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4 「満州」での戦争体験
体験記

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 ○満州拓殖公社への就職

 山内※※(大正二年生)
    ※※(大正五年生)

 東京へ

 ※※は大正二年に生まれた。尋常高等小学校二年に在学中、兄を頼って那覇へ行き丁稚奉公をしていた。その後、親類のいる大阪へ出稼ぎに出た。出稼ぎに出た理由は、彼が六人兄弟の次男であり、相続すべき土地もなかったことと、勉強がしたいという思いがあったからである。父親に「ヤマト(本土)に行くが、勉強してくる」というと、「旅に出てからは、お金は送らなくていい。そのかわり(生活は)自分でやりなさい」と言われ、「ようし、やる」と言って家を出たので、金銭面でも親には頼らなかった。
 大阪には読谷の人もたくさんいて、毎晩三線を弾いて歌を歌ったり、お酒を飲んだりしていた。生活上は何も不自由はなかったが、※※には「勉強したい」という思いがあった。そこで、二か月後には、勉強できる環境を求めて、単身で身よりの無い東京へ行った。荷物は籐のバスケットの中に、下着類と本が五冊であった。
 大阪で一緒に下宿していた真栄田※※に、「※※、僕はもう大阪ではだめだから、東京へ行くよ」と言った。「東京で、行くところないだろう」と言われたが、「そういうことを考えていたら、いつまで経っても行けないから、どうでもいいから行く」と言って、※※に駅まで送ってもらい、※※は、今まで一人で乗ったこともなかった汽車に乗った。汽車は上等でいい気持ちだな、と座っていると、何度も車掌が切符を見にきていた。不思議に思っていたが、東京駅につくとそのまま駅の交番へ連れて行かれた。家出少年と見られて、巡査に殴られた。このことを※※は「(巡査は)不良だと思っていたわけ。いやもうこれは殴られても仕方ないと思った。本当に行くところがないのに(東京に)来たんだから」と言う。しかし、その巡査は、話をしているうちに、※※が本当にどこにも行く当てがないことを知り「飯は食べたか」といって、その夜の寝場所の世話までしてくれた。結局その日は、明治神宮の横にある建物へ連れて行かれ、千畳敷もあるかと思われる程の広間に一人で眠った。巡査が毛布と枕を持ってきてくれた。
 翌日、※※を殴った巡査が早朝にやってきたので、刑務所に連れて行かれるのかなと思ったら、その巡査は「浮浪人の泊まる所がある」といって車で東京市立の宿泊所に連れて行き、滞在できるように管理人に頼んでくれた。
 宿泊所に滞在中、そこの職員が新聞で求人記事を見つけてくれた。仲曽根歯科医院というところだったので、※※はウチナーンチュだと思って喜んで行ったのだが、そうではなかった。しかし、通学可能とあったので「これはいいや」と思って住み込みで就職した。歯科医院で白衣を着て手伝うのも嬉しかったし、東京は大都会だったので、お使いに行くのも楽しみだった。でも金儲けよりも勉強がしたかったので、赤坂の皇居のすぐそばにあった日大第三商業学校の夜間部に入学した。入学の時に、東京に身よりの無かった※※は「学校の保証人はもうインチキだったんです。適当に思いついた人名を書いて、出したんだ」と言う。
 ※※が日大三商在学中の、岡田首相時代に二・二六事件(昭和十一年)が起きた。この頃、住み込みの歯科での仕事を辞めた。その理由は毎日通学で都電を利用していたが、交通費が嵩み、本が一冊も買えなかったからである。「これじゃあしょうがない」と日中は朝夕の新聞配達(知人が誰もいなかったので、学校の先生に頼んで保証人になってもらった)をはじめ、いろんな仕事をして、なんとか自分で学費と生活費を捻出しながら、四年間の学生生活を送った。一日ソバ一杯で過ごしたこともあったが、「卒業証書だけは絶対とると、死んでも取るという気持ちだったから」と言う。
 また当時、本土では「朝鮮人」や、「沖縄人」は、大変な差別がある時代であった。※※も、少しでも差別的な扱いを受けたと感じた時は、相手が「悪かった」というまで、何回喧嘩をしたかわからないと言う。
 ※※が五階建てビルの階段をモップで清掃をする仕事をしていたある朝、背広を着た社員が、※※に「沖縄は日本じゃない。沖縄人」と言った。それで、※※は持っていたモップで相手に殴りかかり、その社員の差別的言動を「社長に言いつけてやる」と言った。翌日その人が出勤して「昨日は済まなかったな」とおとなしくなっていた。そして、「一杯飲みに行こうか」といって友達になったと言う。
 また三年生の時、日大校友会雄弁大会に出場し、日大の講堂の二千人の前で弁舌を振るい、メダルをもらったこともあった。※※は、その時のことを「先生が原稿を示し、これを全部暗記してしゃべりなさいというんだよ。『だれも私が書いたとわからないからね』と。本当はそれじゃいけないんだよ。『あんた南方人だから一人くらいやって見ろ。どんな声だすか聞いてみたい』と言われた。馬鹿にしてるよ、これは絶対暗記してやろうと思って、日中の仕事の合間に、先生が書いてくれた原稿を丸暗記してね、大会に出たら三位入賞だった。その時は、宮古島出身の比嘉君が、たった一人の味方で、向こうには二千人も応援団がいたからね」という。
 東京へ行き、差別を受け、金銭的にも大変な苦労をした※※は「苦労はしたが、行く先々で、何かにぶつかったら、いつも誰かが助けてくれて、先が開かれた。これが不思議だね」と言った。

 満州へ

 学校卒業後、就職の際も保証人がいないことが、ネックになった。※※は担任の大隈先生に保証人になってくれるように頼んだ。先生は履歴書を見て「お前は字が汚いから、銀行には向かない。だから商事会社がいい。先生が保証人になってやるから、悪いことだけはするな、辞めてもいいから、悪いことだけはするな」と言われて、「悪いことは絶対しない」と約束した。そして文具関係を扱う渡辺貿易という個人会社に就職した。そこで住み込みで二年間働いた。貿易会社に勤めていた時、日大三商の先輩から手紙を受け取った。そこには「満州に来れば、給料は三倍から五倍にはなるよ」と書かれていた。
 ※※は、旅費を貯めるため、毎月一銭も使わずに全部郵便局に持って行った。そのうち郵便局員と友達になって、「僕、住み込みで働いているから」と言って、通帳も郵便局で預かってもらっていた。満州からの手紙のやり取りで、詳しい旅費や就職先の情報を得ていた※※は、見通しのたった時点で、一人でいた渡辺貿易の社長に「満州に行きたい」という気持ちを打ち明けた。奥さんにはいつも食事面でお世話になっていて、辞めることを謝らなければいけないと※※は思ったが、社長が「もうこれ(社長の奥さん)にも言わないでいいから、あんたがそういう希望を持っているのだったら、辞めてもいいから」と言って、餞別をくれて、「今行った方がいいよ」と言われた。※※は夜のうちにこっそりと会社を出た。そしてその夜は友達の家に泊まって、翌日、満州に向けて旅立った。
 東京から汽車に乗り三〇時間程かけて福岡の門司港まで行き、そこから船で釜山まで行き、さらに汽車に乗りかえて満州へと向かった。この時のことを※※は「あの時は日本の国策として、若い者はみんな大陸に行きなさい、ということでポスターなどもあったわけ。『青年よ、大陸へ』と。そういう風な時代だったから、『よし、大陸へ行こう』と簡単に行けたんですよ」と振り返る。

 就職

二宮文部大臣(中央)の視察、前列左から3番目が※※氏(浜江省木欄県の満拓事務所前にて)(山内※※さん提供)
 満州に到着した※※は、まずハルビンの日本人街にあった常盤百貨店で「ただ、飯を食うために」働いた。向こうはきちんと履歴書を持ってきて就職しなさいと言ったが、※※は入社試験を受けて満州拓殖公社に入る希望を持っていたので、それまでの間、今でいうアルバイトをしていたのだ。そして、浜江省のハルビンにあった満州拓殖公社ハルビン事務所の採用試験を受けた。この時も保証人が必要だったが、東京時代に知り合った稲葉※※(新田男爵の奥さん)という方が保証人になってくれた。※※は、試験をパスして満州拓殖公社で経理の職に就くことができた。この会社は新京(長春)に本社があったが、奥さんの※※は「これは拓務省と同じで、公務員のようなものです。満州開拓団関係の事務をする、いわゆる役所のような所です。まず満州鉄道が先に敷かれて、そのあとから開拓団が行って平地を開拓していったのです」と言った。
 この頃、二宮文部大臣が満拓視察ということで、ハルビンへ来ていた。
 当時のハルビンの町には、日本人がたくさんいた。日本人だけでなく、三〇か国以上の人々が集まっている国際都市であった。白系ロシア人の暮らすキタースカイにあったロシア人街、その他に日本人街や、「満人」街、「朝鮮人」街などもある、大都会であった。

 結婚

長女※※の百日記念(ハルビンにて)
 二十四、五歳だった※※のもとには、実家から矢のような催促の手紙が来ていた。内容は、※※とのお見合い結婚を勧めるもので、「まだ、嫁ももらわんが、ヤマトンチュ(本土の人)とでもくっついて、沖縄に帰ってこなかったら大変だ、一人者でいるかどうかもわからない」ということであった。当時満州には、村出身で満州黒河で軍の部隊長をしていた、※※の叔父にあたる山内※※や、華陽開拓団長として満州に来ていた知花※※がいた。この方達がハルビンにくる度に、お酒の席で「もう、(※※を)必ず絶対連れてこいよ」といい、※※は「売れ残りを人に押しつけて、僕はあんたの部下じゃないのに」と言ったりしていた。しかし、※※の写真を受け取った※※は「あんたがた、うるさいからもういいよ、結婚するよ」と言って、※※を連れて来るために一月の休暇を貰い、沖縄に戻った。
 ※※は当時、東京にある農林省の蚕糸試験場に勤めていた。女友達と寄宿舎でワイワイ楽しくやっていた頃で、家から何の相談もなしにお見合写真が送られてきて、「何月何日に帰ってこい」という電報を毎日のように受けとっていた。仕方なく読谷に帰ったら、すぐ結婚式だった。※※は「昔はそういうのがたくさんあったんじゃないですか。私だけじゃなくて。好きの嫌いの言わせないの。お家とお家ですからね」と言った。昭和十六年一月十一日、はじめて会った二人は結婚式を挙げ、その一〇日後、満州へ向かった。

 満州の気候と生活

 暖かいのはせいぜい七、八月頃だけだった。その時期には、一般のロシア人のカップルが川辺を水着姿で歩いたり、くっついてブランコに乗ったりしていた。※※はその様子をみて、びっくり仰天したという。
 ハルビンの寒さは大変なもので、冬は零下三〇度まで下がり、外に出るのも怖気づく程だった。九月頃から雪が降り始め、雪が解けて緑の芽が吹き出すのは六月になってからで、冬は川も凍り付いていた。ハルビンとソ連の国境を流れる黒竜江という川の上をトラックが走ったり、現地の人がスケートをしたりしていた。※※は、ハルビンを走る路面電車に乗るために、街角の停留所に立つこともあった。しかし、帽子にマスク姿で防寒服を着ていても五分と立っていられなかったという。足の踵が針で刺されるように痛むので、ずっと足踏みしていたという。
 結婚後、山内夫妻は拓殖公社の立派な社宅(第一信託アパート)に住めるようになった。開拓団として満州に行った人々の生活は、大変厳しいものであったが、拓殖公社に勤めていた山内夫妻は、豊かなくらしであった。室内はスチーム完備で、ひどく寒い冬でも浴衣一枚で過ごせる程暖かかった。煙草は配給制ではあったが自分でわざわざ買いに行くことはなく、物資の面では非常に優遇されていた。
 沖縄で、終戦後、アメリカ人が沖縄の人をハウスボーイやメイドとして雇っていたように、当時満州の日本人は恵まれた生活をしていた。山内夫妻宅にも中国人のメイドがいた。掃除や風呂炊きなどはクーリー(苦力)と呼ばれた大柄な中国人男性がいつもやってくれていた。「満語」(現地の言葉)は全然分からなかったが、全て日本語で通用した。
 ハルビンの満鉄病院には、村出身の長浜※※医師が医者として勤務していた。
 昭和十七年二月に長女が生れた。ハルビンに大きなデパートがあり、そこで子供服などいろんな買い物が出来た。しかし軍事色一色の時代なので男性は共和服(大東亜共栄圏にちなみ作られた服)しかなかった。

 淡谷のりこ慰問公演

 雪解けの四月頃、ハルビン会館に淡谷のりこが慰問公演に来たことがある。淡谷のりこが歌っているときに、積雪の重みで会館が押しつぶされて、一階に座っていた観客が下敷きになって亡くなったことがあった。※※はその公演に行ってなかったが、その時新婚さん二組が亡くなったことを覚えているという。舞台の上にいた淡谷のりこは無事であった。

 戦争開始

 昭和十六年に太平洋戦争が始まったが、山内夫妻は昭和二十年の終戦になる頃まで、ずっと普通の生活をしていた。※※が、娘さんと買い物に出ている時、一度空襲警報があり、逃げ帰った覚えがあるだけで、実際の空襲や戦闘は全く経験していない。

 ソ連軍の進駐

 終戦直前にギター(自動小銃を持ったソ連兵の俗称)が満州に入ってきた。山内夫妻の社宅の向かいは、ソ連の領事館があり、その隣にハルビン工業大学の学生寮があった。そこに住む二十歳前後の日本人学生達が全員両手を挙げさせられて、ソ連軍に引っぱり出されていくのを夫妻は目撃している。みんな若い人達で、かわいそうに思ったが、どうしようもなかった。
 ソ連兵は二、三名で銃を抱え、ブーツのような軍靴を履いたままで、家の中に入って来て押し入れやタンスから何もかも引っぱり出して、自分の欲しいものを持っていった。洋服はサイズが小さいので一枚も持って行かなかったが、万年筆や腕時計などを持って行った。ソ連兵が満州に来たすぐ後に終戦になり、今度は八路軍(中国軍)が来た。

 終戦

 昭和二十年八月十六日、終戦になった翌日、満州拓殖公社が解体された。突然、仕事に来なくていいということになった。何も知らない民間人は取り残されていたが、今までたくさんいた関東軍の兵士が終戦の翌日からパッと見あたらなくなった。ハルビンの町ではソ連人と中国人による、「日本人狩り」が始まった。大きなトラックが道端に待っていて、そこを日本人男性が通りかかるとトラックへ引っ張られて乗せられ、そのままシベリアへ連れて行かれた。シベリアで強制労働をさせられたあげく、今なおシベリアから帰ってきてない人がたくさんいる。山内夫妻の社宅にソ連兵が入って来たとき、※※は病気で、ベットに横たわっていた。それで、ソ連兵も連れて行くのをやめてそのまま出ていった。※※は、当時、リンパ腺がひどく腫れ上がる病気を煩っていたため、軍隊への召集を免れた。その時は心苦しい思いだったが、この病気の為に、ロシア軍にも連れて行かれなかった訳で、今思うと、病気をしていてよかった。※※は「何が良いことで、何が悪いことか、あとになってみないとわかりませんね」と言う。
 今までクーリーを使っていた日本人と地元の人の身分が逆転し、ひどいインフレで貨幣価値も変わり、昨日使っていたお金が今日はもう紙切れ同然となっているという混乱状況になった。山内夫妻の知人で、この時外に出て、そのまま帰ってこなかった人々がいる。※※は、この頃一度会社まで行ったが帰宅してからは、※※が「外に出るな」と出さなかった。そうして一か月間は家の中に閉じこもっていた。
 満拓の社宅は堅固な二重扉になっていたので、中に入られて色々取られないように奥さん達で当番制にして見張りを立てた。各家庭の扉に縄を張りめぐらせて、空き缶をぶら下げ、それを引っ張って合図をし合っていた。山内夫妻が怖かったのはそのぐらいであったが、社宅以外では、若い女性がトイレまで逃げてもそこで強姦されたとか、独身女性の寮などは、みんなまとめてどこかへ連れて行かれたとか、その後殺されたとか、実際には見ていないが、そういう話はたくさん聞いた。
 戦争中は苦しいということはなかったが、戦争が終わって収入が無くなり、インフレでお金の価値も変わるし、一瞬に全てを失った。そこで、※※の着物を※※が市場へ持っていって「満人」に売ったり、「満人」街から買ってきたタバコの葉で、刻み煙草を作って駅前で売ったりして、何とか食いつないでいた。

 引揚げ

 昭和二十一年九月に引き揚げたが、その時※※は九か月のお腹を抱えていた。そのお腹にアルバムなどを隠して持ち帰った。ハルビンから博多に着くまで四〇日間かかった。身重の体での長旅であったが、※※は「子供がお腹の中に居てくれたから助かった」と言う。それは、もし生まれていたら、授乳やおしめなどの世話が、水のない列車や船の中では大変なことだったからだ。山内家族は、遼寧省のコロ島という港から福岡行きの船に乗った。この時、臨月を迎えようとしていた※※は、医療設備のある病人を乗せる船に乗るようにと言われたが、「家族と一緒にいたい」という思いで※※と一緒に一般の船に乗った。船倉からトイレのある甲板への往復には、梯子を登り降りしなければならなかったが、※※は当時四歳だった長女の※※に、後ろから押してもらったりして梯子を登ったことを覚えている。この引き揚げの旅では、日本に帰るという喜びが大きくて、辛いとか苦しいとかそんな思いはなく、体調もよかったという。
 その頃、沖縄は全滅という話を聞いていたので、「沖縄はもう無い」と思っていた。それが、福岡に着いて、同じく満州に行っていた従兄弟の仲宗根※※と再会し、沖縄はまだあるということを知った。
 引揚げてきた翌月、※※は、福岡の古賀陸軍病院で長男を出産した。福岡には、外地から引揚げてきた人々の収容施設が、出身地別に設けられていた。各地から引揚げた沖縄の人達は欽修寮という名の施設に収容された。そこは大きな病院であったが、患者が多くて大変だった。※※にとっては幸せな出産であったが、産科では、外地で強姦されて身ごもり、故郷へきれいな体で戻るためにと、中絶手術を受ける女性が大勢いたそうだ。山内一家は欽修寮で四年間を過ごした。
 昭和二十六年、福岡から、沖縄には戻らず、お互いに東京をよく知っていたので東京へ行った。
 昭和四十五年、長男が琉球大学に入学したのをきっかけに、山内夫妻も三〇年ぶりに沖縄に戻った。※※も※※も、小学校卒業以来、長く沖縄を離れて、全く環境の違う所でくらしてきたので、沖縄戦も戦後の復興期の様子も知らず、最初はとまどいもあった。しかし、今振り返ると本当に戻ってきてよかったと言う。

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