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4 「満州」での戦争体験

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 夢と憧れの満州 ―読谷山村の場合―

 村史編集室では、戦前満州へ渡った村民及びその関係者一五人に聞き取り調査を実施した。そこで共通していたのは、「大陸(満州)へ渡る」ことは、大きな夢、憧れであったということである。まずは当時の新聞記事を通して読谷山村関係の様子を見て行きたい。
 『大陸に建設の鍬打ち込む/興亜青年勤労隊/若人百十九名内定す』〔琉新・昭和14・6・17〕 という記事では、読谷山より新垣※※と知花※※が選ばれたことが書かれている。
 『満州事情紹介の講演会と座談会/廿一日より各地で開催』〔琉新・昭和14・11・9〕 では、帰還義勇軍並びに興亜青年勤労報国隊幹部、満州視察者當山※※、渡嘉敷※※、當山※※の三氏を講師に迎えて「二十九日 読谷山校(読谷、北谷、越来各村)」にて講演会と座談会が開催されると書かれている。
 『沖縄特信/開拓村を語る/古堅訓導帰る』〔朝日・昭和15・11・6〕 では、古堅校の古堅※※訓導が沖縄県の代表、女子拓殖指導員として、一ヶ月間の大陸視察を遂げた際の報告が書かれている。報告内容は以下の通りである。
 「映画でも有名な大日向村では大陸の花嫁たちがもう立派な奥様となり、主人の留守をたゞ一人で守って満人(ママ)の苦力(クーリー)などを指揮し農事の監督をしてをる元気な活躍振りを見ました。実に心強く感じました。一面坡(イーメンパ)の特別訓練所では郷土出身の若い義勇拓士たち十九名の元気な姿に逢ひましたが、私達の想像も及ばない大陸建設の大きな希望に燃えてをり、たゞ郷土より激励の手紙や慰問の品が殆どないことが淋しい思ひでした。大陸に身を挺して働くこの若い拓士たちも戦線の勇士たちと何ら変わらぬ活躍を続けてをります。全県の団体殊に女子団体に呼びかけて真心こめた激励文や激励袋の発送に積極的運動をやらなければならないと思ひます。」
 また知花清読谷山村助役と伊計尋常高等小学校長の當山※※(村内字瀬名波出身)が満州視察団の一員としてハルビンに行ったこと(沖日・昭和14・8・7)、『先生も拓殖訓練/内原訓練所で』と題して渡慶次国民学校の宮城※※訓導が拓殖講習に参加したこと(朝日・昭和17・6・21)など、昭和十三年から十七年にかけて、特に満州関連記事が多く新聞紙面を飾っている。
 このことからも国策の流れを受けて、読谷山村からも影響力の強い人々(指導力のあった訓導、原山勝負で一番になるような農業青年、人望の厚い役場職員など)が選ばれて、興亜青年勤労隊として、また視察団の一員として満州での生活を体験し、新聞での報告、青年学校生を集めての活発な講演会、展示会の開催を積極的に行っていたことがうかがえる。このことは村民の満州移住を促進する大きな要因になったと考えられる。
 昭和十七年に満州に渡った座喜味出身の玉城※※は、「その頃、読谷では満州の展示会なんかがありました。役所の方や若い人たちが満州を視察してきて、帰ってきてから講演会や展示会のようなものがよくあったんですよ。満州から土や作物の大豆などを瓶に入れて学校に持ってきて、それをこっちのものと比べたりしていました。こっちの土は赤土でコロコロしてますが、あっちは黒い土でホロホロで見るからに肥えた土なんです。大豆も満州ものは大きく立派に育っていましたよ。これを見て、『ああすごいなあ』って思っていたんですよ。とにかく、満州のことが盛んに聞こえてくるような状況でした」と語っている。

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