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2 フィリピンにおける戦争体験
体験記

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 ○フィリピン生まれの私

 波平※※(大正九年生)※※出身

 父の移民とフィリピンでの生活

家族写真、左から3番目が父※※、4番目が※※(ミンタルにて、昭和16年頃・波平※※氏提供)
 私の父、波平※※は、座喜味の家や土地を親類に託して一九〇八年(明治四十一)、二十七歳の時に単身フィリピンに渡った。そしてミンダナオ島ダバオの太田興業の耕地に入植しミンタル、バゴ、バトにて麻の生産に従事した。一九一七年(大正六)にはある程度の金が貯まって、金時計をはめて沖縄へ帰って来て、私の母を伴いまたフィリピンに戻ったという。父は、一九二九年(昭和四)よりミンタルに於いて食堂と旅館の経営を始めた。
 私は、一九二〇年(大正九)ダバオ市ナンミンで生まれた。小学校は、ダバオの在外指定日本人高等小学校へ八年間通った。卒業後は、「農民道場」といわれた二年制の農業関係の専門学校へ進むのが一般的であった。しかし、私は「農民道場」へは行かなかった。というのは、父にはフィリピンで暮らしていくには英語が必要だという考えがあり、太田興業へ就職することになったのだ。太田興業のマニラ支店に勤務しながら、夜間は会社の便宜でマニラ市のグレッグ商業高等学校に通った。当時日本の企業が我々フィリピン生まれの若者をこのように優遇したのは、その土地で生まれた私達の名前で、土地の確保ができるという利点があったからである。私にとっては、マニラで英語を学んだことが、戦後こちらに来てからの通訳官としての仕事に役立った。
 今では、沖縄というと色々な面で「良いところだ」とマスコミ等で取り上げられているが、当時、フィリピンにおいて、内地から来た移民者は沖縄県人を見下している節が見受けられた。今なら「私は沖縄の者だ」と胸をはって言えるが、あの当時はフィリピンでも、こちらへ帰ってきてからも「沖縄」という言葉はあまり使いたくなかった。例えば、フィリピンの麻畑で用を足す県人などもいたが、ヤマトンチュ(他府県の人)はそういうことはあまり無かった。ちゃんと便所は便所ということでやっていたので、そういう面でも内地とくらべて、生活が雑だと思われていたのであろう。
 そのような差別的扱いの中で、戦前フィリピンで、日本人、沖縄県人を含む日本人会の会長に、上原※※さんという小禄の方が就いた。沖縄の人が日本人会の会長になったのは、上原さんが初めてだった。
 私自身も太田興業に入社して、すぐに事務職に就けたわけではなかった。この会社は、広島、山口、佐賀、福岡などのヤマトンチュがほとんどで、沖縄の人はほとんどいなかった。そんな中で、私は下っ端の仕事から始まったのだが、色々な思いを堪え忍んできた。そこをくぐって、今現在の私がある。逆に、今は沖縄方言が話せないということを残念に思っている。
 終戦の頃には、ダバオは二万人くらいの日本人移住者がいたが、そのうち六割は沖縄県人であった。戦時中の山奥での避難生活を語ることは困難である。食べ物が全くなく、猿がかじって捨てた木の実さえ、拾って食べた程であった。

引揚げ

 一九四五年、終戦後すぐに、私達家族は、強制的に本国へ引揚げさせられた。私と父は、軍用船でダバオから神奈川県の浦賀に連れて行かれた。私の場合は向こうで生まれ育っているので、引揚げといっても、日本へ来たという感覚であった。この引揚げは、男女別々の港に入港することになっていたため、母や妹達は鹿児島へ送られた。私と父は、浦賀へ引揚げた後、受入指定先であった大分県に行くことになった。しかし私は、すぐには大分へ行かずに、東京の太田興業から少しでも生活費を工面するために残った。先に大分へ行った父は、その後、鹿児島から来た母や妹達と合流した。
 しばらくして私が大分へ行った時、父は既に栄養失調で亡くなっていた。終戦の頃はフィリピンでもそうとう栄養状態が悪かったので、日本まで帰って来たものの、父は力尽きてしまったのだった。
 一九四六年十一月、大分を出て沖縄の久場崎へ入港した。しかし、読谷はどこもかしこも弾薬庫など米軍の基地になっていたので、すぐには戻ることができなかった。久場崎のコンセットで数日過ごした後、コザの嘉間良で半年程テント生活をし、その後読谷へ帰ってきた。

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