読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第五節 海外での戦争体験

3 台湾での戦争体験

<-前頁 次頁->

 疲弊する沖縄経済と移民・出稼ぎ

 当時の沖縄の困窮に対して、新城朝功著「瀕死の琉球」(一九二五年)、田村浩著「沖縄経済事情」(一九二五年)、湧上聾人編「沖縄救済論集」(一九二九年)、親泊康永著「沖縄よ起ち上れ」(一九三三年)など数々の沖縄救済論が提起され、糖業に偏重した産業構造の転換、県民の意識改革のための教育の重視などが提起された。これらの救済策と並んで依然として多くの論者が提起していたのが海外移民と出稼ぎの奨励であった。
 沖縄県からの海外移民は一八九九年(明治三十二)の第一回ハワイ移民を嚆矢として、一九〇三年(明治三十六)には第二回ハワイ移民と北米合衆国への移民、一九〇四年(明治三十七)にはメキシコ、フィリピンへ、一九〇五年(明治三十八)ニューカレドニア、一九〇六年(明治三十九)ペルー、一九〇七年(明治四十)カナダ、一九〇八年(明治四十一)ブラジルと続き、沖縄でソテツ地獄が始まる時期とされる一九二〇年(大正九)までにすでに三〇、五〇五人の移民者を数える。その後移民の数は増加をたどり、一九二一年(大正十)から一九三八年(昭和十三)までに四二、二八四人を数える(図1)。



図1 沖縄県の移民数
(安里延『日本南方発展史』三省堂一九四二年より作成)


 この統計には日本の植民地となった台湾、朝鮮、南洋群島(内南洋)への出稼ぎ・移住と一九三八年(昭和十三)から始まる満州への開拓移住は含まれていないから、これらの数値を加えれば後期の移民・出稼ぎ・移住者の数はさらに増大するであろう。『沖縄県史』三巻所収の「慢性的不況と県経済の再編(安仁屋政昭・仲地哲夫)」では、移民と出稼ぎ(本土出稼ぎも含む)によって労働力の県外流出が本格化するのは「大正十一年以降」で、「年平均七千人」にのぼると試算されており、「慢性的不況の中で、県経済の構造をゆるがした最大の要因は、労働力の県外流出であった」と分析している。県外に流出せざるを得ない沖縄の経済事情のなかで安易な移民出稼ぎの奨励がなされることに対して、親泊康永は当時次のように厳しく批判している。
 「沖縄県民の県外移住、外国移民等は、爾来さまざまの政治家が力こぶを入れて宣伝し主張してきたところであるが、若し斯る点に沖縄救済の重点を置いたとするならば、それは甚しく本末を誤った態度だと言はなければならない。しかも在来の為政家は、この移民の奨励以上に県経済の立直しのため嘗てどれだけ努力を払ったであらうか。(途中省略)我々は移民政策のみを重視する為政家の心理に疑問を持つものである。況んや彼等が、沖縄自体の更生策に就き殆んど白紙状態であるのを見るに於てをやである」(「沖縄よ起ち上れ」一九三三年)。
 そしてこのような状況のなかで、植民地台湾をはじめ他の植民地への出稼ぎ、移住、また満州への開拓移住などが増加していった。
 終戦直後、日本の敗戦によってこれらの植民地から多くの人たちが引揚げてきたが、沖縄県外地引揚者協会が作成した「引揚者給付金請求書処理表」(一九五七年制定の法律「引揚者給付金等支給法」による)によれば、沖縄への引揚者の数は七六、〇〇〇人余にのぼる(表1)。これらの人びとの渡航先はかつて日本の植民地であった南洋、台湾が圧倒的に多く、全体の八割を占める(図2)。このうち読谷山村からの移住・出稼ぎ者は一、二七八人で、南洋への移住が全体のほぼ七割を占めている(図3)。そしてこれらの人びとの渡航年月日をみると、沖縄経済がソテツ地獄と呼ばれる不況期に入る一九二二年(大正十一)以降が大部分である(図4)。

表1 昭和32年度(法律第109号)引揚者給付金等支給法に基く受給者数


図2 「引揚者給付金支給法に基づく受給者数」より
資料・「引揚者給付金請求書処理表」(沖縄外地引揚者協会調)より


図3 読谷山村民の移住・出稼ぎ先


図4 読谷山村からの移民

<-前頁 次頁->

読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第五節 海外での戦争体験