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4 「満州」での戦争体験

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 満州へ渡った読谷山村民

 就職

 日本は一九〇五年(明治三十八)、日露戦争の勝利によって、「長春(新京)と旅順(大連西方)を結ぶ鉄道」とその支線、及び撫順・煙台その他の炭鉱経営の利権をロシアから獲得した。そしてこれらの事業を経営する国策会社として、一九〇六年に「南満州鉄道株式会社」(以下、「満鉄」)を設立した。翌一九〇七年に「満鉄」を守備するため、満州独立守備隊が置かれた。この部隊は一九一九年に「関東軍」が創設されると、その基幹部隊となった。
 「満鉄」の主要な業務は、南満州における鉄道の独占経営であったが、鉄道付属地として広大な農地を経営した。「満鉄」は、鉄道とともに撫順など五つの大炭鉱、鞍山製鉄所などの他、独占的な商業部門も持っていた。満州経営は「満鉄」を中核として独占的に運営された。
 一九二九年(昭和四)に始まった世界恐慌は日本にも波及し、米価、糸価の大暴落、会社の倒産、労働争議の続発に加え、東北、北海道の冷害で、不況はさらに激化していた。沖縄でも一九三〇年(昭和五)、那覇市に約六〇〇〇人の失業者があり、休退職を命ぜられる教員が多く出て、県下各地で教員の給料不払いが起っていた。また農村疲弊により、小学校の欠席や欠食および人身売買がさかんになっていた(『沖縄大百科事典』別巻より)。
 そのような状況の中、国内の矛盾から国民の目をそらすために、日本は一九三二年(昭和七)、「満州国」建国を宣言をした。この年も依然不況は深刻で、七月には文部省が農漁村の欠食児童が二〇万人にのぼると発表している。読谷から満州に就職先を求めた人は二〇人前後であり、その半数近くが家族を呼び寄せている。

表-1 就職のため渡満した村出身者
(村史編集室作成)

名前
生年
出身字
入植地
職種
家族
地図
番号
呉屋※※
大正3年生
※※
奉天省撫順市
硝子工場工員
 
20
仲宗根※※
大正3年生
※※
龍江省チチハル
農業関係指導員としての委任管理職
4
15
山内※※
明治34年生
※※
吉林省公主嶺→黒河
職業軍人
7
18
1
知花※※
明治40年生
※※
奉天省撫順市
硝子工場工員
 
20
安里※※
大正15年生
※※
黒河省黒河→牡丹江省→シベリア
関東軍経理部(軍属)→兵役
 
1
玉城※※
大正3年生
※※
満州国安市千歳
満州鉄道会社工員
4
 
比嘉※※
大正9年生
※※
吉林省新京
会社員
 
18
大城※※
明治41年生
※※
奉天省奉天市
アルミ工場工員
5
19
山内※※
大正2年生
※※
浜江省ハルビン市
満州拓殖公社社員
3
10
當山※※
大正10年生
※※
奉天省鞍山市
鞍山製鉄所工員(元宝石義勇隊開拓団員)
 
22
當山※※
大正7年生
※※
間島省琿春県
会社員
5
12
當山※※
大正1年生
※※
吉林省新京南湖
満州国立大陸科学院馬疫研究所
6
18
比嘉※※
大正9年生
※※
満州→捕虜看護婦
 
 
 
長浜※※
大正4年生
※※
浜江省ハルビン
ハルビン満鉄病院医師
 
10
玉城※※
大正14年生
※※
吉林省新京→東安省虎林→シベリア
新京・関東軍経理部(軍属)→兵役
 
18

 表-1は、就職のために満州へ渡った読谷山村出身者の渡航先と職種である。この表から、不況にあえぐ時代の情勢と連動して、「満鉄」が事業投資をおこなった製鉄、化学工業などの職種に村民が就いている様子がわかる。この表以外にも満州で仕事をしていた人はいるが、職場や職種が確認できなかったため、この表には掲載しなかった。
 座喜味の山内※※は、「先輩からの手紙に『満州に来れば、給料は三倍から五倍にはなるよ』と書かれていた。あの時は日本の国策として、若い者はみんな大陸に行きなさい、ということでポスターなどもあったわけ。『青年よ、大陸へ』と。そういう風な時代だったから、『よし、大陸へ行こう』と簡単に行けたんですよ」と当時を振り返る。
 職業軍人として黒河にいた宇座の山内※※は黒河第七国境守備歩兵第二中隊長及び高山陣地警備中隊長を務めていた。山内※※は、山内※※や華陽開拓団の知花※※がハルビンに来るたびに、お見合いを薦められたという。そして※※は※※の姪であった※※との縁談がまとまり、昭和十六年一月花嫁を迎えた。
 先にもふれたが満州視察を行い、積極的に村民移住を促進していた當山※※の息子にあたる當山※※も新京へ渡り、公務員(馬疫研究所勤務)をしていた。このようなつてで弟の當山※※家族や高志保の比嘉※※、當山※※の娘婿にあたる知花※※らが満州へ渡った。また、沖縄は戦争で危なくなるということで、昭和十九年八月に知花※※の長女※※とともに、當山※※(昭和四年生)が新京に疎開している。

図-2 旧「満州国」地図



 開拓団

 沖縄県からの満州入植状況については、「沖縄女性史を考える会」の報告書によると、県内で最初に募集があったのは、一九三八年(昭和十三)五月の小山子九州開拓団であり、沖縄からは二〇人が応募した。続いて一九四〇年(昭和十五)一月、奄美大島と沖縄県で構成された伊漢通開拓団には、沖縄から六〇〇人前後が入植していたようだ。この二つは集団開拓団で、沖縄全県からの募集であり、他県との混成で一団を形成していた。

 表-2 開拓団として渡満した村出身者
村史編集室作成

名前
生年
字名
入植地
家族数
死亡者
地図
番号
儀保※※
大正2年生
※※
興安東省豊秋開拓団幹部職員→龍江省景星県上頭站越来開拓団団長
4人
1人

13
16

松田※※
明治42年生
※※
龍江省龍江県臥牛吐村臥牛吐開拓団員
4人
1人
14
津波※※
明治35年生
※※
浜江省肇州県第12次昇平大阪開拓団員
5人
3人
15
知花※※
明治39年生
※※
北安省慶城県華陽開拓団長→浜江省ハルビン農産公社社員
5人
 
4 
10
宇座※※
大正5年生
※※
三江省方正県伊漢通開拓団員
4人
3人
9
當山※※
大正9年生
※※
東安省宝石義勇隊開拓団員
4人
2人
7
知名※※
 
※※
満州開拓団(詳細不明)
 
 
 

 『満洲開拓史』によると、一九三七年(昭和十二)後半期から分村計画が全国的に具体化した。この分村計画というのは「満州開拓農民の大量送出を容易ならしめる目的の下に、計画的かつ組織的に団体移住の促進を図り、合わせて内地農村の恒久的更正計画の実施を促進するために、分村分郷計画が樹立されるにいたった」ものであった。初めにこの計画が具体化したのは宮城県遠田郡南郷村であり、次は長野県南佐久郡大日向村からであった。古堅訓導が新聞紙上で報告していた開拓村は、この二番目の分村「大日向村」であった。
 沖縄県でも一九三九年(昭和十四)八月頃から分村計画が打ち出された。前述の、読谷山村助役知花※※が第一回視察団の一員として満州へ行ったのは、ちょうどこの頃のことであった。沖縄県からも分村計画を実施するために、市町村長、議員、学校長などが満州視察に派遣されていたのである。
 この計画が具体化したのは、一九四〇年(昭和十五)五月、県単独の連合分村として入植した、南風原、今帰仁、恩納村からなる臥牛吐(おにゅうと)開拓団である。一九四三年(昭和十八)には真壁、知念、浦添村からなる青雲開拓団が入植。翌一九四四年には、後に村出身の儀保※※が団長を務めた上頭站越来(かみとんじゃんごえく)開拓団が入植している。
 読谷山村内から満州開拓団(うち一世帯は義勇隊開拓団)として家族で移住したものは、七世帯二七人で、主に個人応募で移住している。読谷山村からは、集団での満州移住はなかった。しかし、臥牛吐開拓団の恩納村開拓団員として、喜名の松田※※家族が在籍している。これは妻※※が恩納村出身であり、伯父が副団長であったためであった(長男※※談)。また、上頭站越来開拓団の団長は、瀬名波出身の儀保※※であった。妻※※によると、※※は満州開拓青少年義勇隊内原幹部訓練所を卒業後、昭和十四年六月から満州の義勇隊嫩江(のんじゃん)訓練所の教師などをしていた。ところが、昭和十八年、上頭站越来開拓団の先遣隊が満州へ渡る海路で魚雷攻撃に遭い、乗務員が全員死亡するという事件があったため、急きょ※※が開拓団長に任命されたということである(『嘉手納町史 資料編五』二七一頁〜二八一項参照)。
 戦前行商で沖縄と大阪を行き来していた宇座の津波※※は、大阪の開拓団に応募し渡満した。父の呼び寄せで母、妹と共に満州へ行った娘の※※は「その時は何も分らなかったが、今思うと四男であった父が、大陸へ広い土地を求めて行ったのだと思う」と言う。津波一家は両親と一番下の妹が亡くなり、残された幼い娘二人が奇跡的にも生還している(儀間※※、知花※※体験記参照)。
 華陽開拓団長を務めた瀬名波の知花※※は、茨城県の内原訓練所(次節参照)で一年間の幹部研修を受けたのち、一九三七年(昭和十二)に満州へ渡った(長女※※談)。これは沖縄県内でも比較的早い時期の入植になる。はじめ農業指導員であった※※は、後に団長になった。読谷村では分村という形での移住はなかったが、村内から、儀保※※と知花※※の二人が開拓団長を務めている。
 知花※※はその後、ハルビンの農産公社に勤務するようになった。終戦当時、ハルビンという都会にいたことが、知花一家から死者が出なかった大きな要因であろう。開拓団として満州へ入植した家族からは、ほぼ全家族から死亡者が出ている。このように表―2からも、開拓団が終戦にともないどのような事態に置かれたのかがうかがえる。

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