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4 「満州」での戦争体験

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 突然のソ連軍侵攻

 一九三七年(昭和十二)に始まった日中戦争は長期化した。この処理に悩んだ日本は、南方(東南アジア)への進出によって事態を打開しようとしていた。この南方作戦も最初は日本軍が優位にたっていたが、一九四二年(昭和十七)ミッドウェー海戦での大敗を機に敗退を続け、ついには無謀な神風特別攻撃隊の体当たり作戦という事態を生むに至っていた。
 ソ満国境を守備していた関東軍の兵力は、南方での戦線に次々と転用され、それに呼応して、満州では在満邦人の「根こそぎ動員」が行われた。このことにより、開拓団には女性と子どもだけが取り残され、その後の悲劇を大きくした。
 一九四五年五月、ドイツが無条件降伏をしたことから、日本陸軍はソ連の対日参戦を予想した。そのため、軍部は全満州の四分の三を放棄し、新京以南を守る態勢をとった。この作戦の決定は、日本人開拓団の半数以上が住む地域を見捨てるものだった。
 角田房子の『悲劇の王道楽土』では以下のような記述がある。
 「八月九日のソ連侵攻後は、軍は朝鮮防衛の作戦に転じ、満州からの全面撤退を計った。実情はわれ先の敗走であった。開拓民は自力に頼るほかない状態で、完全に見捨てられた。こうなる前に開拓民を避難させる時間は十分にあったのだが、日本人の大量移動がソ連を刺激することを恐れ、『対ソ静謐保持のため』戦略的に彼らを見殺しにすることを決定していた」
 敗戦後の満州移民は、筆舌に尽くしがたい体験をしている。開拓団員の娘として渡満した宇座出身の儀間※※は、「苦労、恐怖、生き地獄、そんな言葉では言い表すことのできない体験をしてきたな、と当時のことを思う」と振り返る。
 開拓団に取り残された女性や子どもたちがどのような状況に追い込まれたのかは、後の体験談に具体的に書かれている。死の逃避行から、多くの死者を出した収容所生活、父の死、母の死、子どもの死、そして命からがらの帰国、もしくは残留など、痛恨の証言である。
 ここでは座喜味の宇座※※家族が行っていた三江省方正県伊漢通開拓団の実態を『満洲開拓史』(五六二〜五六三項)より紹介する。ちなみに宇座※※はシベリアに連行され、妻と幼い子供達二人は現地で栄養失調のため死亡した。
 ソ連軍の侵攻により、三江省に入植していた三三の開拓団は方正街飛行場に集結した。総人数八六四〇名(内訳、ソ連拉致四六〇、脱走一二〇〇、満妻マ マ二三〇〇、死亡二三六〇、ハルビン脱出一二〇〇、方正残留三四二〇、通化残留二〇〇〇)とのことである。
 ※※一家の属していた伊漢通開拓団は収容所に充てられた。そこでは
 「衣料、食糧その他所持品の大部分を掠奪され、飢餓と寒気の募る中に暖房、医療施設など全然なく、全員が栄養失調と悪疫に悩まされ、あるいは満妻(ママ)となり、あるいは満人(ママ)に一人二百円で子供を売るもの等が続出した。伊漢通団本部では約二千名が収容され、その約半数が死亡した。昭和二十年十二月に屯長が日本人救助布告を出し、満妻(ママ)または満妾(ママ)になることを奨め、満人の下層階級は日本人婦人を妾に要求した」
と報告されている。

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