069
ペリリュー
135
151
 
 
286
アンガウル
75
 
2
 
77
ヤップ
8
 
 
36
44
トラック
62
42
21
323
448
ポナペ
11
9
12
217
249
ヤルート
 
3
 
33
36
クサイ
3
 
1
33
37
1,684
2,974
2,438
5,784
12,826

 

表3 南洋群島における読谷山村関係の戦没者
 (読谷村戦没者名簿より作成)

死亡地
軍人・軍属
戦闘参加者
一般住民
不明
件数
島名不明
20
 
5
1
26
クェゼリン
8
 
 
 
8
グアム
 
 
3
 
3
サイパン
30
1
54
3
88
テニアン
23
 
33
 
56
トラック
2
1
 
 
3
パラオ
14
 
11
1
26
ポナペ
3
 
4
 
7
ロタ
 
 
 
1
1
ペリリュー
4
 
 
 
4
合計
104
2
110
6
222

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