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1 南洋出稼ぎ移民の戦争体験
体験記(サイパン)

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 ○与那覇※※(昭和四年生)

 南洋サイパンへ渡航

 父※※は次男であったために土地や屋敷などをもっていなかった。南洋群島の中でもサイパンが最も儲けられるところだと聞き渡航を決心したという。最初は父がサイパンに渡り、しばらくして母を呼び寄せた。※※は、一〇人兄弟姉妹の三番目(次女)としてサイパンで生まれた。

 戦争中の家族の様子

 サイパンが戦場になる以前は食べ物が豊富にあった。※※の父は主にサトウキビを栽培していたが、野菜もたくさん作っており、また、いろいろな木の実や果物も手に入れることができた。
 昭和十九年六月になると、艦砲射撃が激しくなり本格的な戦闘が始まった。幼い弟妹たちは父や母と※※が背負って、自分で歩ける者は食料や鍋などの荷物を持って山へ避難した。とはいえ、父母に一〇人の兄弟姉妹という大家族では食料もすぐに無くなった。運悪く、その頃は雨も降らず水も無く、空襲によってできた地面の穴にわずかに溜まった水を飲み、命をつないでいた。その溜り水を昼間見てみると、その周りには日本兵の死体がいっぱい転がっていて、水もドロドロとしたものだった。
 死体はあちらこちらに転がっていた。ときにはその死体を野豚が食べているのを見かけた。父はそれを見て「死んだら豚の餌になるんだよ。がんばって生きるんだ」と言って子供たちを励ました。

 日本兵は恐かった

 戦争が始まる前から、※※には「日本兵は恐い」というイメージがあった。「子供は足手まといになるから早く殺しなさい。戦争が終わったらいつでも産めるじゃないか」と言うのを聞いたこともあった。それで、避難しているときは日本兵から離れて行動した。森の中で日本の兵隊を見かけたら隠れた。
 ある日壕を見つけ、日本兵が潜伏していることも知らずに、中に入っていった。奥には何人かの兵隊がいて負傷兵も一人いた。※※たちは出ていこうとしたが、スパイと思って殺されるのではと思い、出て行くこともできずに壕の入り口付近にいた。負傷していた兵隊が「水をくれ、水をくれ」と叫ぶけれど水はない。仕方がないので仲間の兵隊は尿を出して飲ませていた。しかし、あまりにも手が掛かると思ったのか、外へ連れ出し銃で撃って殺してしまった。※※は、仲間さえも殺してしまう兵隊を見て余計恐くなったが、壕から出るに出られなくなってしまった。
 米兵の投降を呼びかける声が聞こえるようになってきた頃、※※たちは早く壕から出て行きたいと思った。しかし、一緒にいた日本兵が恐くて出ていけなかった。※※は、米兵がもっと近づいて来るのをじっと待っていた。そしてずいぶん近くに来たと感じたとき、父が私に「おまえハンカチ持って出て行きなさい」と言った。※※は「いやだ、一人で行くのは恐い。私が殺されてもいいのか」と言った。父は「違うよ、女が出ていったほうが安全なんだ」と言った。※※はどうしても出て行けなかった。結局、弟がハンカチを持って出ていった。その後すぐに「出てきなさい」という声が聞こえたので家族みんなで壕を出た。その時、後ろから日本兵に撃たれるんじゃないかと恐れていたが、撃たれることはなく、日本兵も一緒に捕虜になった。

 収容所生活

 収容所は兵隊と一般住民に分けられ、一般住民も現地人、朝鮮人、日本人の三つに分けられ、立場は戦前のまったく逆になってしまった。一等国民は現地人、二等国民は朝鮮人、三等国民は日本人である。
 食事の配給が朝と晩二回あったが量は少なかった。幼い弟※※と妹※※は栄養失調になった。時々収容所に持ちこまれるカエルのモモ肉を食べさせたりしたが、結局亡くなってしまった。
 男性は働ける年齢の者全員が弾薬運びなどの作業に駆り出された。その弾薬は沖縄の戦争で使われるためのものだったらしく、父は「親元に弓を引くのか」と言っていた。女性は肉体労働的な作業をさせられることはなかった。※※は米軍からパスをもらい、収容所から出て一般住民用の病院で看護婦として働いた。三交替制で食事も出たし、給料もちゃんとあったので待遇はよかった。

 沖縄へ

 沖縄へ帰ったのは昭和二十一年の初め頃だったと思う。船でサイパンより沖縄へ直接帰ってきた。
 船の中では看護婦経験者が※※一人しかいなかったために仕事を頼まれたが、船酔いでそれどころではなかった。船の中である糸満出身の女性が出産した。しかし、船酔いのためにそれを手伝うことはできず、出産した後に世話をした。
 沖縄、久場崎に入港し、そこで一日過ごした。「読谷山出身と言ったら嘉間良に連れて行かれるよ。嘉間良に収容された人たちはとてもひもじい思いをしているよ」と聞いたので、美里村石川出身と嘘をついた。結局、石川収容所へ送られた。石川収容所に一年以上収容され、読谷山村高志保に帰った。しかし、儀間には戻れなかった。

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