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4 「満州」での戦争体験
玉城裕美子

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 はじめに

 満州とは、現在の中国東北部のことである。「満州国」建国への経緯は、序章「近代日本と戦争」(安仁屋政昭)に述べられているので参照されたい。
 一九三二年(昭和七)日本によって建国された「満州国」へ、一九四五年(昭和二十)の終戦までに一二八人の読谷山村民が移住していた(二〇〇〇年十月現在判明しているもの、現地で出生した者も含む。村史編集室調査)。

図―1「読谷山村からの満州渡航者数」
(引揚者給付金処理表より作成)


 図−1は、引揚者給付金請求書処理表より作成した満州渡航者のグラフである。「満州国」建国二年後の一九三四年(昭和九)から敗戦前年の一九四四年(昭和十九)の間に、満州へ渡った五七人の渡航年がわかる。一九四〇年(昭和十五)の渡航者数が一一人となっており、前年までの倍以上に増えている。
 日本政府は一九三六年(昭和十一)、広田弘毅内閣のもと満州への「二十ヵ年百万戸移民計画」を打ち出し、国民の満州移住を促進した。
 一九四五年の敗戦当時、満州在住の日本人は「南満州鉄道会社」関係者を含めて約一五五万人、そのうち開拓団関係者は約二七万人と言われる。『満洲開拓史』(満洲開拓史刊行会)によって開拓団の送出状況を見てみると、一般開拓団二四万二三〇〇人、満蒙開拓青少年義勇軍二万二八〇〇人、その他四九〇〇人で、全国の合計が二七万人となっている。全国一の送出県は長野県であり、それについで東北地方各県からの送出が多くなっている。
 沖縄県では、全国より二年遅れで満州送出が開始されたこともあり、全国的にみれば、割合としては少ない。沖縄県は一九三九年に、「三万戸十五万人分村計画」を打ち出し「二十町歩地主」「五族協和」などを宣伝して、県社会課を中心として満州移民を募集していた。『沖縄大百科事典』によると、沖縄からは成人移民が一〇〇〇人前後、満蒙開拓青少年義勇軍が六〇〇人前後送り出されたとある。
 沖縄からの満州移住に拍車をかけたのは、北谷出身の衆議院議員・伊礼※※が第一次近衛内閣の拓務参与官になったことを主として、その他もろもろの要因がある。
 読谷山村からも、このような時代のあおりを受けて、希望に燃える青年達が満州へと渡って行った。村内から就職として二〇人が、成人開拓団として七世帯が、青少年満蒙開拓義勇軍として一八人が満州へ移住した。このうち後に呼び寄せを受けた家族は約一六世帯である。
 なぜ、温暖な沖縄から、寒さ厳しい中国東北部に読谷山村民が移住して行ったのだろうか。本稿では資料や体験談をもとに、満州へ渡った村出身者の様子を述べ、そこから見えてくることを考えてみたい。なお、ここでは一般住民を中心としたため、満州で召集を受けたものを除き、兵役のために満州へ行った人には触れなかった。

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