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3 台湾での戦争体験

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 台湾への出稼ぎ

 台湾を領有した当初、沖縄からの台湾渡航者は抗日の武装蜂起を鎮圧するための沖縄人巡査や隘勇(当時「生蕃(せいばん)」と呼ばれた台湾の先住民族の一部の人々を山地に囲い込み、監視をする監視員のこと)、兵舎、道路、病院、港湾建設、鉄道敷設に当たる土木人夫、また日本人兵士や民間人の相手をする婦人などであったという(又吉盛清『日本植民地下の台湾と沖縄』一九九〇年参照)。
 一九〇二年(明治三十五)頃になると、「台湾熱」と呼ばれる一種の台湾ブームが起こり、沖縄の政治、経済、産業各界の有力者が台湾視察や研修で渡航した。そして一九一〇年(明治四十三)には「台湾移住の手引」とか「我が日本の宝庫台湾」といった移民募集のキャンペーンがなされるなかで、沖縄県当局も台湾への官営移民の窓口になっている。しかし全国的にみても台湾への官営移民はそれほどの成果をあげていない。沖縄県でも「一九一三年(大正二)になって初めて二戸だけ沖縄人が応募している」(又吉盛清前掲書)状況であった。やがて知識人の間にも台湾への関心が高まり、一九一五年(大正四)には医師の伊江朝貞らにより「台湾会」が結成された。一九二六年(大正十五)の台湾への渡航者は四五、九〇一人で、そのうち二、六六〇人が沖縄県出身者だった(『台湾時報』一九二七年八月発行)。これは東京、大阪に次いで三番目に多い数字である。
 一九〇三年(明治三十六)台湾総督府が出した「戸籍調査令」にもとづいて一九〇五年(明治三十八)に台湾で最初の全面的な人口調査が行なわれたが、台湾の人口は約三〇四万人で、そのうち日本人は約五七、〇〇〇人(一・八九%)だった(伊藤潔前掲書九〇頁)。一九三〇年(昭和五)の国勢調査では、「内地人」人口は二二一、八〇八名(三・三%)に増大し、そのうち沖縄県出身者は七、四四二名であった。これは全国で九番目に多い在台者である(又吉盛清前掲書)。

図5 台湾への移民(読谷山村)


 「引揚者給付金請求書処理表」(沖縄県外地引揚者協会)によれば、読谷山村から台湾へ渡航した人は一一一人にのぼり、うち三四人は後述するように一九四四年(昭和十九)八月の台湾疎開者である(図5)。なお「引揚者給付金請求書処理表」には、家族の代表者の氏名と渡航年月日、引揚年月日が記され、その他の家族構成員(同伴者)についてはただ人数が記されているだけであるから、これで台湾への渡航者の全体像をとらえるには無理がある。統計上は家族構成員全員が同年月日に渡航したようにあるが、実際には台湾での出生者も多く含まれている。「引揚者給付金請求書処理表」を利用する際の問題点をあげると次のようになる。

一 台湾での出生者についての個別の記載はない。
二 台湾での死亡者は含まれないケースが多い。
三 引揚者給付金を請求しなかった人については記載がない。
四 一九四五年以前の台湾からの引揚げ、帰沖等については記載がない。
五 「引揚者給付金等支給法」での海外引揚者の規定により、軍人・軍属は除かれている。

 これまでの追跡調査によってある程度の補足はしてきたが、台湾が当時植民地であったという事情から、外国移民調査等と同列に扱うことは出来ない。
 「引揚者給付金請求書処理表」に記載された、読谷山村からの最初の台湾渡航は一九二二年(大正十一)である。以後大正年間に一四人、昭和元年から昭和十七年までの間に六三人、そして一九四四年(昭和十九)の台湾疎開が三四人となっている。
 渡慶次出身の福地※※は一九二〇年(大正九)頃、二十四歳のときに読谷山村を出て、宮古や八重山の製糖工場で働いた。「私が八歳のとき沖縄は日照り餓死、雨も降らず砂糖キビも青いのは残らず全部枯れてしまった。カズラの下葉を集めて水につけて、それで雑炊にして食べました。読谷の畑は青いのは一つも無かったです。その時からあの蘇鉄というのを食べるようになった」(聞き取り調査)という。彼が読谷山村を出る一九二〇年(大正九)は糖価の暴落で「ソテツ地獄」といわれる不況期が始まる年で、その後宮古・八重山の製糖工場はいずれも台南製糖や東洋製糖に吸収されている。
 職を失い、一緒に八重山に渡った何人かはその後南洋へ行き、彼は一九二四年(大正十三)に台湾に渡った。台湾では「芋はおやつ代わりに食べた。主食としていた沖縄とは比べられなかった」という。台湾に渡ってしばらくして日本政府の鉄道会社に入社、会社の官舎に住んでいた。「最初にいたのは台北で、そこから松山の官舎に移った。官舎は一部落を形成できるほど家があった。その官舎に入りたくても会社の信用がないと入れなかった。家賃は出なかった。官舎に入っていない者は会社から住宅手当として、一〇円あった。手当ては一〇円あったが三円、五円の家を借りている者もいる。その頃の給料(日給)は大工の棟梁が二円、私は一円ぐらい。米一斗一円五〇銭、その時代。購買から買い物をして給料より天引きされたので困らなかった。店で買い物をすると帳面づけされた。購買から毎朝注文取りがきた」という(聞き取り調査)。

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