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3 台湾での戦争体験
体験記

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 ○昭和十九年台湾疎開

 上原※※(昭和八年生)

 台湾への疎開

 台湾に疎開したのは昭和十九年の八月で、当時私は十一歳でした。長男だから生きていなければならないということで引っ張られて行きましたので、弟たちは行っていません。台湾に行ったのは祖母の上原※※、※※のお母さんで私の曾おばあちゃんである上原※※に、私の三人でした。
 上原※※は当時伝道師で、村内の伝道所でキリスト教の集会等を開いていました。今度の戦争は大きくなると言っていましたから、彼女が行こうとはっきり言ったのかはわかりませんが、そこに集まっている人たちに呼びかけて一緒に台湾へ行ったのではないかと思います。波平からたくさん行きました。大体キリスト教の信仰をもった人たちでした。戦後帰ってきてから上原※※は正式な牧師となり、美里教会とコザ教会を作っています。
 上原※※は、昭和二十年一月十日に台湾台中州南投郡にあった明治製糖の社宅である倶楽部でマラリアで亡くなりました。当時九十五歳でした。
 当時は疎開ということで、船で那覇を出港しました。那覇の方言でトゥンドー(通堂)の近くにある旅館に集合し、そこで一泊して、翌日港から小さな船で出て沖合に泊まっている大きな船に乗船しました。
 越来の高江洲※※先生が奥さんの※※を見送りにいらしていたのを覚えています。高江洲※※は戦後、『未来への扉・沖縄戦の証言』(日本キリスト教団コザ教会発行)という本の中で当時のことを書いています。
 途中、米軍潜水艦からの魚雷攻撃があるというのでみんな避難の準備をして、夜になるといつでも飛び込めるように用意していました。魚雷発射の音は実際に聞こえました。船は敵潜水艦による攻撃を恐れ、蛇行を繰り返したので基隆に着くのに一週間くらいかかりました。
 基隆では、全員一緒にキリスト教の教会に泊まったり学校の講堂に泊まったりして、九月には台中州南投郡にある明治製糖株式会社の倶楽部に落ち着きました。「明糖倶楽部」と呼んでいました。波平から行った人たちと、中頭郡から行った人たちはみんな一緒でした。中頭地区の責任者は安里※※さんで、読谷、越来、与那城村の人たちみんなから親しまれていました。この他に宮古や八重山からも台湾に疎開して来ていましたが、この人たちは別のところでした。

 明糖倶楽部での生活

 昭和十九年九月から明治製糖株式会社の倶楽部で疎開者の集団生活が始まったのですが、波平から行った人たち約四〇人と、それ以外にもいましたので一〇〇人くらいの人たちが一緒に共同生活をしていました。内地の渡辺という人がそこの係でした。
 南投郡にはパイン会社と製糖会社がありましたから、そこに働きに出る人も多かったです。倶楽部の中は仕切りがなく、自分たちの柳行李などで区切りをして家族単位で生活をしていました。最初の一か月ほどは倶楽部の大きな鍋で作って一緒に食事をとっていましたが、後になると個人的に弁当を用意したりしていました。
 私は着くとすぐに南投国民学校の五年生に入学しました。南投国民学校は日本人の学校で、ウチナーンチュも全員ここに通っていました。校長先生は高橋先生という内地の人でした。
 台湾人は向こうでは本島人と呼ばれていましたが、彼らが通う学校は南投南国民学校といって、南投南公学校とも呼んでいました。南投南公学校の校長先生も大脇先生という内地の人でした。
 初等科の六年と高等科の二年があって、これは公学校も国民学校もいっしょでしたが、教科書は違いました。
 授業は沖縄と同じようにやっていましたが、空襲警報がきたらすぐに防空壕に入るようにということで、落ち着いて勉強することはできませんでした。もう私たちが行った頃から空襲警報が度々ありました。防空壕も作られていました。われわれが住んでいるところの近くには、「これは沖縄からきた人たちのものだよ」と向こうの指導者が教えてくれた防空壕がありました。あのときは、大人の言うことはよく聞かなければいけないということで、防空壕に入ってみようと実際に入ったこともありました。あの当時中学校の生徒には戦争のことを話しても、私たち小学校四、五年の児童には誰も話してはくれません。ただ「米英撃ちてしやまん、勝つまでは」という教え方をされていますから、勝つとしか思いませんでした。
 空襲が激しくなったのは昭和十九年の十一月か十二月くらいからで、空襲警報のサイレンが多くなってきました。空襲警報の時は「ウ〜〜ウ〜〜」とうなるような感じで、解除の時は、今の十二時のサイレンみたいに「ウー」で解除でした。もうこの頃からは毎日のように警報がありました。だから防空頭巾を持たないと大変で、死ぬつもりかと怒られました。私たちが住んでいるところでは実際には爆弾が落ちたことはなかったのですが、学校への通学路になっている大きな通りには人間ひとりが入れるような防空壕がたくさん作られていました。空襲警報が鳴るとこの並木に掘られた穴に飛び込むのですが、木の陰はみんな穴だらけでした。

 台湾での空襲体験

 そのうちにわれわれ数名は明糖倶楽部がある南投郡の名間庄新街というところに台湾人の家を借りて、別に避難するようになりました。移ったのは昭和二十年の三月頃で、曾おばあちゃんが一月十日に亡くなった後のことでした。南投の中心部からは軽便みたいな小さい汽車が通っていました。新街には沖縄南部出身の安仁屋という新街公学校の教頭先生がいらっしゃって、この先生が私のおばあちゃん(上原※※)に家を紹介したようにおぼえています。新街は田舎だから安全だろうということだったのではないでしょうか。その後八月十五日の終戦を迎えるまでそこにいました。
 新街に移ってからは空襲が激しくなってあまり学校へは行っていません。新街にいる内地の女の先生が、そこに住んでいる子どもたちを新街公学校の一教室に集めて勉強を教えたりしていました。学年も関係なく、ひとつの部屋でみんないっしょに勉強していました。
 上原※※は台湾に疎開しているときもキリスト教の集会を開いていましたが、新街に移ってからは戦争も激しくなって集会はやっていません。明糖倶楽部にいる頃は週一回くらい開いていました。賛美歌と聖書はいつも持っていました。メンバーはウチナーンチュだからと、ウチナー口でお祈りをしていました。
 新街にいるときは農家に間借りしていましたから田んぼもあるし、安仁屋先生が世話をしてくれてお米ももらいました。ここの家主さんが、孫とおばあちゃんの二人きりだからということで親切にしてくれたのだと思います。ほかの人たちよりは私たちは恵まれていました。この頃はもう学校には行けなくなっていたし、明治製糖株式会社も操業していなかったと思います。沖縄はすでに全滅したと聞いていましたから、弟もおじいちゃん、おばあちゃんもみんないないと思っていました。
 終戦の日の昭和二十年八月十五日は、南投国民学校に集まるようにとの連絡を受けました。そこで南投国民学校の校長先生が児童を運動場に集めて、小さいラジオを持ち出し、天皇陛下の「朕深く…」という放送をみんなに聞かせてくれました。それまでは勝つとしか思っていませんでしたので、最初は「本当に負けたのかな」という気持ちでラジオを聞きましたが、これで本当に戦争に負けたんだと思いました。
 その翌日からは「君たちはもう負けている」と、台湾人は日本人の言うことを聞かなくなって、学校も閉鎖になりました。戦争が終わると、台湾の子ども達が日本人に、君たちはもう帰れというように石を投げるのが、私にとっては一番苦しかったです。
 台湾の人は沖縄の人にはあまり強くは当たりませんでしたが、本土の人たちにはものすごかったです。玄関に石を投げたりして、自分たちは中国人だと言わんばかりでした。私も帽子をとられたり本を破られたりしました。
 ウチナーンチュのことを台湾人は「リュウキュウレン」と言っていましたから、本土の人たちも自分たちのことを「リュウキュウレン」だと言っていました。琉球という言葉はすごいとこのとき思いました。それまで沖縄県と言わずに琉球と言ったら怒っていたんですが、あの時にみんなが琉球と言っているのを聞いて素晴らしい言葉だなと思いました。
 中国軍が台湾に入ってくるのは見ていませんが、台湾人はうれしくて中国軍歓迎のお祝いをしていました。台湾の旗を揚げて、君たちも「君が代」ではなくて中国の「三民主義」という国歌をおぼえよと言っていました。向こうは教えたつもりですがこっちはおぼえませんでした。負けたという悔しさがあるからおぼえようとはしませんでした。小学生ではありましたが、ウチナーンチュは「負けてもやるぞ」という気持ちはありましたから。

 台湾からの引揚げ・八重山へ

引揚者に支給された額面七千円の「引揚者国庫債券」、昭和32年発行(上原※※氏提供)
 終戦の日に南投国民学校に集められた後、再び明糖倶楽部に戻って疎開生活をしていました。その後南投郡にある公会堂に移り、ここでは三か月ほど暮らしました。この公会堂は以前宮古・八重山の人たちが疎開生活をしていたところでした。
 昭和二十一年の二月か三月頃になると、沖縄出身者は明治国民学校に集結せよとの連絡を受けて、みんないっしょに台中州の明治国民学校に移動しました。ここには宮古の人たちも、中頭地区以外の人たちもいました。六〇〇人ほどの沖縄の人が台中州から集まっていました。
 沖縄への帰還はままならず、五月頃になると大勢の人が台北の旧台湾総督府にあった集中営へ移されたのですが、まだ明治国民学校に残っている私を父の上原※※が迎えにきてくれました。八重山で陸軍兵長をしていた父は、八重山から船をチャーターして来てくれたのです。この時は「父は生きていたんだなあ」といううれしさに、抱き合って喜びました。そして上原※※と三人で八重山の石垣町(現石垣市)登野城へと向かいました。沖縄は全滅したと聞いていましたから、沖縄には帰れないものだと思っていました。沖縄にいる弟たちはもう生きてはいないだろうと考えて、あの時は小学生でしたが涙がでました。
 基隆から船を借りて八重山へ引き揚げるときに中華民国(台湾)の国旗を見ました。朝鮮の旗もありました。台湾から引揚げるときの船から朝鮮の旗を最初に見たのですが、日本は戦争に負けたら国旗まで変えられてしまうのかと思いました。朝鮮の旗の図柄は日の丸にキズが付いているように見えたのです。
「ハジチの伝道者」・上原※※さん(右)
手の甲にハジチが見える  1967年首里教会にて(池原※※さん提供)
 台湾から八重山に着くと間もなく夏休みに入りましたから、五月か六月頃だったと思います。八重山では登野城初等学校に通いました。八重山に一年半ほどいて、二十二年の十二月頃沖縄に帰りました。上原※※はもう少し八重山で伝道をするということで残り、父と二人で先に帰りました。最初は久場崎に上陸して、初めてコンセットというものを見ました。それから弟たちを捜して久場崎から石川に行きましたが会えなくて、故郷の波平に帰った時に弟の※※、※※に再会できました。
 上原※※は四年ほど八重山にいました。自分で藁葺きの家を作ったりしましたが台風でやられ、それから後は伊波※※さんのところに住んでいました。

編者注

 上原※※さんについては「ハジチの伝道者」(執筆渡久山朝章)として『近代沖縄女性史・時代を彩った女たち』(琉球新報社編・一九九六年発行)にとりあげられ、次のようなプロフィールが載っている。
 上原※※(ナビー)は熱心なクリスチャンであった母の影響で洗礼を受けた。村の豪農に嫁ぎ、二人の子をもうけるが、信仰がもとで婚家を出される。その後、読み書きの手習いから始め、東京へ留学。※※は手の甲にハジチ(針突=入れ墨)をしていたが、恥じることなく神学を修め帰郷。長崎、大阪、再び沖縄と伝道活動を展開し、自力で故郷読谷山に伝道所を開いた。間もなくそこが日本軍に接収され戦局が悪化すると台湾へ疎開。戦後は八重山から伝道活動を開始、六年間地域に尽くした。その後、コザに伝道所を設立、特殊婦人らを相手に神の愛を説いた。一九五五年(昭和三十)、七十四歳のとき沖縄キリスト教会から牧師の資格を与えられた。晩年は首里教会に落ちつき、多くの信者と神の道にいそしみながら、一九七二年(昭和四十七)永眠。享年九十一。

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