台湾で入隊
研究所に入ってしばらくすると太平洋戦争勃発の報道があり、ああとうとう始まったなと思いました。それが昭和十六年十二月八日、十時頃でした。それからは防空演習が当番制であり、また会社の仲間や年寄り、子どもも一緒になって夜警をしたりするようになりました。
翌年の昭和十七年には台湾で徴兵検査があり、私は検査を受けて台湾で現地入隊しました。検査を受けてから入隊するまでに一年くらいの余裕がありましたから、昭和十八年三月頃まで台湾製糖株式会社の研究所で勤務して、四月に入隊しました。
入隊は、台南の四部隊第一中隊に配属されて、兵舎での兵営生活が始まりました。もう朝から晩まで軍隊生活です。食料はちゃんとあったし月給も少しずつありましたが、やはり軍隊は厳しいところで、隣の中隊では毎日パチナイパチナイ竹刀で殴られる音が聞こえていました。兵隊は鹿児島からも各地からもだいぶ来ていました。
この後私は台北の教育隊に配属になりましたが、私と同期に入隊した人の多くは、一期の検閲が終わるとすぐに南方へ派遣されました。私がいた第一中隊は南方のチモールに派遣され、向こうにいた部隊と交代するために港に入ったとたん、船を空襲されて大部分が戦死したと聞きました。私も教育隊に残されなければ南方へ行かされていたかもしれません。後になって沖縄から武部隊が来たのは、台湾軍があちこちに分散してからでした。
十八年の末頃に教育隊からまた台南の第一中隊に戻されました。もうその頃は負けそうでだんだん押されてきていたように思います。戦車をくい止めるための陣地構築が始まっており、海岸線の砂浜に戦車を落とすための穴を掘ったりしていました。溝を作って、引っかかって上がれないようにするために木も埋めたりしていましたが、中学生や高校生も奉仕作業で手伝っており、もう学校で勉強もできない時期になっていたと思います。
それから今度は台南のもっと南に派遣されました。高雄よりももっと南の東港というところです。海岸線が沖縄の地形と似ていて、海が遠浅で上陸しやすいので米軍はここから上陸するだろうという想定でした。私たちはその斬り込み隊に編入され「振武隊」と呼ばれていました。スパイ対策から部隊の名前は何度も変わりましたが、最後の名前が振武隊でした。台湾の高砂族の人たちも徴用で連れて来られて、斬り込み隊に編成されていました。「高砂族義勇軍」と呼ばれた彼らは、東港の山手の谷底にあるガヤブチヤーグヮー(茅葺小屋)の兵舎に居て、戦車をつぶす訓練をさせられていました。座布団みたいなものにダイナマイトをつめて、戦車に投げて爆発させるという訓練です。私たちはチャイナ服(中国服)みたいなものを着けて髪も伸ばし、台湾の民間人に見えるよう偽装していました。
訓練はいつも夜で、武器は拳銃を隠し持っていますが、山の奥から目標地点まで行く訓練、水の中を泳いで向こう岸へ渡る訓練などでした。結局米軍はこちらには上陸しないで沖縄に行ってしまいました。
高砂族は体の大きい人ばかりを選んで連れて来ていました。座布団投げの訓練なんかさせても食事が足りなくて、「芋掘りに行かせて下さい」と言っていました。「ああ、行ってこい」と許可が出ると、民間人の畑に行って袋の一杯に芋を担いで来て飯ごうで炊いて食べていました。山の中の川があるところにはカニも多くて、バケツのいっぱい取ってきて炊いて食べました。それから山には小鳥もたくさんいて、演習用の狭窄実砲で鳥を撃ってきては焼き鳥にして食べたりしました。夜は一緒に酒も飲みました。高砂族はワナを作るのが上手くて、鳥が水を飲みに来たところをねらって足を縛るようなワナをしかけておくんです。水を飲みに来た鳥は必ずそのワナにかかるんですよ。そして僕らは焼き鳥を食べるわけです。だから彼らのお陰であまりひもじい思いはしませんでした。
米軍の潜水艦がどこを通ったとか、上陸がいつ頃になるとかという情報はよく入ってきました。召集をかけたり準備したりして上陸を待っていたんです。それがだんだん北の方へ行ってこっちには上陸しそうにない、沖縄に向かったというようになり、その二、三日後に沖縄に上陸したという情報が入りました。沖縄の読谷に上陸するためにこっちからいなくなったんですね。
台湾からはそれたけど、沖縄に米軍が上陸したと聞いて、もう沖縄は全滅したかと思いました。終戦になってからはもうまったく情報が入らなくなって、沖縄がどうなっているかわからないまま、終戦の一週間後に部隊は解散しました。
空襲と南方派遣
沖縄で十・十空襲があった昭和十九年十月十日の後に台湾でも大きな空中戦があり、私は台南にある弾薬庫の衛兵をしながらこの空中戦を見ました。かなり近くの方で空中戦をやっていて、日本軍の飛行機にパッと火がついたと思ったらポロポロと落ちていき、そこから飛んでくる薬きょうが私のそばの弾薬庫の金網や鉄格子にパチパチと当たっていました。それから台南の飛行場のガソリンタンクはみんなやられて、ボンボン燃えて使いものにならなくなりました。その後からはB29の空襲があって、台北、台中、台南、嘉義、高雄と大都市からだんだん中都市へ順序よく攻撃されていきました。朝の十時頃になったらいつも飛んで来て爆弾を落としていくので、「定期便」と呼んでいました。空襲はそんなに長くは続かず、一時間くらいしたらまたグアム島の方面へ去っていきました。当時台湾には沖縄の人、他県の人はかなりいましたが、私は南部の方面しか知りません。
台湾製糖株式会社は、昭和十七年くらいからスマトラ、ジャワ、東ティモールへ進出して、日本が接収した製糖工場に職員をどんどん派遣しており、製糖工場の数だけでも四〇か所余にのぼっていました。私たちの望みも、将来はスマトラやジャワへ行って仕事をすることで、当時は優秀な職員が派遣されていました。二年間くらいは実際に多くの人が派遣されていましたが、それも終戦になったらすべて崩れました。派遣された人たちは派遣先で終戦を迎えて、そこから日本に引揚げています。私の叔父も、妻や子ども達を台湾に残してジャワに派遣されていました。そしてジャワから日本に引揚げています。
台湾では、終戦を迎えても沖縄への引揚げができなくて、また元の台湾製糖株式会社へ留用というかたちで戻され、一年余り研究所に勤務していました。持っていた写真などは、兵隊に行っていた間は台湾にいた叔母に預けていました。終戦になって引き取って、また会社の独身寮に持ち帰って、そして引揚げるときに持って帰ってきました。植物の本なども結構ありました。
中国軍の上陸
終戦後しばらくすると大陸から蒋介石軍が上陸してきました。台湾の住民は、「祖国万歳、祖国復帰」と赤い紙に書いてあっちこっちに貼っていました。そして街の入口などいたるところにガジマル等の枝で歓迎門を作って飾っていました。中心市街地だけでなく周辺集落地でも飾っていました。
蒋介石軍は基隆に上陸すると同時に、靴も鉄砲も銃剣も服装も接収した日本軍のものを支給されていました。最初はどんな優秀な兵士たちかと思っていたら、傘を持っている人もいるし裸足の人もいる。初めは祖国の軍隊を歓迎していた台湾の住民も、中国軍兵士を見るとあきれていました。
そのうち台湾製糖株式会社も中国から来た人たちが占領するようになり、中国から連れてきた身内をいい地位につけていました。所長も社長も中国から来た人たちの身内に代わり、台湾の人たちは台北の帝国大学を出ていても中国から来た何も知らないような人たちの部下に配属されたから、次第に憤慨して反発するようになっていました。中国軍が来て半年後くらいにはやっぱり日本時代がよかったとかいう声も聞こえるようになりましたが、初めのころは日本人に対する反感は相当ありました。
私たちは台湾の人たちとの接触も多く、戦争が終わってからも歓迎されました。飲みに行こうと誘われることも多く、その当時日本人は街も歩けなかったくらいだから、夜出歩くことはできないので迷っていると、台湾の人と一緒だったら大丈夫だろうと連れて行かれました。仲間といっしょにカフェーに行って飲んだこともあり、台湾の人たちにはよくしてもらいました。
台湾からの引揚げ
台湾から引揚げることができたのは終戦から一年後の昭和二十一年十二月一日でした。引揚げが決まると、屏東から汽車に乗って基隆まで行き、基隆の岸壁に建っている倉庫で一週間寝泊まりをして船を待ちました。たくさんの沖縄への引揚者とともにLST二隻に乗り込みました。LSTは、米軍の戦車を乗せる大きな船で、前の口が開いて、そこから乗船しました。乗船前にはDDTという消毒薬を頭からかけられ、二日がかりで沖縄に直行でした。民間では私たちが最後だったように思います。十二月三日に久場崎に着いて、一週間その収容所にいました。沖縄はすべて玉砕したと聞いていたので、たくさんの人がいることにはびっくりしました。アメリカのヨーガー帽子をかぶってジープを乗り回しているウチナーンチュもいて、最初はハワイから来た外国人かと思いました。
久場崎の収容所にいる間に、国頭に疎開した家族や親戚を名簿でさがしました。国頭の与那に父親の名前が一人だけ載っているのを見つけ、ああ一人ぼっちになっているなと思いましたが、向こうへは車もなくて行くことができません。そして読谷行きのトラックがあったので、自分の生まれ島に行って野宿でもするさという思いでそのトラックに乗り込みました。読谷の地形はすべて変わっていて、どこをどう走っているのかまったく見当がつきませんでした。比謝矼の橋も違っているし、アマカービラはすっかりその様子を変えており、大湾はこの辺かと思っているうちに多幸山まで来ていました。引き返してどうにか波平まで来ると、アガリジョーにガジマルがあって、そこまで来たらすぐにわかりました。役場のあったウフグスクの前で車を降りると、私の家族がそこに立っていました。六年ぶりくらいの再会でしたが、家族のうち三人は疎開先の国頭で亡くなっていました。
付記
終戦後、台湾製糖株式会社の研究所にふたたび戻されたときに、私たち独身の仲間が集まって「バルサ会」をつくりました。独身寮のそばに大きなバルサという木があって、とても強い木だからということでバルサ会と名づけたのです。沖縄出身者は私一人でしたが、バルサ会は今でも集まりがあり、沖縄に戻ってからもバルサ会の仲間で台湾旅行に出かけたりもしました。また台湾には当時研究所でガラスビン洗いをしていた子どもたちが大勢いました。今は六十歳代になっており、台湾へ行ったときにはたいへんな歓迎を受けました。
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