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1 南洋出稼ぎ移民の戦争体験
体験記(パラオ)

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 ○津波※※(大正八年生)

 渡航前後

 津波※※は、昭和十四年、十九歳の時にサイパンに渡った。渡航前は、嘉手納の製糖工場へのさとうきび運搬の仕事をしていた。製糖工場では三、〇〇〇斤以上のサトウキビを運搬しても、三、〇〇〇斤分の運搬賃しかもらえなかった。※※は八人兄弟の一番上であり、これだけの賃金では、家族が暮らしていくには全然足りなかった。とにかく貧乏だった。
 南洋へ渡航した時の船のことはよく覚えている。那覇から鹿児島までは、海上丸で二昼夜かけて行った。鹿児島から門司までは汽車で行き、さらに門司から横浜まで汽車で行った。横浜からは笠置丸でサイパンへ約一週間かけて行った。当時、沖縄の人が本土や外国に行くことは大変なことだった。一番の問題は言葉であった。※※は次のように語る。
 「ィヤーガ想像ナイミ、タトゥレー、鹿児島ヌホテルウティ、アマンチュヌ、ヌーガラアビティンテー、意味ヤワカイシガ、標準語アビユーサンクトゥ返事ヤムル『ハイ』ビケー」。
相手の言っていることは理解できても、こちらの言いたいことを相手に伝えることができない。沖縄の人は簡単な事務的なことすら相手に伝えることができない。さらに、沖縄の人は当時差別されていた。そのような状況で沖縄の人が沖縄を離れるということには、よっぽどの貧しさとその他の事情があったことを意味している。
 ※※によると、戦前の沖縄では一人前のよく稼ぐ男性で一か月五円くらいの賃金だった。それに比べて、サイパンでは一日で一円三〇銭稼ぐことができた。一か月で食費に八円使って二〇円貯金することができた。外地に出稼ぎに行くということは、例えば次のことを意味する。五年で五〇〇円くらい稼いでくる。そして、沖縄で三〇〇坪くらいの畑と一五坪くらいのカーラヤー(瓦葺きの家)を建てる。このような外地帰りの人を見ると、周りの人たちは借金をしてでも出稼ぎに行きたがった。このようなフィリピン帰りの「成功者」が瀬名波には二軒あった。その頃、南洋よりもフィリピンの方が稼ぎがいいと聞いていた。しかし、フィリピンへの渡航費は二〇〇円程かかり、南洋へは七〇円程で済んだ。従って、※※が渡航する頃には南洋に行く人が多かった。※※が南洋に渡航する前の昭和十年代のことである。
 ※※の姉は、座喜味の人と結婚してサイパンに行っていた。この姉夫婦を頼って、サイパンへ渡ろうと決心し、※※は借金をして渡航費を作った。八人兄弟の一番上である※※は、南洋から読谷の家に仕送りをしなければならなかった。

 南洋にて

 南洋では、沖縄では食べられなかった白米を思う存分食べることができた。「おかずなどいらなかった。白米だけを何杯でも食べた。太っていたよ」と※※は言う。
 サイパンでは、南洋興発の運営するアソゴン農事試験場で働いた。試験場には自転車で通った。サイパンのガラパン町は自転車が多い町で、乗り合い自動車も走っていた。サイパンには二年ほどいて、その後パラオに移った。
 パラオでは、コロールの南にある小島マラカルで生活した。そこで、かつお節工場やかつお漁船に乗って働いた。当時、南洋の景気がよくて仕事はいくらでもあった。賃金の高い仕事があると聞くと次々に仕事を変えた。例えば、サイパンで一日一円三〇銭だった賃金は、パラオのかつお節工場では一日二円四銭だった。友人にそのことを聞いて、サイパンからパラオに移った。また、三ヶ月皆勤、六か月皆勤、一年皆勤というような皆勤賞があった。一年皆勤だと月給の半分くらいの賞金があった。
 かつお漁船は八トンの木造船で、一八人乗りだった。船員一八人のうち一六人は宮古出身者で、本島出身者が二人だった。まぐろ船には本土出身者の船員がいたが、かつお船にはほとんど沖縄出身者が乗っていた。
 パラオでは沖縄角力大会やハーリーも行なわれていた。昭和十五年ころ、日本軍の幹部がパラオにやってきた。そのとき、南洋神社で大きな祭りがあった。その頃※※はかつお船に乗っており、船上から南洋神社を望遠鏡で見ていると、船長(宮古出身)に「ィヤーヤ学校出ジランティナ、ムノーウマーン」と怒られたことがあった。魚を見るための望遠鏡で、神社を見てはいけないと言われた。
 戦局の悪化に伴って、パラオ本島とマラカルの輸送が途絶えがちになったので、パラオ本島のアイライに移った。アイライでは「島民」から土地を借りて野菜を作った。アイライで作った野菜は、日本軍の兵站部が買い上げた。日本軍の金払いはよかった。当初は、日本軍の食料を作ると徴兵を逃れることができた。

 「トーミン(島民)」について

 アイライでは島民から土地を借りていたので島民とのつきあいがあり、※※は少しチャモロ語も話せるようになった。島民は海沿いに集落を作って住んでいた。彼らは槍の使い方がとてもうまく、魚でも木の上になっている果物でも簡単に槍を投げてとることができた。彼らは手を使うように槍を使うことができた。男は赤いふんどし、女は腰巻きだけを身につけ、上半身は裸だった。彼らは土地の賃貸料を貰っていたので、金持ちも多かった。しかし、島民には酒・米などの食糧を売ってはいけないという決まりがあったので、お金を持ちながら自給自足の生活をしていた。昭和十年代の後半には、島民の若者たちは、靴や洋服、香水などを身につけるようになった。このような贅沢品を買うことはできたのである。
 島民たちは日本人を怖がっていた。※※がパラオに滞在していた時期から一〇年ほど前までは、彼らを殺しても五円の罰金を払うだけで済んだと※※は言う。それゆえ、島民に五円札を見せると目を伏せて逃げていった。ただ単に道で日本人と島民がすれ違う時も、彼らは目を伏せて日本人を避けて歩いた。しかし、島民と親しくなることもあった。このような場合、日本人の友達がいる島民は仲間内で自慢の種になった。彼らにとって日本人と知り合いになる一つの利益は、日本人から酒を手に入れることだった。
 島民たちは酒が好きだった。しかし、公に酒を買うことができなかったので、そこに付け込んで彼らを利用する日本人もいた。酒三合と牛二頭を交換することもできた。「酒をあげるといえば、島民は何でもした」という。ある沖縄の島尻出身者は酒を彼らに横流しして大儲けした。
 ※※自身も次のような経験をしている。※※はある沖縄出身者の友人の家に豚を買いに行った。※※の家と友人の家は三キロ程離れていた。一〇〇斤くらいの豚を買って帰ろうとすると雨が振り出した。そこで近くにいた島民に豚を運んでくれないかと頼んだ。彼は最初断ったが、運んでくれたら酒を一杯あげると言うと、「大きいコップに一杯か、小さいコップに一杯か」と聞いてきた。「大きいコップに一杯だ」と答えると、「本当か」と言いながら豚を担いだ。道すがら「本当か、本当か」と言いながら豚を担いで、結局三キロの道のりをずっと運んでくれた。家に着いて、コップ一杯の酒を出すと、いっきに飲み干した。
 ※※は島民たちとつきあいがあったが、彼らに酒を瓶ごと見せることは決してしなかった。酒を飲んで暴れられると困るからである。日頃差別されているので、酒を飲んで暴れる島民は恐かった。槍を自由自在に使いこなす島民が日本人を殺そうと思えば簡単に殺せるはずだった。しかし、彼らはたいてい大変おとなしかった。

 アイライ飛行場での空襲

 アイライで野菜作りをしていたころの話である。日本軍はアイライで飛行場を建設していた。工事中の飛行場には飛行機の格納庫が二つあった。一つの格納庫は約一〇機の飛行機を格納することができる大きさだった。飛行場建設現場で空襲が二回あった。※※は二回とも目撃した。
 ある朝、何百人もの作業員が飛行場建設現場で朝会を開いているところに米軍機が襲ってきた。※※は飛行場建設現場のすぐ近くの壕からその空襲の様子を見ていた。飛行場建設現場の近くの道路や米倉庫が爆撃を受け、その後米倉庫は二、三日燃え続けた。何百人もの作業員たちがいっせいに地面に倒れたので「これは相当死んだな」と思ったが、実際には死者は一人も出なかった。
 二回目の空襲のときは、最初の空襲の約一週間後だった。そのときには飛行場建設現場の周囲に約一〇間(約一八メートル)の間隔で日本軍の高射砲が配置されていた。この時の空襲は激しく、米軍機は三〇機ほど低空飛行で攻めてきた。高射砲というのは発射するときと空中で爆発するときの二回音がする。米軍機の爆弾と高射砲炸裂音が絶え間なく鳴り響いた。このときも※※は近くの壕にいてその様子をみていた。米軍機の狙いは明らかに格納庫だった。三時間ほど続いたと思う。しかし、二つの格納庫は無事で死者もほとんど出なかった。
 この二回の空襲を見て、※※は「戦争を怖がってはいけない。なかなか弾にあたるものではない。もしあたったら諦めなければいけない」と思ったという。人間の生死を決めるのは運だと※※は思った。

 現地召集

 戦争が激化してくると、軍隊に召集された。軍隊に入って最初に配置されたのはエミ大隊で、最初ガラスマオに駐屯した。その後、マガンダンの二中隊に配置された後、再びガラスマオに戻った。結局ガラスマオで終戦を迎えた。
 どこだったかは忘れたが、ある分隊に所属しているときにタコツボから襲ってくる米軍機に向けて鉄砲を撃った。その分隊は約一五人で構成されていた。各自が隠れるための穴を掘った。その穴がタコツボである。自分が隠れるための穴なので一生懸命掘った。立った状態で胸くらいの深さだった。小隊長だけはタコツボに入らず、地面の上に立っていた。米軍機が低空飛行で飛んでくると、小隊長は日本刀を片手に「撃て」と号令をかけた。小隊長は敵機が目の前に迫ってきても少しもたじろがなかった。そのとき、※※は「大和魂というのは本当にある」と思った。
 終戦直前の一年間は食べ物がなかった。輸送がストップされたために食糧が届かなかったからである。ねずみがいい蛋白源だった。召集されてから二か月くらいは米を食べていたが、その後からは芋の葉をよく食べた。そのために※※の歯は真っ黒になった。

 終戦

 ガラスマオで終戦を迎えた後、日本軍の兵隊はアイライに集められた。アイライの港から少しずつ沖縄へ引揚船が出た。※※は引揚げるまでアイライに一年程いた。
 アイライで、日本軍の武器や弾薬を海に捨てさせられた。日本刀を捨てさせられたある日本兵が泣いているのを見たことがあった。
 アイライでは米軍が配給してくれるソーセージの缶詰などの食料が豊富にあった。みんな本当によく食べた。飢えていた者が急にたくさん食べると、体の一部が膨れていく。ある人は顔だけが膨れ、ある人はお腹だけが膨れていた。太るのとはちょっと違う感じだった。
 引揚げるまで毎日宴会だった。沖縄芝居をする人がおり、手品をする人がおり、空手をする人がいた。酒はなかったが、食べ物が豊富にあり、みんな浮かれていた。
 引揚船に乗り込むとき、沖縄に持って帰ることができるお金は一、〇〇〇円と決められていた。みんな一、〇〇〇円を残して所持金を海に捨てた。

 再び「トーミン」について

 沖縄に引揚げる直前、※※は以前住んでいたアイライの家に行ってみた。日頃親しくつきあっていた島民と会ったが、彼らの顔つきがすっかり変わってしまっていた。よく「津波さーん、魚」といって片手に魚を持ってやって来たり、一緒に酒を飲んだりしていた島民とその友人らしい二、三人が※※に襲いかかってきた。※※は何とかその場を逃げた。「あの頃は若かったから逃げることができたが、年をとっていたら殺されていただろう」と※※は言う。そのことがあってから、戦後に再びパラオに行く気がなく、行ったことはない。

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