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1 南洋出稼ぎ移民の戦争体験
体験記(サイパン)

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○阿嘉※※(明治四十五年生)
  阿嘉※※(大正元年生)

 渡航

家族写真・昭和十一年、南洋サイパンアサヒ写真館にて撮影阿嘉※※・※※・※※(長男)・※※(次男)
 一九三三年(昭和八)、旧暦の六月十七日、※※は妻※※と共にサイパンに渡った。船賃は一人四五円で、二人だと九〇円かかった。この費用は三か月で返すという約束で借金した。二人がサイパンへ渡航する前、一九二八年(昭和三)に兄が一足早くサイパンに渡っていた。出発する四、五日前には喜名の観音堂を拝んだ。出発する前の晩は、友人たちが夜の十二時頃まで家で送別会をしてくれた。その後、午前二時頃にランプの明かりをたよりに散髪をした。そのまま寝ずに翌朝家を出た。

 仕事

 ※※はサイパンで南洋興発下の試験場で秋植えのさとうきびの苗を作る仕事をしていた。
 南洋興発では、よく人夫を集めて宴会を行っていた(昭和八年から十八年頃まで)。ある宴会の席で、本土出身の試験場長に「私は非常に貧しい家に生まれ、小学校二年生までしか通っていません。だから標準語があまりわかりませんけど、よろしくお願いします」と言った。それに対し、試験場長は次のような言葉を※※にかけてくれたという。
 「学校を出ている、出ていないは関係ない。あなたは、一人前に仕事をやっているじゃないか、これでいいんだ。学校は関係ない。この会社の一番の宝は人夫だよ。みんなが大学に行ってしまえば、この会社はないんだよ。人夫がいるからこそ会社があり、試験場もある。大学に行く人は、五〇人に一人いればいい。大きな山を開墾し、会社が成り立っているのは人夫のおかげだ。仕事が終わり、家に帰れば(あなたも私も)同じ一家の主ではないか。そうして、私と付き合ってくれ。あなたの場合、子供たちが生まれるまでに良い土地を作っておく事があなたの責任だ。人として一番大事な事は『真心』と『真面目』なことである。真面目にやっておけば、どんなことがあっても人には負けない。何処へ行っても真面目でいれば、信用される」。
 それまでは、劣等感があってまごまごしていたが、これ以降、※※は会社の中で冗談も言えるようになり、明るくなった。

 豊かな生活

 ※※と妻※※は、サイパンのチャランカの社宅に住んでおり、電気やお風呂もただで利用できた。食べ物は何でもあった。島民から借りた土地でつくった農作物(バナナ、タピオカ等)ができると、近所でお付き合いしている人に分けた。海ではタコやサザエがたくさんとれた。島民は「タコは海の神」と言っており、取って食べることはなかったが、島民に頼むと、※※たちのためにタコやサザエを取ってきてくれた。
 ヤシで作った酒があり、三合で一二銭だった(沖縄では、酒一合で三〇銭)。男性の客にはお茶を出さずに、朝でも酒を出していた。島民はお正月以外、酒を飲むことが禁止されていた。もし島民に酒を飲ませて暴れたりしたら、飲ませた人の責任となり二十一日間拘留されるという規則があった。
 サイパンでは郷友会的な組織が、字、村、県のそれぞれのレベルにあった。一年に一回、喜名出身者が集まるときは全員で一六人くらいになった。読谷山村出身者が集まる会では一〇〇人を超えた。沖縄県人会では運動会をやった。運動会では、リレーや相撲等をした。島民も希望者は運動会に参加した。例えば、島民による火おこしの競技があった。火おこしの競技とは、先の尖った棒を穴が空いている板で擦って、煙が出ると「フーフー」と息を吹きかけ、その火種からタバコに火をつけるというものである。

 突然の空襲と逃避行

 昭和十九年頃になると、※※の豊かな生活は一変することになる。
 ※※が昼食を終えて職場に向かう途中、突然前方に飛行機が見え、容赦なく攻撃してきた。それまでは、空襲があるときは連絡がくることになっていたが、突然の来襲に驚いた。工場のガソリンタンクの近くに爆弾が落ち、職員は皆びっくりして逃げた。試験場長に、「飛行機が飛んでくる方向へ逃げなさい」と教えられた。
 ※※と職場の人たち三家族で協力して社宅の近くに壕を掘ってあったが、壕のすぐ近くに日本軍の高射砲台があった。そこは危険だと思って、米軍が上陸した後、壕を出た。その後、チャランカからトトロン(山)→ドンニー→カナベラ→月見島の近くの道→マッピー山へとさまよいながら逃げて行った。
 山に逃げる準備(おにぎりをつくっていた)をしているとき、家の傍に爆弾が落ち、大きな穴ができたことがあった。ちょうどその頃、泊出身の大城という人が、※※の家に来て「朝から何も食べていないから、米一合わけて下さい」と言ってきた。米を分けると、後から三〇人ぐらいの兵隊がお米を一合ずつ貰いに来た。彼らにはハガマ(羽釜)も貸してあげた。自分たちが食べる分だけの米を残し、後は全部あげた。※※たちが家を出る時、兵隊たちは「無事を祈る」と言って手を合わせた。「そのおかげで命が助かったのではないかと思っている」と※※は言う。
 避難中困ったのは水がなかったことだった。ある場所で※※は井戸を見つけた。しかし、井戸の中には腐ったカエルがたくさん浮いていた。そこから、一升瓶で水を汲もうとすると、そのカエルの肉片が口の中に入った。仁丹を入れて、井戸の水を少しだけ口に入れた。しかし、臭くて飲みこむことはできなかった。一緒にいた人たちは構わずに飲んでいた。※※は血便をするぐらいお腹をこわして大変だったが、命に別状はなく、水を飲まなかったことが幸いだった。
 カナベラに行くと、友軍の食料のゴボウがあった。それを六斤缶に切って入れ、薄味で煮て食べ、その煮汁も飲んだ。カナベラでは、大きな石を退かした跡にできる窪みの回りを石で囲み、木の枝を屋根にして隠れていた。そんな所に隠れている※※たちを、職場仲間であった瑞慶覧が見つけた。「子供がいるのに、こんな所に隠れているのか」と端慶覧は言い、※※たちを壕に連れていってくれた。

 知り合いの死(昭和十九年七月)

 知り合いの糸数はタロホホ牧場に避難していた。飛行機からの攻撃で橋の下にいた糸数は太股を撃たれ、四歳の子供は背中から機関銃の弾が貫通した。糸数は歩けなくなり、子供は即死した。糸数は※※たちに「早く逃げなさい」と言った。
 一緒に行動していた知念という八人家族がいた。そのうち、二人の子供が便所に行っているとき、艦砲の攻撃が東の方からあり、その子たちは、爆風で上半身を吹き飛ばされて亡くなった。その時、妻※※の左耳に破片が当り、この傷で今も耳が聞こえにくいという。
 名護出身でアスリートの牧場で組長をやっていた松田が壕に隠れているとき、「カマーン、カマーン。デテコイ、ニホンハマケテイル」と、米兵の投降を勧める声が聞こえた。そのとき、松田は「絶対に負けない」と、壕の中から外に石を投げた。すると、壕の中に手榴弾を投げ込まれた。米軍が投降を勧めても、当時の日本人はその言葉を信用しなかった。そのために犠牲になった人たちがたくさんいる。友軍は「絶対に捕虜にはなるな、自殺せよ」と言っていた。
 知り合いの石山は日本軍から手榴弾をもらっていた。子供二人、おばあさん、姉妹の旦那さんと子供三人の八人を集め、手榴弾を爆発させた。その爆破で五人亡くなり、石山とその子供二人は生き残った。

 身投げ

 ※※とその家族は、これ以上逃げられないと思うようになり、海に身投げすることを決意した。昭和十九年七月一日頃のことであった。職場仲間のYが「私も一緒に死なせて下さい」と言うので、一緒に行くことにした。
 タロホホの岸壁で、※※たちがいた所から三〇メートルくらい離れた所に爆弾が落ちた。それをきっかけにして、妻※※は四男を背負い、次男の手をつかんだ。※※は三男を背負い、長男の手を引き、帯で家族が離れないように結びつけた。家族みんなに、ビールを一本ずつ持たせて、「それを飲んで目をつぶって、飛び込もう」と宗助は言った。ビールを開けた時には、黒人兵二人がすぐ後ろまで来ていたので、飲まずに「天皇陛下万歳」と言って飛び込んだ。そのときの海は潮が引きはじめていて背丈よりも浅かった。それでも波が荒く、立つと頭の上から波が押し寄せて来た。海に落ちた衝撃で、四男は波にさらわれそうになったが、※※は必死に息子の足をつかまえて放さなかった。その時、黒人兵に「カマーン、カマーン」といわれて、女性と子供が先に助けられた。※※やそのとき一緒に海に飛び込んだ男性はなかなか船に上げてもらえなかった。何か武器を持っているのではないかと米兵が思っていたのだろう。
 海に飛び込んだのは※※の家族だけではなかった。具志川出身のある家族、職場仲間のYたち、知り合いのE家族、I家族も飛び込んだ。具志川出身の男性は、妻と子供を先に飛び込ませ、結局本人は飛び込めずに米兵にひきとめられた。Yの家族は一人の子を亡くした。Eたちは、最後に飛び込み二人の子を亡くした。Iは子供二人を連れて岸壁に行き、まず長女を海に投げた。その女の子は、「お父さん、お父さん」と二回とも泳いで上がって来た。もう一度、長女の足をつかまえ岩に叩き付けてから海に投げた。長女は再び上がって来ることはなかった。今度は長男の足をつかみ、海へ投げようとしたら、米兵がその子をつかまえて助けた。
 米兵は、死んだようにみえる子供であっても、海水を吐かそうと、足をつかまえて逆さにしたり、人工呼吸をしたりしていた。亡くなった人たちにはお祈りをしていた。
 ※※家族は全員無事だった。「一番恐いのは、米軍の捕虜になることであって、飛び込むことは全然恐くなかった」と※※は言う。※※の四男は釣りが好きであるが、海で泳ぐことが未だにできない。

 収容所での生活

バンザイ岬の慰霊の碑。後方に見えるのはマッピー山。山頂はスーサイドクリフ(自殺岬)と呼ばれる(一九九八年・山田絵理撮影)
 ※※とその家族は、昭和十九年七月九日に捕虜になった。
 チャランカの(ススペ)住民用の収容所でしばらく生活した。六人家族で、五〜六畳ぐらいの家に二年間いた。あおむけに寝る事ができないほど狭かった。沖縄に引き揚げるまで、妻の※※は、二重金網の外に出たことがなかった。作業人だけは外に出ることができた。
 米軍が沖縄を占領した後、ススペ収容所内で、沖縄上陸の様子を映した映画を上映していた。「ここは、都屋の浜だー」と、読谷の人が言っていた。
 捕虜になって最初のうちは、収容所で亡くなった人たちを穴に埋める作業をやった。また、米軍人の墓場にも連れて行かれ、軍服を着たままの米兵の死体から部隊名や名前が刻まれている認識票を探す作業をさせられた。死体には蛆虫がわいていた。作業をしている場所は、アフヌニア海岸という所で、下の方はすぐ海だった。昼ご飯時に「手を洗わせてくれ」と願い出ても、銃を持った三人の米兵は手を洗うことを絶対に許してくれなかった。仕方がなく、蛆虫のわいた死体を触った手を洗わずに昼食をとった。

 沖縄に帰る

 サイパンから引揚げる時期が近くなった頃、女性と子どもたちだけ、ススペ湖で水浴びをさせてくれた。また、収容所内で運動会が二回ぐらいあった。昭和二十二年二月二十八日、アメリカの船に乗せられサイパンを出発し、昭和二十二年三月五日、沖縄の久場崎に着いた。久場崎で一週間ほど過ごし、戸籍を調べられたりした。その後、インヌミヤードゥイに移り、さらに照屋のテント小屋で二年間過ごし、そして波平に移った。
 戦後落ち着いてからはほぼ毎年、慰霊祭にサイパンを訪れている。

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