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3 台湾での戦争体験

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 台湾の皇国化

 一九三六年(昭和十一)の小林総督の就任にはじまる後期の「武官総督」の時期に入ると、それまでの同化政策は一段と戦時色を強め、台湾民衆を組み込んだ総動員体制づくりへと傾斜していく。一九四〇年(昭和十五)には、近衛内閣によって「大政翼賛会」が発足したことに呼応して、台湾総督府は「皇民奉公会」を設立、改姓名の推奨、寺廟の撤去、台湾語の使用禁止などをふくむ「皇民化」政策を次つぎに強行していった。一九四一年(昭和十六)に閣議決定された「南方政策ニ於ケル台湾ノ地位ニ関スル件」は、台湾を「帝国ノ南方ニ於ケル前進基地」として位置づけ、台湾をふくめた南進政策はより具体的なものになっていく。開戦後の一九四二年(昭和十七)九月、大東亜省の設置と拓務省の廃止によって台湾総督府を監督する主務官庁は拓務省から内務省に移され、台湾の「内地化」はより強化された。同年「陸軍特別志願兵」の制度が、一九四三年(昭和十八)には「海軍特別志願兵」制が敷かれ、一七、〇〇〇余人の台湾人が「志願」して前線へと送られた。
 さらに戦局が悪化した一九四四年(昭和十九)には台湾に徴兵令が施行され、二二、〇〇〇余人の台湾人が召集された。第十八代総督の長谷川清が「(台湾は)攻防第一線の戦場となり、ひいては皇国の安危につながる」と危機意識を煽り徴兵制の導入を発表した際、日本の有力報道機関は「台湾は大東亜共栄圏の中心」、「台湾全島はあげてその歓喜と感激の渦に巻きこまれた」と一方的に謳い上げていたという(後藤乾一『近代日本と東アジア』岩波書店一九九五年)。
 当時、本来本籍地で徴兵検査を受けるべきであったが、在台者は現地で徴兵検査を受ける特例があった。座喜味出身の喜友名※※は、一九四〇年(昭和十五)に台湾へ渡り台湾製糖株式会社に入社したが、台湾製糖での研修を終えた一九四二年(昭和十七)に台湾で徴兵検査を受けて入隊している。彼は教育隊として台湾に残されたが、同期で入隊した大部分の人は南方へ送られ戦死した人も多いという(後掲体験記参照)。
 沖縄では一九四四年(昭和十九)三月に南西諸島守備軍として第三十二軍が創設されたばかりで、当初大本営直轄だったが後に台湾軍(第十方面軍)の指揮下に入れられた。米軍の台湾上陸が予想され、台湾軍を補充するために第三十二軍最強といわれた第九師団が十二月には台湾へ移転配備された。しかし、第三十二軍から抜けた穴を埋める補充はついになかった。

 
歴代台湾総督
歴代台湾軍司令官
代数
就任年次
氏名
代数
氏名
就任年次
武官総督
第1代
1895.5.10
樺山資紀
1
明石元次郎
1919年8月
第2代
1896.6.2
桂太郎
2
柴五郎
1919年11月
第3代
1896.10.14
乃木希典
3
福田雅太郎
1921年5月
第4代
1898.2.26
児玉源太郎
4
鈴木荘六
1923年8月
第5代
1906.4.11
佐久間佐馬太
5
菅野尚一
1924年8月
第6代
1915.5.1
安東貞美
6
田中国重
1926年7月
第7代
1918.6.6
明石元二郎
7
菱刈隆
1928年8月
文官総督
第8代
1919.10.29
田健治郎
8
渡辺錠太郎
1930年6月
第9代
1923.9.6
内田嘉吉
9
真崎甚三郎
1931年8月
第10代
1924.9.1
伊沢多喜男
10
阿部信行
1932年1月
第11代
1926.7.16
上山満之進
11
松井石根
1933年8月
第12代
1928.6.19
川村竹治
12
寺内寿一
1934年8月
第13代
1929.7.30
石塚英蔵
13
柳川平助
1935年12月
第14代
1931.1.16
太田政弘
14
畑俊六
1936年8月
第15代
1932.3.2
南弘
15
古荘幹郎
1937年8月
第16代
1932.5.27
中川健蔵
16
児玉友雄
1938年9月
武官総督
第17代
1936.9.2
小林躋造
17
牛島実常
1939年12月
第18代
1940.11.27
長谷川清
18
本間雅晴
1940年12月
第19代
1944.12.30
安藤利吉
19
安藤利吉
1942年4月

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