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4 「満州」での戦争体験

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 満蒙開拓青少年義勇軍
 ―内原訓練所から国境最前線へ―

 一九三八年(昭和十三)、日中戦争勃発の翌年、成人移民の満州送出が困難な状況になった日本政府は、未成年者の兵農移民を急きょ実施することにした。応募資格の年齢は、数え年十六歳(早生まれは十五歳)から十九歳(但し十二月二日以降生れの者に限り二十歳でも差支なし)の者であった。この「土の戦士」とも称された満蒙開拓青少年義勇軍は、全国から八万六五〇〇人に上り、沖縄からは六〇〇人前後が渡満したといわれる。村内からは現在確認できるだけでも、一八人が満蒙開拓青少年義勇軍として満州へ行っている。
 青少年へ向けて拓務省拓北局が発行している『満蒙開拓青少年義勇軍』(昭和十六年六月)には「満州國が民(ママ)族協和、王道楽土の顕現を理想として建国されて以来茲ここに十年、躍進に躍進を重ねて今や自他共に許す東亜の雄邦となりましたが、―中略― 其の建国理想の達成に貢献することは、實に我々大和民族に課せられた大使命であります。此の意味から言つても、曩さきに述べたやうに、新しい國(満州國)新しい土地(沃土萬里)には新しい人(青少年)が率先海を越えて渡り定住し若々しい意気と力で此の大事業に参畫協力することが最も相應しく何よりも大切な急務なのです―後略―」と書かれている。青少年を対象にしているため、原文はすべての漢字にルビが打たれている。
 同じく拓務省拓北局発行の『あなたも義勇軍になれます』は、「のらくろ」で有名な漫画家田河水泡が、青少年向けに文と漫画で「開拓の意義」から「義勇軍になるまで」、満州でのくらしなどを分りやすく説明している。そのまえがきには「躊躇してゐると、折角持つてゐる資格(筆者註・年齢制限)を通りすぎてしまひます。過ぎてからでは、幾らお願ひしても絶對に受付て呉れません」「年上の者が、それだけいたはつて呉れますから、決して心配はありません」「絶好のチャンスといふものはさう度々来るものではありませんから、大陸国策に力を捧げることの出来る此の機會に、下つ腹に力を入れて、充分な決心を固めて下さる様おすゝめします」などと書かれている。
 このような政府からの呼びかけを真摯に受け止め、青少年達は自ら進んで義勇軍になることを望んだ。その後彼らは満州での開拓半ばで召集を受け、あるものは戦死、あるものはシベリア収容所へ送られ、苛酷な強制労働に服すことになった。

表-3 村出身の満蒙開拓青少年義勇軍
(沖縄女性史を考える会協力・村史編集室作成)

氏名
生年月日
字名
場所
所属
地図
番号
伊波※※
昭和4年生
※※
北安省慶安県鉄驪→鞍山
第七次福田中隊
5
金城※※
昭和2年生
※※
浜江省珠河県一面坡
第六次當山中隊
11
宮城※※
大正13年生
※※
浜江省珠河県一面坡
第六次當山中隊→シベリア抑留
11
新垣※※
大正15年生
※※
浜江省珠河県一面坡
第六次當山中隊
11
玉城※※
大正14年生
※※
浜江省珠河県一面坡
第六次當山中隊→シベリア抑留
11
當山※※
大正9年生
※※
東安省宝清県
第一次宝石義勇隊(樋口中隊)→シベリア抑留
7
當山※※
大正10年生
※※
東安省宝清県→奉天省鞍山市
第一次宝石義勇隊開拓団員→鞍山製鉄所工員
722
照屋※※
大正10年生
※※
北安省海倫県
第一次万順義勇隊(中山中隊)→戦死
3
山内※※
  
※※
北安省海倫県
第一次万順義勇隊(中山中隊)
3
新城※※
大正13年生
※※
浜江省珠河県一面坡
第六次當山中隊→シベリア抑留
11
比嘉※※
昭和2年生
※※
浜江省珠河県一面坡
第六次當山中隊
11
玉木※※
大正11年生
※※
錦州省錦州県盤山県伊和生
第二次伊和生義勇隊開拓団(野上中隊)
23
松田※※
大正11年生
※※
黒河省孫呉県
第二次勝武義勇隊(崎園中隊)
2
又吉※※
  
※※
北安省海倫県
第一次万順義勇隊(中山中隊)→戦死
3
仲本※※
大正10年生
※※
勃利訓練所→東安省宝清県頭道
第一次頭道義勇隊開拓団(美岡中隊)
8
比嘉※※
大正11年生
※※
奉天省昌図県→東安省虎林県→東安省宝清県大和鎮
第二次大和鎮義勇隊開拓団(野村中隊)→シベリア抑留
6
比嘉※※
大正11年生
※※
同上
第二次大和鎮義勇隊開拓団(野村中隊)→戦死
6
知名※※
大正11年生
※※
同上
第二次大和鎮義勇隊開拓団(野村中隊)→戦死
6

 義勇軍を志願したことについて、儀間出身の新垣※※は、「なぜ満州へ行こうと思ったかといえば、まずは土地。向こうへ行けば三千町歩(編者註:実際は二十町歩)の土地を貰えると思っていたから。読谷に土地は無かったし、三千町歩といえば、読谷でも一、二番の広さの土地だったから。もう一つは、義勇軍に行き訓練を受ければ、軍隊に入った時下士官以上になれる、出世が早いという先輩達の話を聞いて希望があったから」と言う。
 読谷からは、昭和十四年の第一回募集で又吉※※(波平)が、第二回で松田※※(波平)が内原訓練所へ旅立った。
 第二回の募集に関して『青少年義勇軍/廿四名けふ出発』〔沖日・昭和14年6月6日〕 という新聞記事がある。そこには「本年度の第二回募集にかヽる満蒙開拓青少年二四名は、きのふ午后一時より開洋会館で壮行会を開催、けふ浮島丸で 勇躍茨城県内原訓練所へ向ふが、二十四名の氏名は次の通り。松田※※(読谷山)〈他村出身者略〉」と書かれている。
 昭和十四年第三回募集では、比嘉※※(波平)、比嘉※※(大湾)、知名※※(大湾)、比嘉※※(大湾)、長浜※※(長浜)が行くことになった。この時は沖縄から一一人が出発し、うち五人が読谷山出身者であった。この五人のうち、比嘉※※と長浜※※は諸事情により、渡満していない。
 その翌年、昭和十五年五月二十三日付、琉球新報記事では『行け、満州開拓へ 青少年義勇軍市町村割当 来る六月第二次募集』という見出しで、昭和十五年までに県から三三六名が送り出されたと記されている。そしてさらに「本年度中に四九一名の義勇軍」を満州へ送出するため、読谷山に「二六名」の募集が割り当てられている。この記事からも志願という形をとりつつも、県から市町村ごとに人数が割り当てられていた様子がわかる。
 こうして沖縄を出発した義勇軍志願者は、茨城県にあった内原訓練所で中隊を編成し(三〇〇人)、三か月間の訓練を受けたのち、順次満州へ渡り、現地訓練所での三年間をへて、義勇隊開拓団へと移行するという流れになっていた。篤農青年として村内から代表になった三名のうちの一人、座喜味の波平※※は一か月間内原で訓練を受けた。
 「向こうでは全て軍隊式、団体行動であった。鍬で開墾する場合も皆で揃って、決められた型を守って振り下ろすのであった。鎌で草を刈ることもしたが、そのとき私が教官に『この鎌は切れません』といったが、『鎌で切るな、精神で切れ!』と言われた。全てにおいて精神教育であった」
と証言する。
 内原訓練所での生活内容については、比嘉※※(波平)の体験談に詳しい。ここでは、比嘉※※が所属していた中隊の「満蒙開拓青少年義勇軍渡満部隊訓練所行(昭和十四年十二月四日渡満)」名簿より読み取れることを記す。この部隊は、中隊長小林※※、幹部野村※※以下五名のもと、五つの小隊に別れ、その小隊がさらに三つに分れて組織されていた。隊員の県別割合は愛媛(四四人)、兵庫(二九人)、広島(二四人)、鹿児島(二一人)、宮崎(一九人)、…沖縄(一二人)…北海道・秋田など(各一人)というように、全国各地から集まっていたことがわかる。また当初三一二人だった隊員が、渡満時には二八二人に減っていることから、内原訓練所の段階で三〇人の退所者がいたことがわかる。このことからも当時の厳しさがうかがえる。
茨城県内原訓練所、日輪兵舎前にて(前から3列目、左から6番目が比嘉※※氏)
 比嘉※※は自身の体験を振り返り以下のように語った。
 「満州開拓団というのは、大人になってから移民、移住するという形であったが、私達義勇軍はまだまだ子供で、義勇軍、後に満州では義勇隊と呼んだが、これは開拓団よりも、戦闘開始時に即戦力として使える人員の養成というおもむきが強かったように思う。もちろんその時は何も分からなかったが、義勇軍に比べれば、開拓団はもう少し家族や自分のことを考えていたという気がする。満州での義勇隊は、平時は国のために少しでも大豆を多く収穫することに心血を注ぎ、兵士の食料確保のために働いて、いざ戦闘になれば自分も兵隊として戦うという国策に沿った、全く国のためのものであったのでしょう」。

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