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2 フィリピンにおける戦争体験
体験記

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 ○「呼び寄せ」を受けて

 知花※※(明治四十一年生)
 (知花※※の妻)

 結婚した翌年、昭和四年に主人がフィリピンへ行き、昭和九年、二十六歳の時に、主人から呼び寄せを受けました。この時、シトゥウヤ(舅)は、「※※はいつ帰るかも分からないから(あなたは)行かさない」って言いました。そんなことがあったあとに、主人から手紙が来たんです。
 主人の妹にまずその手紙を読ませたら妹は泣いたわけ。「どうして手紙を見て泣くか」ってきいたら、「アングヮー アングヮー(姉さん、姉さん)」しよったよ。「アイエー、兄さんは姉さんが来ないんだったら離縁するって、実家に帰しなさいって書かれているよ」って言って泣くの。これを聞いたお父さんが怒って「そんな話があるもんか。(※※が)帰って来ないなら、フィリピンに居させておきなさい。お前は実家に帰らなくてもいいよ」って言われた。とてもいいお父さんでしたよ。
 そんなこともありましたが、結局私は、那覇港から鹿児島行きの船に乗ったんです。船には船員がたくさん乗っていて、「あんた、こんな時にフィリピンまで行くの。行かんけー、うちの所に行こう、行こう」と冗談しよったけど(笑)。
 だから、向こうに着くまでは不安でもあったね。だけどフィリピンへ行くのは一人や二人じゃなかったから、何も心配する事はなかった。鹿児島に上陸してからまた、長崎までバスで一三時間かかった。長崎からは、フィリピン行きの船が出た。一八日間船に乗っていたよ。
 私がフィリピンへ行った頃から、大変不景気になってね。それで家に帰ることばかり考えていた。いくら金を作ったら帰れるか、いつになったら帰れるか、そんなことばかり考えていた。
 不景気になってきていたから、会社で働いている人などは、妻子を先に帰す人もいた。親戚にあたる都屋の阿波根さんは「もう帰る。この子ども達を連れて帰れば、これだけでお土産になるから」って言って帰ったんです。そうこうする間に、主人が麻山を買ってしまってね。山を買わないと、お金は作れないということで。それでまた、なかなか帰れなくなったわけ。
 昭和十年に、長女※※が生まれ、十二年、十六年、十八年と男の子が三人生まれました。日本軍が(フィリピンに)上がって来てからは、主人に余分に仕事(飛行場作りの徴用)が入ってきました。主人が徴用されている間は、子どもを四人全部一人で連れて。当時一番上が八歳で、続いて六歳、二歳、一歳前の赤ちゃんでしたからね。引揚げるときも、主人とは別だったので、私一人で日本まで連れてきました。主人は、引揚者の世話人になってね。それで本人が引揚げてきたのは、私たちよりずっと後でした。
 終戦になって、まず福岡に引揚げたのですがそこで、最初に長男が栄養失調で亡くなりました。日本まで連れて帰ってきてから、福岡で次つぎと四人の子ども達を亡くしてしまいました。みんな栄養失調でした。
 フィリピンへ行ったこと、向こうでのこと、帰ってきてから、こんな話しはきりがないからね。思い出すのもイヤだしね、辛いからね。

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