読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第五節 海外での戦争体験

3 台湾での戦争体験

<-前頁 次頁->

 台湾への疎開

沖縄県からの台湾渡航者
 一九四四年七月にサイパン島の日本軍が玉砕し、台湾は米英軍の次の上陸地とも予想されるなかで、七月七日に南西諸島の老幼婦女子・学童の集団疎開が閣議で緊急決定された。計画では本土へ八万人、台湾へ二万人の計一〇万人の疎開命令であったが、実際には本土に約六万五千人、台湾には約一万四千人が疎開したといわれている。台湾への疎開は宮古・八重山の人たちが多かったという。前掲「引揚者給付金請求書処理表」では沖縄県から台湾へ渡航した人たちの総数は二五、六二七人であり、そのうち出身地別に見ると宮古・八重山が圧倒的に多く一七、八四七人で全体の七〇%を占めている(図6)。
 読谷山村からは、波平出身の七家族、三七人が台湾に疎開したことが追跡調査から明らかになった。当時キリスト教伝道師をしていた上原※※の勧めもあったという。「引揚者給付金請求書処理表」の数字と違いがあるのは、台湾での死亡者が含まれていないためである。そのうちの一人金城※※(旧姓※※)は、疎開先の明治製糖株式会社の倶楽部で家族全員をマラリアで亡くした。一九四四年八月末頃那覇を出発して、途中米軍の潜水艦攻撃を避けながら一週間ほどかけて台湾・基隆へ到着している(後掲上原※※体験記参照)。金城※※は「船で台湾に行く途中で魚雷にもあったんですよ。ちょうど、本土に向かっている対馬丸が沈没した頃だったと思います。ここに魚雷が向かっていると聞いて、上原さんというおばあさん(上原※※・嘉永三年五月十八日生)がみんなを集めて、『死ぬも生きるも一緒だから、みんな集まってお祈りしよう』と言って船の中でお祈りしたのを覚えています」という(聞き取り調査)。
 一度那覇に引き返して再び基隆へ渡ったケースもあった。当時那覇へ嫁いでいた波平出身の照屋※※は、波平からの疎開者たちとは別の船で出発したが、「生後四〇日の子どもと姑と私だったのでたいへんでした。台湾まで一週間かかった。貨物船で出発して、三日したら危ないということでまた那覇に引き返したのよ。それからまた別の船に乗り換えて。荷物は最初の船に乗ったままだからどこにいったかわからない。とにかく何回も魚雷攻撃があってすぐ『甲板に集合!』でした。もう何のために疎開するのかなっていうぐらいでね。浮き袋も持たされるけど、子どもは生まれたばかりだし、何もかも捨てて子どもだけ抱いて飛び込まないといけないから。さすがに飛び込んだことはないけど。今みたいな客船じゃないから、床に寝かしてある子どもも荷物も船のなかで流れてしまってね」という(聞き取り調査)。
 台湾へ疎開した人たちは、台湾総督府が割り当てた学校や民間住宅、公会堂などで避難生活を続けることになるが、戦火がはげしくなると農村部へ転住する人たちもいた。前述の照屋※※は、「基隆に着くとおにぎりひとつずつ配られてね、ものすごく惨めだった。それから私たちは桃園に行ったの。新竹の八塊州というところでした。そこに集会場があって、床の無い土間に竹で作ったにわかベッドを並べてね。一班一〇〇人くらいだったと思うけど、一班が糸満の人たち、二班が那覇、三班が宮古・八重山だったと思う。班ごとに大きな宿舎にベッドをずらっと並べて寝るのよ。寝るところ以外に座るスペースなんてなくて、ベッドとベッドの間は荷物を壁にして区切るだけでした。台所は共同でしたが食事もベッドに座って作ることが多かった。みんなマラリアにかかってね。米は配給があったけど、少ししかなかったので、船を乗り換えた時に紛失していた荷物が一か月半したら戻ってきていたから、その着物を芋と換えて生活していたのよ。保護ということで、国からお金も支給されたけど一か月ももたなかったから、子どもを姑にあずけて台湾人の農家に日雇いに出た」という。
 波平からの疎開者三七人は、中頭郡から行った人たちと一緒に台中州南投郡にある明治製糖株式会社の倶楽部で疎開生活を始める。総勢一〇〇人ぐらいの共同生活であった。金城※※は「基隆で何日か泊まって、そこから南投に着くまでに何日かかかったと思います。台中公会堂でも二、三日泊まりましたし、あっちこっちで泊まりました。船で一緒だった人たちは南投に行くまでみんな一緒でした。そして明治製糖株式会社の倶楽部に入りました。そこでは一年余りみんな一緒に暮らしました。ベッドなどないので荷物で区切りをしていました。今の体育館みたいなところでした」。また「明糖倶楽部では、みんなウヮーグヮーニンジー(雑魚寝)だったので、みんなマラリアに罹ってしまって、元気な人は何人かでしたよ」という(聞き取り調査)。
 台湾では、一九四四年の沖縄での「十・十空襲」後に台湾沖航空戦(十月十二日から始まる)があり、米軍の空襲は激しさを増した。この時は台南の飛行場などが破壊されたが、当時台湾で兵役についていた喜友名※※は「台南の飛行場のガソリンタンクはみんなやられて、ボンボン燃えて使いものにならなくなった。その後からはもうB29の空襲があって、台北、台中、台南、嘉義、高雄と大都市からだんだん中都市へ順序よく攻撃されていきました。朝の十時ごろになったらいつも飛んで来て爆弾を落としていくので、『定期便』と呼んでいました。空襲はそんなに長くは続かず、一時間くらいしたらまたグアム島の方面へ去っていきました」(後掲体験記参照)。
 台北空襲では台湾人居住区は外され日本人街が攻撃された。この攻撃の仕方は、高雄、台南、台中でも同じように、日本軍の軍需工場、軍港、港湾などの軍事施設と日本人居住街が集中的に目標にされた。

<-前頁 次頁->

読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第五節 海外での戦争体験