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4 「満州」での戦争体験

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 夢と現実のギャップ

 こうして読谷山村からも少なからぬ人が希望に胸を膨らませて、大陸へ渡った。政治的な意図など、わかってはいなかった。青年はただ、「大きいことをやってみたい」という意気に燃え、所帯を持つ壮年は広い土地を手にして、狭い沖縄におさまらず、スケール大きく生きることを求めて、女性たちは夫の呼び寄せを受け、また花嫁として、勇気を持って郷土を後にした。
 長い長い旅を経て、目的地満州へ着いた人々は、広大な大陸の地平線、大きく赤い夕日、農作物の豊穣、大きな川、花畑、凍てつく寒さなどに圧倒された。新垣※※は広大な大地を目の当たりにして、「三千町歩の地主になれるという話はうそではなかった」と実感した。
 夢と憧れの満州へは来たものの、「満州国」は日本が現中国東北部に一方的に建国した傀儡国家であり、開拓地は、元々住んでいた満州の人々の土地を奪って準備されたものであった。満州の北方では「治本工作」という作戦で、日本人が元々住んでいた人たちの土地を奪い、「匪賊」と呼んだ人々を蹴散らかして満州開拓団の土地を確保した。この作戦の指導にあたった元関東軍参謀辻政信はのちにこう書いている。
 「治本工作というのは、山間に点在する農家を一地に集め、数十または数百軒宛で集団部落にし、土塁を作り、囲壁を設け、自警団を配置し、これらの部落を結ぶべき警備道路と、警備通信網を完備した。その部落の匪襲を知ったら、日本軍および満軍が整備された通信網と道路網で急速に封鎖し、討伐する。このようにして『匪賊』の根拠地を段々狭めて包囲線を圧縮すると、散在農家を唯一の糧道とたのんだ『匪賊』は、遂に悲鳴をあげだした」(『ノモンハン秘史』但し『終わりなき旅―中国残留孤児の歴史と現在―』著者井出孫六より)。
 井出は「広大な沃野に散在する農家はガソリンをかけられて焼き払われ土塁のなかに囲われ、そこに生じた広大な農地が、『五族協和』の名のもと『満州開拓』のために準備されていたことなども、むろん日本内地には知らされはしなかった」と述べている。こうして確保した土地に入植した開拓団にも、やはり「匪襲」があった。
 大阪で見た映画「大陸の花嫁」に憧れて義勇隊開拓団に嫁いだ玉城※※は、満州に着いたその日に個人用の三八(サンパチ)式銃と五〇発の弾を渡されたという。白い割烹着の初々しい大陸の花嫁、トラクターでの開墾、大きな作物など眩しいイメージを抱いて満州へ来た※※は、驚いた。「匪賊」の襲撃があるなどとは、事前に何も聞かされていなかったからである。そこには「匪賊」に怯えつつ、自ら銃を手にとり闘うという現実が待っていた。
 「眠る時は、寝床のそばに自分の服、靴下、靴を並べて、家のドアの横に鉄砲と弾を置く。警笛が鳴ったら、いつでも飛び起きて行ける準備をした上で眠るんです。開拓団の集落の周りは土壁で囲まれていましたが、今の人にはわからないでしょうね。そしてその上は歩くことができました。また壁の外側には堀があり、水がためられていて、『匪賊』が渡って来られないような作りになっていました。そして男も女も関係なく二時間ずつの交代制で、二人一組で歩いて不寝番をしました。入り口には有刺鉄線が張られていました」
と当時を語る。不寝番が「匪襲」を察知すると警笛を吹き、団員は銃を手にとり所定の位置に着いて「匪賊」と闘った。
 開拓団へ花嫁として渡満して、戦後はボリビアに移民した知花※※は、満州での自分たちが置かれていた立場をボリビアと比較して、以下のように回想する。
 「満州開拓は、開拓とはいえ、すでに満州に住んでいた人を追い出してそこに住んだわけですから、ボリビアのように最初から始めるというわけではありませんでした。だから、開拓の労力というものはくらべものにはなりません。しかし、そういうわけで地元の人からの反感が大きかったのです。ボリビアの場合は誰もやらない原野を切り開いて農地にしていったわけですから、向こうの人から感謝されているぐらいです。今ではボリビアで大規模な農業経営をしている沖縄の人がたくさんいます。これが、満州とボリビアとの大きな違いのうちの一つです」。
 このような経緯からも開拓団と現地の人との関係は、良好とは言いがたいものであった。当時小学生であった玉城※※は、「開拓団の大人がただおもしろ半分に、周辺に住んでいる現地の人々が大切に飼っている豚を撃ち殺して泣かせていた」ことを鮮明に覚えている。なぜ満州の人にこんなひどいことをするのかと、胸が痛み幼い※※はそのような光景を見るのが辛かった。
 また、玉城※※は「先遣隊だけだったころには、『匪賊』を捕まえてその生首を集落付近にぶら下げていたようです。向こうで写真を見ました。実際には見ませんでしたがそういう写真はたくさんありました」と証言している。
 満州のことを振り返ると、肥沃な大地の開拓村という眩しい夢と、次節で述べるソ連参戦後の地獄図との対比が強くなり、当然ながら体験談もその落差が重点的になってしまう。しかしその土地を、日本がどのように準備したのかを考えると、開拓団の入植地が現地住民の多大な犠牲の上にあったことがわかる。このため何も知らずに、夢を持って渡満した開拓団員達も、結果的には加害者となってしまったという側面もある。また実際に満州の人々に対して酷い行いをする人もいた。このような開拓地での振る舞いが、八月九日のソ連侵攻後、ソ連軍の襲撃のみならず、さんざん押さえつけられていた満州の人々の激しい報復行為となって、開拓団に残された人々、主に女性と子供達をさらに窮地に追い詰めることとなった。

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