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1 南洋出稼ぎ移民の戦争体験
体験記(サイパン)

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 ○山田※※(大正十三年生)

 渡航

 大正一一年に大伯父の山田※※がサイパンへ渡り、南洋興発から土地を買って農業をしていた。すでにサイパンに渡っていた喜名の金城某が昭和十四年に一時的に沖縄に帰ってきて、彼女が再渡航するときに※※も一緒にサイパンへ渡った。サイパンへは伯父を頼って行ったので移民という感じではなかった。
 渡航の費用は七〇円くらいだったと記憶している。四〇円を自前で、あとの三〇円を親戚に借りた。あの頃南洋に渡る人はたいてい親戚から借金していた。
 渡航前に普天間神宮に拝みに行った。当時は出稼ぎや移民、兵隊に行く人も普天間神宮へ詣でた。家では先祖に南洋に出稼ぎに行くことを報告した。

 サイパンでの仕事

 大伯父の※※とその妻、そして喜名出身の喜名※※と※※の四人は、カナベラで生活していた。※※の長男はガラパンで運転手をしていた。※※は大農家で、※※と※※は人夫として働いた。普段は三人で作業していたが、場合によってはよそからの応援もたくさんきた。仕事は忙しかった。
 ※※は南洋興発から五町歩の土地を買ってサトウキビを作っていた。サイパンでは南洋興発から土地を借りている小作がほとんどだったが、※※はお金持ちで、自作農だった。カナベラで自作農だったのは※※を入れて二軒だった。※※は、※※の畑で雇ってもらった。島民を雇うことはなく、沖縄の人を雇っていた。喜名からサイパンに来た人は、まず※※を訪ねることが多かった。※※は南洋興発との仲介役になり、土地を借りる時の保証人になったこともあった。
 サイパンに住んでいる人はほとんど南洋興発で農業をしていた。パパヤ小作を専門にしている人がいて、パパヤから出る白い汁をためて、薬として使うために本土に送ったという話を聞いたことがある。タピオカ工場もあった。また、糸満、伊是名、宮古の人が漁業をしており、カツオ漁が盛んだった。これらの漁師に魚をよく貰いに行っていた。

 サイパンでのくらし

 サイパンには、二〇世帯ほどの喜名出身者がいたが、みんな離ればなれに住んでいた(チャランカ、マッピー、マタンシャ等)。サトウキビの収穫が終わると、一年に一度、六月か七月に喜名の人が集まってごちそうを食べた。サイパンの喜名出身者が全員集まると五〇人以上になった。場所は高山※※の家と決まっていた。朝から集まって天ぷらを揚げたり、豚をつぶしたり、三味線を弾く人がいれば、踊る人もいた。
 月に二回休みがあり、脚絆を巻き、足袋を履いて町に遊びに行った。ほとんどの人が自転車を持っていた。ガラパンにはミナミ劇場という沖縄芝居専門の劇場があり、毎日のように沖縄芝居をやっていた。
 また、カナベラには神社があった。神社祭りには多くの人が集まって拝んだり、ご馳走を食べたり、酒を飲んだりした。神社内に舞台をつくって沖縄芝居をやったこともあった。
 現地に住んでいた島民は、カナカ、チャモロと呼ばれる人がたくさんいた。島民に酒を飲ませることは禁止されていて、違反すると罰金を課された。島民をサトウキビ畑で雇うということはなかった。彼らは、タコ・イカ・ウナギ等を取っていたが、それを食べずに日本人に売っていた。

 戦時体制化へ

 昭和十八年頃から戦争の気配が濃くなってきた。日本軍がたくさんやって来て、よく演習をやるようになった。その頃、日本軍の命令で壕を掘った。家から、海での戦闘を見たことがある。また、目の前で潜水艦に船がやられるのを二回見た。そのうちの一隻は引揚船だった。
 昭和十八年に、サイパンでの初めての徴兵検査が行なわれた。※※もそのとき二十歳で徴兵検査を受けた。その前までは召集の延期願いができたが、昭和十八年にはもうできなくなっていた。朝鮮人も召集されていた。その頃の朝鮮人は日本人教育を受けていたので日本語もできた。おそらく、南洋興発が雇っていた朝鮮人だったと思う。※※を含む喜名出身者の五人が召集されて、※※以外の四人は戦死した。
 召集された当初は、家から訓練に通った。竹やり訓練や手榴弾投てき訓練を行なったが、鉄砲はなかった。二十歳のとき(昭和十九年)、二等兵として長谷川部隊に配属され、アスリート飛行場近くに駐屯した。兵隊になってからは喜名から行った他の四人とは別々になった。部隊では二〇人位の隊だったが、一人が何か悪いことをすると全体責任といって全員棒で叩かれた。陸戦隊だったのでとくにひどかった。
 米軍が上陸してくると、酒を飲んで爆弾の入ったカバンを持って体当たりしていった二十歳前の若い志願兵がたくさんいた。

 部隊からの脱走

 米軍上陸後、福島県出身の斉藤(上等兵、当時三十歳くらい)に、「この戦争は勝てないから早く避難したほうが良い」と言われて一緒に逃げた。もし戦争に勝っていたら死刑になっていたかもしれないと※※は言う。カナベラには六つの壕があり、一つの壕にじっとしているのではなくてあちらこちらに避難した。駐屯地からカナベラに戻り、そこで斎藤と別れた。彼は弾をあびて戦死した。
 その後、※※は喜名出身者を含む何人かと行動を共にした。喜名出身者の同級生Tは太股を撃たれた。※※は彼を背負いながら二週間くらい歩いた。しかし、傷口からはウジが湧き、破傷風のため壕の中で亡くなってしまった。またタロホホ岸壁に避難したときは、喜名の※※家族も一緒だった。残波岬のような絶壁で米軍に挟み撃ちされて、※※は「私たちはここから飛び込むから、あなたは逃げなさい」と※※に言った。※※たちは下の方に逃げた。そこから※※たちが飛び込むのが見えたので亡くなったと思った。この頃は海に行くと死体がたくさん浮いていた。後に収容所で再会し、※※の家族が全員無事だったのでとても驚いた。

 壕に避難

 マタンシャには千人くらいが入れる大きな壕があり、※※はその大きな壕に避難した。壕がどこにあるかは前もって知っていた。南の方はよく知らないがサイパンの北には壕がたくさんあった。壕の中には軍人ではなく住民が入っていた。壕の中では子供が泣くと敵が来るからと、母親が二才くらいの子供の首を絞めて死なせたのを見た。
 日本軍は「アメリカ軍に捕まると殺される」とデマを言っていた。「それでたくさんの人が亡くなったと思う。アメリカ人は本当はそんな事しないのにバカだったと思う。はっきり兵隊とわかれば攻撃しただろうけれども、民間人にはそんな事しなかったはずだ」と※※は言う。
 サイパンでの戦闘が終わりに近づくと、日系二世アメリカ人が「早く(壕から)出なさい」と言う声が聞こえるようになった。しかし、「あれはスパイだ」と周りの人に言われて、※※や周りの人たちは信用しなかった。
 ※※は、昼間は壕に隠れていて夜は食べ物を探すために外を出歩いた。ある日、食べ物を探すために壕の外に出ていて、疲れてそのまま外で寝ているところを米兵に肩を叩かれて保護された。朝九時ごろのことであった。最初のうち、米軍から支給された食べ物も水も毒が入っていると思って口にしなかった。アメリカ兵が先に食べて見せた物は食べた。アメリカ兵は笑っていた。

 収容所での様子

 収容所には一般住民を収容するチャランカ収容所と、軍人を収容するマッピー収容所があった。米軍の捕虜になると、独身男性はみんな兵隊だと判断されて一か所に集められた。しかし、※※が※※は自分の次男であると嘘の証言をしてくれたおかげで一般住民用のチャランカ収容所に入った。このような嘘をついていた人はたくさんいた。二つの収容所では待遇に違いがあったようだ。現地で軍隊に協力させられた人は軍人であっても一般住民扱いされた。捕虜になったのは昭和十九年八月頃で、遅い方であった。
 チャランカの収容所には約一年間いた。日本軍の食料はあったが米は水に濡れてしまって臭かった。みんなそれを食べた。下痢をする人や栄養不良で亡くなる子供もいた。
 ※※は、収容所内の輸送部隊で車の整備の仕事をした。賃金は日給で三五セントだった。どのような作業をしても同じ賃金だった。そのお金で収容所内の売店で食べ物や服を買った。戦争で夫を亡くし子供を連れた喜名出身の未亡人がいて、彼女は作業に出ることができなかったので、給料を貰っている人が少しずつお金を出し合って彼女にあげた。収容所には泥棒がたくさんいたのでお金は隠して持っていた。

 引揚げ

 ※※は、アメリカ軍の貨物船の船底に乗せられて昭和二十一年引揚げた。久場崎に着いて、インヌミヤードゥイで一か年過ごした。

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