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4 「満州」での戦争体験

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 終わらない戦後 ―中国へ残留―

 花嫁達の受難

 沖縄からは成人移民よりも一年先の、一九三八年(昭和十三)から満蒙開拓青少年義勇軍の送出が始まった。彼らは、前述したように、三か月間の内原訓練所での訓練、そして三年間の満州での現地訓練を経て、義勇隊開拓団へと移行する流れになっていた。開拓団へと移行する彼らに必要なのは、花嫁であった。開拓地で所帯を持ち、子供が生れ、いよいよ発展していく見込みであった。このため、沖縄県でも女子拓殖指導者講習会が開かれるようになっていた。
女子拓殖指導者講習会 昭和15年11月・最後列右から3番目玉城※※(旧姓※※)(那覇市歴史資料室提供)
 一九四〇年(昭和十五)十一月二十二日の『沖縄日報』に、「大陸の花嫁」養成の女子拓殖指導者講習会修了式の記事が掲載されている。そこには四七名の修了者の名前が記されているが、そのうちの一一人(全体の二三%)が読谷山村民である。
 掲載されているのは、座喜味・照屋※※(十六)、瀬名波・上地※※(十八)、伊良皆・冨着※※(十七)、瀬名波・上地※※(十八)、渡慶次・大城※※(十九)、牧原・国吉※※(十六)、宇座・松田※※(十九)、古堅・池原※※(二十)、大木・又吉※※(十六)、渡具知・吉濱※※(十七)、宇座・新城※※(十八)である。
 この中から実際に満州へ渡った人はほとんどいない。花嫁候補の準備は進められていたが、戦局悪化のため、花嫁送出という段階までには至らなかったというのが理由であろう。当時講習に参加した渡慶次の玉城※※(旧姓※※)は、この時のことを以下のように語る。
 「その頃は男が戦争にとられて少なくなっていたのでね、『銃後を守るのは私達だ』っていって、女子青年団が活発に動いていたんです。この青年団を通して講習会参加の話があったんです。小さな沖縄から大陸へって希望を燃やして、青年がどんどん満州へ渡っていましたからね、私も自分の人生を大陸で過ごせたらって気持ちになって参加したんでしょうね。講習会参加者を、向こう(満州)で結婚させようという考えだったんでしょう。講習会は那覇でありましたが、みんなモンペ姿で行きましたよ。そこでは開拓の心構え、ただ事ではない難儀があるよとか、とても苦労であるとかそんな話し振りでした。また山の中を歩きつづけるという訓練もありましたね。ただ、若かったし、一週間も那覇で寄宿舎のようなところに泊まって過ごすことも新鮮で、今でもよく思い出します。向こうではじめて『ライスカレー』というものを食べました。これはとても栄養があるってよー、なんていいながらこんな料理もあるものかねー、とおいしく食べました。初めてのことばかりで、楽しかったですよ。もう少し、戦争が先に延ばされていたら、満州へ行っていたかもしれません。一足違いで大変しましたね。とても満州に憧れていました」。
 このような証言から、読谷山村から満蒙開拓義勇軍が送出されていたため、やがては彼らの花嫁を送り出す準備がすすめられていたことがわかる。ただ義勇隊開拓団へと移行した矢先に団員が次々と召集を受け、その多くは実現しなかった。
 昭和十三年九月、第一次で宝石義勇隊開拓団が渡満した。この義勇軍には沖縄出身者も多く、その中に村民も在籍していた。この義勇軍は十三年十二月には満州へ渡り、ハルビン特別訓練所、勃利大訓練所をへて、十五年の四月に永住の地(と思われていた)東安省宝清県宝石に入植した。そこで現地訓練を経たのち、開拓団へと移行していった。この開拓団員は五五人が家族招致をしている。十七年、十八年と「花嫁部隊」を受け入れたが、沖縄からは一四人の女性が、花嫁として開拓地へと渡った。
 この宝石義勇隊開拓団、第一次の花嫁部隊に参加した座喜味の玉城※※は、昭和十七年十一月に満州へと渡った。この時八人の花嫁のうち五人が沖縄の人であった(※※談)。こうして晴れて「大陸の花嫁」となった人々を待ち受けていたのは、三年も経たないうちにやってきたソ連軍の侵攻であった。
 それまでの生活の様子や、開拓団が置かれた状況については、体験談で語られている。当時、開拓団の男達は既に根こそぎ動員で召集されていたため、これまで押さえつけられていた満州の人々の鬱憤は、ソ連軍侵攻開始と同時に残された女性達へ向けられた。小さな子供や大きなお腹を抱えていた女性達も、ソ連軍からの銃撃、満州の人からの襲撃などを一手に受けざるを得ない状況に置かれた。日本人を守るはずの関東軍はすでに退散し、開拓民は放置されていたからだ。
 満州の原野に放り出された人々は、絶望的状況の中で自殺をしたり、孤立した開拓村では「集団自決」に追い込まれたところも少なくない。そんな中で生きるために満州の人の妻になった人もいる。彼女達は日本への引揚げもできず、「残留婦人」として余生を中国で過ごすことになった。その中には二度と祖国の土を踏むことなく亡くなった人も多い。

 子供達の受難

 子供達は、ある子は訳もわからず、ある子は最後までイヤがりながら、親に連れられ満州へ渡った。当時幼稚園児だった瀬名波の知花※※は、開拓団の父からの呼び寄せで渡満したが、満州の土壁の家に入って「なんでこんなサーターヤー(沖縄の砂糖作りの小屋)に連れてきたの、早く満州へ行こう、早く満州へ行こう」といって両親を困らせた。「弟は満州という響きに都会的なイメージを持っていたようだ」と姉玉城※※は言う。
 開拓地での赤ちゃんの誕生は、大人達に明るさと活気をあたえた。しかし、そんな生活も束の間であった。戦況の悪化により、男達は兵隊にとられ、団の運営から農作業までが女性の仕事になり、幼児や生れたばかりの赤ちゃんまでが充分な保護も受けられず、場合によっては一日中、家で軟禁状態でほっておかれるということになった。開拓団の若い母親たちがそこまでして、夫の留守を守った甲斐もなく、日本の敗戦により、残された開拓民は完全に見捨てられた状態になり悲劇的な末路をたどらざるをえなかった。開拓団で生れた乳児の多くは、逃避行中の母の背中で、また、飢餓と悪疫の充満する収容所でその短い命を落とした。また生き残った子供達や、逃げのびるさい中国人に助けられた子供達、また両親によって中国人に売られた子供達が「中国残留日本人孤児」となっている。
 敗戦により「乞食のような状態」になったなかで、玉城※※は弟をおぶって歩いていた。そこを中国人に呼び止められ「あなたが子供を連れていては大変だから、私がその子を貰いましょう」といって後を追ってきたと言う。※※はあの時もし弟を渡していたら、と考えると今でも背筋が寒くなるという。
 知花※※は終戦時八歳で、満州で両親と妹を亡くした。※※はハルビンの収容所で栄養失調で死にかけていた。姉※※はそれを見かねて※※を中国人夫婦に託した。そして※※は、しばらく中国人の子供として育てられた。子供の無かった夫婦に可愛がられ、※※は元気を取り戻した。そのまま行けば、※※は中国残留になってもおかしくない状況であった。しかし、姉※※が決死の覚悟で妹を連れ戻したため、なんとか帰国することができた。
 当時十四歳と八歳の姉妹が読谷まで戻ってきたとき、祖母が亡くなった両親に対して「自分たちは死んで楽になって、子供二人で帰すなんて」と言った。その言葉にたまらず、祖母と一緒に姉妹は号泣したという。
 自らの体験を踏まえて※※は、

 「戦争については、国と国との間にどういう事情があろうと、戦争をする条件がそろっていようとも、二度とやって欲しくない。たとえ、爆撃や空襲が全くない場所にいたとしても、私たち家族のように避難生活を強いられて命を落とすという状況に置かれることもある。だから、向こうで戦闘をしているのだから、ここは大丈夫だとか、よその国が戦争をしているので自分の国はやっていないから幸せだ、という保証は無いと思っている。世界中、どこの国であろうと戦争はしてはいけない」

と、現在の心境を語る。
 戦争が終わって、五七年が過ぎ去った。『中国残留孤児の記録 再会への道』の中で、肉親を探しにきた人のコメントが掲載されている。その中の「迷惑はかけません。お母さん、一目だけでも逢いにきて下さい」「お父さん、生きているなら会いにきて下さい。親戚でもいいですから、ぜひ会いたいものです。自分が誰なのか、それがわかれば満足なのです」という言葉に胸を締め付けられる。少なくとも中国に置き去りにされた幼い子供達が、日本の両親に迷惑をかけたわけではない。記録によると我が子だとわかっていても、名乗ることのできない親族もいるという。事情も知らずにその親族を無下に責めることはできない。
 二〇〇〇年十一月、「中国残留孤児」の四人が来日した。そのうち肉親と再会できたのは一人であった。この「中国残留孤児」の問題は二十一世紀に持ち越されることとなった。関係者も次々と亡くなっていくなか、今後の再会はますます困難になることが予想される。
 東京都多摩市に一九六三年、「拓魂」の碑が建てられた。「満州開拓殉難者之碑建設の由来」の中に、

 「凍土をおこし 黒土を耕し 三十万の開拓農民は 日夜 祖国の運命を想いながら黙々と開拓の鍬を振いました 然し その理想の達せられんとした昭和二十年の夏 思わざる祖国の敗戦により 血と汗の建設は一瞬にして崩れ去り 八万余の拓士と関係者は 満蒙の夏草の中に露と消えていきました そして そこには未だ一輪の花も供えられたことはないのです」

と刻まれている。
 読谷山村民の満州における死亡者は確認できているだけで、一七人である。

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