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2 フィリピンにおける戦争体験

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 フィリピン出稼ぎ移民の経験の特徴

 フィリピン出稼ぎ移民者がフィリピンで体験したのは、「敵だらけ」の状況である。このことは、ダバオにおける麻産業の発展と共に直面した土地問題に始まって、日本軍政下の抗日ゲリラ、山中での現地の人々との摩擦と断続的に表れた。その背景には、フィリピン社会が既にアメリカ化が進んでいた政治的状況がある。「日本軍政下の日本人移民」でも述べたように、「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」という帝国日本のスローガンは、一部のエリート親日派を除いて、フィリピンの民族意識高揚の刺激にならず、フィリピンにとって戦前の日本の行為は、フィリピンの自立性を脅かすものでしかなかった。
 そのようなフィリピン社会における日本人移民者たちは、常に現地との摩擦の中にあったといえよう。さらに、沖縄出身の出稼ぎ移民者は、他府県からの移民者たちとの間にも差別があった 〔「ダバオの沖縄県人」参照〕。沖縄出身者とそれ以外の日本人移民者たちの態度・服装などの相違と差別的な状況は、フィリピン人の眼にもはっきり映っていたと、鶴見良行は指摘している。鶴見は、「勝手な想像で確実な証拠はないが」とことわりながら、「沖縄県人の方が、バゴボなど『未開種族』とたやすくうちとけたのではないだろうか。クリスチャン・フィリピノは少数種族に差別と恐怖感を抱いているので、バゴボ族と交際する沖縄県人を軽蔑と畏怖の複雑な感情で眺めていたかもしれない」註釈と述べている。このことは、新崎※※の知人(沖縄出身者)がバゴボ族の女性と結婚していたこと、新崎が山中でバゴボ族から食料をもらっていたこと 〔「フィリピンにおける読谷山村出身戦没者」参照〕、松田※※が山中でバゴボ族の人々に食料を提供してくれるように交渉したこと(松田※※体験記)などに表れている。そこには、何重にも重なった敵対的・差別的な状況の中で生き抜いた沖縄出身出稼ぎ移民者のしたたかな姿を見ることができる。
 フィリピンでの戦争が生み出したものとしてさらに附言しなければならないのは、フィリピンに残されたフィリピン人妻や子どもたちである。戦後彼らは、「日本人の子ども」として差別され、経済的困窮から教育が受けられず、タガログ語や英語の習得の機会を逸したという。「地方語しか話せない彼らは、生活の手段もなく、日本国籍も持っていない。国籍確認の作業は、数年前に始まったばかりで、日系二世たちの戦後はまだ終わっていない」と鈴木静夫は強調している註釈

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註釈

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