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3 台湾での戦争体験

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 台湾の産業振興と沖縄

「南洋道問題」を報じた琉球新報
1908年(明治41)11月29日、12月5日、6日、16日、17日、18日
 一九〇二年(明治三十五)の沖縄県の製糖高は四、一〇〇万斤にすぎず、分蜜糖生産のはじまる一九一一年(明治四十四)でも五、七〇〇万斤にすぎない(『沖縄県統計書』より)。すでに台湾は沖縄の基幹産業である糖業をはるかに上回っているが、一九〇二年(明治三十五)に台湾総督府が出した「台湾糖業奨励規則」は、その違いを決定的なものにした。これは日本資本に対する優遇政策ともいえるもので、官有地の無償譲渡や、砂糖キビ苗費、肥料費、灌漑水利費、開墾費、機械器具費などに対する奨励金、砂糖製造の補助金などを含んでいた。
 一方沖縄では、一八九五年(明治二十八)に八重山糖業株式会社が設立されるが、政府の支援が得られず、創業者の中川虎之助は一八九八年(明治三十一)に工場や農場の整理を決め、その後台湾へ進出している。
 一九〇五年(明治三十八)に生産糖の委託販売をおこなう琉球砂糖株式会社が設立され、一九一〇年(明治四十三)に初の本格的製糖工場である沖縄製糖株式会社が創立された。奈良原繁前沖縄県知事(知事在職一八九二〜一九〇五年)が委員長となって設立されたが、沖縄の地元株は皆無であったという。嘉手納工場、西原工場、豊見城工場を所有した同社は間もなく台湾に進出し、一九一二年沖台拓殖株式会社と改称した。沖縄と台湾の合併を画策した「南洋道問題」が浮上してくるのはこのような時期で、一九〇八年(明治四十一)十一月二十九日付「琉球新報」は「台湾直轄論」と題して厳しい調子でこれを批判している。
 当初画策者の意図は、明治政府がもてあましている沖縄県を台湾総督府の直轄にして内地の負担を軽くしようというもので、これに前知事の奈良原繁が賛同したものであったが、後に北の「北海道」に対して南の「南洋道」(台湾と沖縄の合併)新設と形を変え、閣議決定をねらったものだった。これは翌一九〇九年一月には立消えとなっている(『鹿児島新聞』一九〇九年一月十二日付)。
 また一九一六年(大正五)には沖縄製糖株式会社(一九一〇年設立とは別会社)が設立され、高嶺工場、宜野湾工場、今帰仁工場を所有したが、前述した沖台拓殖株式会社とともに一九一七年(大正六)、台湾に本社を置く台南製糖株式会社(一九一三年設立)と合併した。一九一九年(大正八)に設立された宮古製糖株式会社も一九二一年(大正十)に台南製糖株式会社に買収され、沖縄県下の分蜜糖業は台南製糖株式会社が独占した。また台湾に支社を置く大日本製糖株式会社の出資を受けて八重山製糖所(のち八重山産業株式会社)を開設(一九一七年)した東洋製糖株式会社は、一九二七年(昭和二)に大日本製糖株式会社に吸収されて、昭和初期の沖縄県の製糖業はいずれも台湾に本社、支社を置く会社が独占している。
大正頃の嘉手納工場
 昭和初期といえば、渡辺銀行休業に始まる金融恐慌、それに続く昭和恐慌で日本全体が不況にある時期だが、沖縄では一九二〇年(大正九)の糖価暴落に始まる最大の不況にさらに拍車をかけることになり、いわゆる「ソテツ地獄」という状況も現出した。西原文雄編「近代沖縄経済史年表」(『沖縄県史三経済』所収)によれば、一九二九年(昭和四)三月には「師範学校の卒業生百余名が過剰となる」とあり、一九三〇年(昭和五)には「那覇市だけで六千名の失業者を数える」「農村疲弊により、小学校の欠席者や欠食児童増える」「幼女の売買盛んになる」「教員過剰から南洋方面へ進出する者出る」「県下各地で教員の給料不払いが起こる」等とある。この不況により台南製糖株式会社も経営が悪化、一九三〇年(昭和五)には嘉手納工場の労働者二〇〇人が争議を起こし工場閉鎖のうわさも出るなか、一九三二年(昭和七)に県内の製糖部門は沖縄製糖株式会社と社名変更して沖縄本島と宮古島で分蜜糖製造をおこない、台湾での事業は昭和製糖株式会社が引き継いだ。
 日本資本主義の糖業政策が、沖縄から台湾へ移ったことはもはや明らかだった。

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