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3 台湾での戦争体験

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 台湾からの引揚げ

 終戦当時の在台湾の日本人は、軍人一六万六〇〇〇余人を含めて、およそ四八万八〇〇〇余人であった。そのうち沖縄県人は、軍人・軍属、台湾疎開者の一万四〇〇〇人や敗戦により南方から引揚げてきた人も加えると約三万人にのぼるといわれる。
 一九四五年(昭和二十)十二月に日本軍人を先頭に日本への引揚げが始まった。一般人は日本本土の混乱と食糧難、台湾の生活になじんでいること、敗戦とはいえほとんど台湾人からの報復がなかったことなどから、約二〇万人が台湾にとどまることを希望したというが、台湾を接収した国民党政権は大量の日本人の残留を許さず、一九四六年(昭和二十一)四月までに、一部の「留用者」を除いてほぼ全員が日本本土へ引揚げた(後掲資料「台湾引揚げ記録」参照)。日本本土への送還業務がほぼ完了する四月十三日に、最後の台湾総督で台湾軍司令官でもあった安藤利吉が戦犯として逮捕され、移送先の上海で自殺した。
 その後の帰還業務にあたったのは「琉球官兵」と呼ばれた沖縄出身兵たちだった。大隊長永山※※(大尉)、総務科長知花※※(大尉)以下約二〇〇〇人の、当時としては在台唯一の「日本軍」であったという。実質的に副隊長として帰還業務を指揮した知花※※(後読谷村長)は次のように書いている。
 「沖縄への復員帰還のため、軍命令によって基隆に集結(約二千人)したのでありますが、沖縄本島を占領した米国軍政府からの入国許可が得られないために、基隆に滞在しました。(途中略)ところが、数十万人にも及ぶ邦人の計画輸送がほぼ完了した昭和二十一年四月末になっても、米国軍政府からの沖縄籍軍人の沖縄本島への帰還の許可が得られず(その間に宮古・八重山及び日本内地に帰還した県出身軍人、軍属も多かった)帰るに帰れない沖縄籍軍人は、基隆乗船地からやむなく、台北の旧台湾総督府庁舎に移動、その時から、中国台湾省警備総司令部の区処を受けることになり、同司令部の訓令によって、琉球籍官兵集訓大隊(大隊長永山※※)と呼称され、略して 〔琉球官兵〕 と呼ばれるようになったのであります」(台湾引揚記刊行期成会『琉球官兵顛末記』一九八六年刊一頁)。

昭和20年10月27日、台湾・大隊本部にて撮影 前列右提供者上地※※氏(儀間)
 米国軍政府から沖縄本島への帰還許可が得られない在台沖縄県出身者(「琉僑」)は、五月には台湾各地から旧台湾総督府跡に設置された「台北集中営」に続々と集まってきた。五月十六日に高雄集結隊の九〇〇人、次いで台南の三〇〇人、台中六〇〇人、別に基隆港岸壁倉庫には新竹、台東、花蓮港から四〇〇人が集結し合計二、二〇〇人であったという。また高雄隊は南洋群島からの引揚者が多く、着のみ着のままの気の毒な人達だった(前掲書参照)。
 一九四六年(昭和二十一)十月に沖縄への帰還が許可され、昭和二十一年十月二十四日からいよいよ沖縄県出身者(「僑民隊」)の引揚げが開始された。アメリカの上陸用舟艇LST二隻を使用し、毎回一二〇〇人から一三〇〇人ずつ運び、十二月二十日第九回の「僑民隊」の引揚げで完了した。そして、一九四六年(昭和二十一)十二月二十六日、「台湾最後の日本軍」といわれた沖縄出身兵が沖縄県中城村久場崎に到着したことで、台湾からの沖縄県人の引揚げは終了した。

資料・
「台湾引揚げ記録」(台湾引揚記刊行期成会『琉球官兵顛末記』一九八六年巻末資料「琉球官兵のあゆみ」より作成)

(昭和二十年)
八月十五日
終戦、在台日本人は五〇万人
十月十七日
国府軍二個師団、基隆上陸
十二月中旬
在台沖縄県民連合会を結成
十二月二十五日
日本軍人を先頭に日本引揚げ始まる
十二月二十六日
沖縄帰還希望軍人(第九師団を除く)、基隆に集結
十二月二十八日
第九師団の沖縄帰還希望者、新竹州・三洽水に集結(約五〇〇名)
    
(昭和二十一年)
一月四日
台湾各地の沖縄兵及び軍属(約一、二〇〇人)、基隆市双葉国民学校に集結、基隆市の戦災復興作業に従事。後日、瀧川国民学校に移駐
四月四日
日僑の第一次引揚げ者三〇万人に達する
四月上旬
沖縄先島への帰還希望者を送還
四月二十九日
在台邦人の送還業務終了、沖縄帰還希望者二万余人が残る
五月中旬
南洋からの引揚者を集中営に収容
五月十六日
琉球僑民隊(琉僑)の高雄隊(九〇〇名)、台南隊(三〇〇名)、台中隊(六〇〇名)を台北集中営に収容
十月五日
第二回日僑送還開始
十月十九日
第一次日僑送還
十月十九日
沖縄への帰還許可が出る
十月二十四日
第一次琉僑送還一、二一八名(LSTQO七十八号)
十月三十一日
第二次琉僑送還一、三八二名(LSTQO七十八号)
十一月八日
第三次琉僑送還一、一九九名(LSTQO七十八号)
十一月
第四次琉僑送還(LSTQO七十九号)
十一月二十三日
第二次日僑送還二〇〇〇名
十一月二十四日
第五次琉僑送還(LSTQO七十八号)
十一月三十日
第六次琉僑送還(LSTQO七十八号)
十二月一日
第七次琉僑送還(LSTQO七十九号)
十二月一日
第八次琉僑送還(LSTQO七十八号)
十二月
第三次・四次・五次日僑送還(LSTQO七十九号)
十二月
第九次琉僑送還
十二月二十四日
琉球官兵残留隊を乗せた駆逐艦「宵月」基隆港を出港
十二月二十五日
駆逐艦「宵月」沖縄着、クリスマスのため中城湾に停泊一泊
十二月二十六日
久場崎に上陸、インヌミヤードゥイで一泊、翌日解散

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