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3 台湾での戦争体験
体験記

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 ○台湾で生まれて

 山内※※(旧姓※※ 昭和十年生)

 台湾で出生

 父は大正九年ごろ読谷山村から八重山へ渡り、宮古や八重山の製糖会社で働いていました。その製糖会社が事業停止になったりしたものだから、大正十三年ごろ八重山から台湾に渡ったと聞いています。母は首里の生まれですが、母の姉が台湾に呼んだようです。台湾で、沖縄で言うと「ジョーシチャー」ということになるのですが、時計屋さんのお手伝いをやっていたようです。多分その時計屋さんも日本人だったんじゃないでしょうか。
 両親が台湾で結婚して、昭和十年に私が生まれました。私が生まれる頃までは、父は台北で瓶を作る工場の仕事をしたり、屋台でところてんを売ったりして生計を立てていたようです。その後松山にある鉄道工場に就職が決まり、私たちも松山にある鉄道工場の社宅に移りました。私の下の兄弟は全員そこで生まれています。
 鉄道工場の社宅は大きな一軒家で、一部落を形成できるほどたくさんの社宅が建っていました。鉄道工場には日本人がたくさんいましたので、隣近所も全部本土の人でした。家賃は出なかったし、会社の購買からは毎朝注文取りが来ました。家にはお雛さまのセットもあったんです。父が休みのときには動物園に連れて行ってくれたり、温泉に行ったり。たまには基隆の海水浴場にも行きました。圓山(まるやま)というところに温泉があって、動物園は台北にも松山にもありましたけど、一番圓山公園に行くのが楽しみでした。
 鉄道工場には台湾人もいました。父の友達で、鉄道工場で働いていた人かはわかりませんが、庭に池のある大きな家を持っている台湾人がいて、そこにすっぽん釣りに連れて行ってもらったり、家に入って台湾饅頭をもらったりしました。
昭和17年頃、台湾・松山国民学校の入学式。後ろに日の丸が見える。前列左から7番目が※※さん(山内※※さん提供)
 昭和十七年ごろ、私が七歳のときに台北にある松山国民学校に入学しました。これは日本人学校でしたが、台湾のお金持ちの子どもたちもこの日本人学校に通っていました。医者の子どもとか教師の子どもが多かったです。みんな日本語を使っていましたが、ここの学校に来ていない台湾の子どもたちとは会話ができませんでした。
 松山国民学校の先生は全員本土の人で、沖縄の先生は一人もいなかったように思います。担任の井上先生が学校の宿舎にいて、先生が兵隊に行く前の日に、母が作ってくれたご馳走を持って行き、お別れをしたことをおぼえています。先生が「僕の写真をあげようね、大切に持っていてね」と写真をくれました。小学校四年生になるころまで通いましたが、そのうち戦争が激しくなってもう学校へは行けなくなりました。
 昭和十八年ごろから自分の庭に防空壕が用意されるようになって、お隣同士何軒かで共同で使用していました。翌年弟が生まれたのはその防空壕に避難するようになってからでした。官舎は庭が広くて鶏もたくさん養っていましたから、卵なんか買う必要なかったし、戦争がひどくなるとその鶏をつぶして食べました。ちょうど弟が生まれて、ご飯を炊くのは私の役割でした。空襲警報のサイレンが鳴ると母は赤ちゃんと上の子を連れて、私は水をかけて火を消してから一人で防空壕に走っていくという状態でした。

 沖縄からの疎開者

 十九年の九月に沖縄からの疎開者がきました。船から降りて自分たちの住む所を探しているようでした。ちょうど庭先で私たちが夕涼みをしているところにやってきて、今沖縄から来たと言いました。父が私たちも沖縄だよと答えると、家を探して歩いているということでした。伊江島の人でした。
 沖縄からの疎開者が来るようになった頃から、台湾での生活もだんだん厳しくなっていったんです。その頃までは沖縄からの疎開者が来るのを見ても、自分たちは贅沢な生活をしているものだから、なぜだろうという感じしか持てませんでした。沖縄の人たちがなぜこうして来ないといけないのだろうと。自分もやはり子どもの沙汰だから、父がこれも食べてあれも食べてとすすめるのを見て、沖縄は何もない状態だったからそう言っているんじゃないかなと思いました。
 そのうち父がいた工場に爆弾が落ちて、何人か亡くなりました。その時に自分たちの父も帰ってこないのかと思いましたが、空襲警報が終わって帰ってきた父を見てすがりつきました。それから父は工場へは行きませんでした。その後からは台湾人と物々交換をするために着物なんかを持って、父と高雄の方に行きました。空襲警報が鳴るたびに汽車から降りたり、また乗ったりして高雄まで行きました。買出しの途中でも空襲警報が鳴ったらそこらへんにある防空壕に避難しました。一度は防空壕に避難していたら兵隊さんが来て、「ここは兵隊の防空壕だから今すぐ出なさい」と言われて出されたことがあります。父は「今空襲警報が鳴っているから解除になってから出してください、こんな小さい子を連れているから」と一生懸命頼んでいました。弾がバンバン落ちるなかを出されて、それから空き家の軒下に入ったり、カシガー(麻袋:ドンゴロス)を作る工場にかくれたりしました。そこから石油工場に爆弾が落ちるのが見えました。私は「神様助けてください」とお祈りするのに精一杯でしたが、それが爆弾を見た最後でした。
 松山にいたときは、どんなに空襲警報が鳴っても実際に弾が投下されるのを見たことはなく、防空壕に入ればいいという感じでした。買出しに行って初めて爆弾攻撃というのを経験しました。当時空襲は煙突をめがけてくると言われていました。私たちの社宅は宿舎でも一番前のほうで、すぐ前には香水工場があって、周りには鉄道工場の煙突がたくさん立っていますから、早く避難しようと後ろの山に移りました。

 山へ避難

 裏の山に避難してからは、仮小屋というより、岩と岩の間にトタンをかけて雨露をしのぐ、そんな生活でした。だから岩のむこう側にはヘビもいるというような状態でした。山に避難してからは学校にも行っていませんし、買出しにも行けない状態でした。
 戦争が終わるまで山にいましたから、裏の山での生活は半年かそれ以上続いたと思います。戦争が終わると、また下の自分の家に戻ってきました。
 山に避難しているときに兵隊の真栄城さんという人と知り合いました。父は毎日出かけていったんは官舎に戻っていましたから、私は父を迎えに山を降りて、また父と一緒に山に戻るのが日課でした。父と一緒に山に帰る途中、三人の兵隊さんが田んぼの道の傍に座っていました。お酒のビンを持っていたので父に言われて「兵隊さんお酒飲みますか」と聞いたところ、「少し飲ませてください」ということで飯盒のふたに少しついであげ、それから持っていたビンごとあげました。それがきっかけで私たちが避難しているところへ訪ねてきてくれるようになり、軍隊の夕飯の残り物などを夜持ってきてくれました。休みの時には、山でヘビを取ってきて皮をむいて、きれいに焼き粉にして「ご飯の友」(ふりかけ)を作ってくれたりしました。
昭和13年頃台湾にて、那覇市泊出身桑江※※さん出征記念写真。 桑江さんは戦死。左端が※※さんと父・※※さん(山内※※さん提供)
 真栄城さんは那覇の人だということだけは聞いていました。戦争が終わるまで一緒でしたが、戦争が終わると私たちより先に引揚げました。いったん本土へ引揚げてから沖縄へ戻るのだということでした。また沖縄で会えたら会いましょうと父に言っていたのを覚えていますが、それが最後になりました。
 戦争が終わると、本土の人たちは沖縄の人より先に引揚げが始まりましたから、私たちは最後まで残されました。本土の人たちがいなくなると、お隣全部に台湾人が入ってきたという感じでした。松山国民学校とは別に、残っている日本人のためだけの学校も用意されましたが、そこに行くようになってからは台湾人たちにいじめられてとにかく大変でした。日本人は四等国民だということで、日本人を特にいじめていました。だから私たちは、夜が明けないうちに親が交代交代で付いて学校に行っていました。ちょうど集団登校みたいな感じです。でも結局怖いから休みがちになりました。
 私たちは松山国民学校に行っている頃は沖縄人だとは言わずに、日本人だと言っていました。戦争が終わって、台湾人が私たち台湾人だよと言ったから、私たちは沖縄人だよと答えました。すると「台湾、沖縄、友達」と言って、それから私たちに対するいじめはなかったです。同じ隣近所でも日本人はやはりいじめられました。
 そのうち中国の兵隊がやってきました。私はカサと覚えていたんですが、鉄砲だったんですかね、背中に背負って、そして台湾人をすごくいじめていました。戦争が終わってから、母は私たちをあまり家から出さなくなりました。母が買い物に行くときには玄関に鍵をかけておくように言われていました。一度母に連れられて外に出たとき、台湾人がちょっとでも中国の人に触れたりすると、靴で蹴られたりしているのを見ました。

 台湾からの引揚げ

 終戦で台湾から引揚げたのは私が十二歳のときでした。裏山の避難先からいったん家に戻って、それから総督府庁舎に移ったんです。
 本土の人たちが引揚げの準備をしていて、父が何度も手続きに行っていると聞いていましたから、沖縄はいつだろうと思っていました。でも、最初はなんでこっちから出て行くのかなと思いました。家を出て総督府庁舎に行くと、そこもだいぶ破壊されていました。
 総督府庁舎の近くにはお寺がたくさんありました。総督府庁舎でたくさん人が亡くなっているものですから、幽霊が出ると何度も聞かされました。小さい子どもだったらランドセルを背負った幽霊が出るとか。それでそこでの生活は耐え切れなかったんです。周辺はきれいにされていない、壊れたままの状態でしたから。
 食事は自分で炊かないで、総督府で配っているみたいでした。そこでの生活はドアもなくみんなごろ寝です。それがいやで、「いつ家に帰るの」と言って父を困らせていました。
 船が出るまで一週間くらいそこにいたと思います。沖縄の人たちはみんな船待ちでそこに入っていました。貯めたお金も一人でいくらという制限があって、全部持っていくことはできず、父が女性だけの家族連れなどに分けていたのを覚えています。引揚げは私たちが最後でした。

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